追憶
風来坊な一面と、しかし一度自宅に帰ってくるとどの家庭よりも家族を慈しみ、旅先で得た見聞を元に絵画を描く父親の姿に憧れていた。
同世代には
父の絵は風景画が多く、従来の墨で描かれた平坦な日本画もそれはそれで
物の美醜など判別もつかぬ乳飲み子の頃から、父にそれとなく与えられたクレヨンを握りしめていた貞春は、紙に思い思いの絵ともつかぬ落書きを書き殴っていた記憶を十数年経った今も不思議と覚えている。
旅先から帰ってきた父が、一人電気もつけずにアトリエの中に籠もる。
月光が差し込む室内で、イーゼルにはまっさらなカンバスが立てかけられている。
雲の隙間か覗く満月を椅子に腰掛けて見上げていた父が、そこかしこに散らばる油彩絵の具のチューブの海の中で、彼の地への
ふらんすへ行きたしと思へど
ふらんすはあまりにとおし
後になって知ったが、それは
現在のように気軽に渡航できるはずもなく、当然船で太平洋を渡っていくわけだが船旅は途方も無い時間と費用がかかる。
家が一軒建つほどの資金が必要とされ、若手画家たちが留学資金を調達することはそう容易ではなかった。
裕福な家の子弟は困窮する画家を尻目にパリに渡り、幸運にもパトロンを手に入れた若き画家は酒や女と優雅な生活を送っていた。芽が出ず帰国するものもいれば、新技法を会得してパリ画壇の寵児と持て囃された画家もいる。
父は少しでも嫉妬しているかと思いきや、「だからこそフランスに夢がある」と語っていた。
「じゃあ、いつか皆でふらんすに行けるといいね」
それがどれほど難しいことかも知らずに無邪気に貞春は言い放つ。
「ああ、いつか皆で新天地に渡ろうな」
父が息子に画家の道を勧めていたかどうか、直接訊ねたこともなければ本人から画家を目指せと言われた試しもない。ただ、少しずつ大きくなるにつれ、自然と父から基本的な技法を目で見て盗むようになり、完成した作品を自慢気に見せると貶すことなく褒めてくれた。絵を描く事が好きでたまらない時代だった。
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