追憶

 生方喜八郎うぶかたきはちろうは貞春の父親であると同時に、生来の絵描きと表現して差し支えない男だった。現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校を卒業し、母と駆け落ち同然で結婚後、油絵一筋で全国を津々浦々行脚する生活を送る。


 風来坊な一面と、しかし一度自宅に帰ってくるとどの家庭よりも家族を慈しみ、旅先で得た見聞を元に絵画を描く父親の姿に憧れていた。


 同世代には藤田嗣治ふじたつぐはる宮本三郎みやもとさふろう小山敬三こやまけいぞう岡田謙三おかだけんぞうと、その他にも有名な画家が数多く表舞台で活躍した昭和初期という時代において、喜八郎も含め明治以降の洋画家たちは、油絵の伝統技法や新様式を理解するためにパリへ留学することが一つの目標でもあった。


 父の絵は風景画が多く、従来の墨で描かれた平坦な日本画もそれはそれでおもむきを感じたのだが、父が油彩絵具で描く古き良き日本の山野の風景は、ごてごてとした絵肌から伝わる力強い立体感と、言葉では表現できない色彩の対比が豊かに思えた。


 物の美醜など判別もつかぬ乳飲み子の頃から、父にそれとなく与えられたクレヨンを握りしめていた貞春は、紙に思い思いの絵ともつかぬ落書きを書き殴っていた記憶を十数年経った今も不思議と覚えている。


 旅先から帰ってきた父が、一人電気もつけずにアトリエの中に籠もる。

 月光が差し込む室内で、イーゼルにはまっさらなカンバスが立てかけられている。

 雲の隙間か覗く満月を椅子に腰掛けて見上げていた父が、そこかしこに散らばる油彩絵の具のチューブの海の中で、彼の地への憧憬しょうけい諦観ていかんを滲ませるように吐露した事がある。


 ふらんすへ行きたしと思へど

 ふらんすはあまりにとおし


 後になって知ったが、それは萩原朔太郎はぎわらさくたろうの詩の一節だった。

 現在のように気軽に渡航できるはずもなく、当然船で太平洋を渡っていくわけだが船旅は途方も無い時間と費用がかかる。

 家が一軒建つほどの資金が必要とされ、若手画家たちが留学資金を調達することはそう容易ではなかった。


 裕福な家の子弟は困窮する画家を尻目にパリに渡り、幸運にもパトロンを手に入れた若き画家は酒や女と優雅な生活を送っていた。芽が出ず帰国するものもいれば、新技法を会得してパリ画壇の寵児と持て囃された画家もいる。


 父は少しでも嫉妬しているかと思いきや、「だからこそフランスに夢がある」と語っていた。


「じゃあ、いつか皆でふらんすに行けるといいね」


 それがどれほど難しいことかも知らずに無邪気に貞春は言い放つ。


「ああ、いつか皆で新天地に渡ろうな」


 父が息子に画家の道を勧めていたかどうか、直接訊ねたこともなければ本人から画家を目指せと言われた試しもない。ただ、少しずつ大きくなるにつれ、自然と父から基本的な技法を目で見て盗むようになり、完成した作品を自慢気に見せると貶すことなく褒めてくれた。絵を描く事が好きでたまらない時代だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る