貴重な休日を無為に浪費したその日の夜。倉で見つけた油絵の貸し出しについて尋ねようと事務室のドアノブを回すと、午後十時を回った時間にも関わらず照明を落とした室内に、パソコンの灯りに照らされた母の顔が浮かんでいた。


 目頭を揉みながら、未だ仕事に向かっている表情は記憶にないほどやつれているように見えた。


「こんな時間まで仕事してんのかよ。電気ぐらいつけりゃいいのに」

「わっ、ビックリさないでよ。私一人なんだし電気つけっぱなしにするのも、もったいないじゃない」


 部屋の照明を明るくすると、はっと顔をあげた母は春彦に気がつくと胸を撫で下ろし、すぐにパソコンに視線を戻して仕事に戻った。何をしているのか後ろに回って尋ねると、画面にはエクセルで作成された従業員のタイムスケジュールが表示されている。


 普段は父が任されていたシフト管理に手間取っているようで、老眼鏡を外すと背筋を伸ばして首を鳴らした。


「お父さんは私に任せれば大丈夫なんて言ってたけど、私なんておんぶにだっこで、パソコンもろくに使えないんだから。五十の手習いってやつね」


 パソコンの横には付箋がびっしり貼られたエクセルの入門書が置かれていた。椅子を回転させて振り返った顔には隠しきれない濃いくまが浮かんでいて、いつの間にこんな老けたのかと胸が痛くなった。


 最近はふたりきりで話すこともなく、なにか話しかけられても顔を見ずに生返事ばかりで、久しぶりに真正面から親の顔を見た気がする。蛍光灯の下の横顔には、隠しきれないシワがいくつも刻まれている。

 生え際の白髪を目敏く見つけながら、心淋うらさびしさを感じた。


「そこどいて。そんなんじゃ朝になっても終わらないから」


 あまりに辿々しい手付きに焦れったく思った春彦は、母を横に押しのけて椅子に座る。


「なによ急に。もしかして、お母さんを労ってくれてるの?」

「は、そんなんじゃねぇし」


 ブラインドタッチなど自慢にもならないが、キーボードを叩く横から覗き込む母の横顔は、タネも仕掛けもわからない手品を見るように口を開けて関心しきりの様子だった。


「そういえばさ、親父とお袋って今年で何歳になるんだっけ?」

「お父さんは今年で五十二で、お母さんは先月五十になったばかりだけど、それがどうしたの?」

「いや、当たり前のことだけどさ、ふと、親っていつまでも元気でいるわけじゃないんだよなって思って」


 卓上のカレンダーを先月に巻き戻すと、控え目に赤いペンで母の誕生日に小さな丸が記されていた。再びめくると父の誕生日にも、茉奈の誕生日にも、春彦の誕生日にもそれぞれ丸が記されている。


 そういえば――誕生日には必ず母から誕生日を祝うラインが送られてきていた。一々返信するのも気恥ずかしかったので、既読だけして放置してもなにもとがめられず、反対に自分はただの一度も両親の誕生日に連絡をしたことはなかった。


 そもそも両親の誕生日もうろ覚えで、今の今まで何歳になったのかすら聞き出すまで記憶が曖昧だった。茉奈は記念日の類には欠かさず両親にプレゼントを送っているというのに、春彦は小学生の時に手作りの似顔絵をプレゼントして以来、何もあげたことがない。


「まあ……夏休みの間だけなら、親父の代わりに仕事頑張るからさ、あまり無理はするなよ」

「春彦、あんた夏風邪でもひいたんじゃない? 薬飲んで早く寝なさいよ」


 せっかく人が気を利かせたというのに、母は引き出しから体温計を取り出すと、体温を測るように勧めてきた。


「熱なんてないっての。あと、話があるんだけどさ」

「なに?」

「ゲンさんに蔵の掃除を頼まれた時に見つけた油絵があるんだけどさ、祥子の大学の教授に近々開催する個展で使えないか打診されてるんだよ」

「あら、あの蔵にそんな有名な絵があったの?」


 手伝うついでに溜まっていた事務作業を代わりにやりながら、昼間の出来事を話すも母はさして興味がなさそうだった。


「その作家はさほど有名じゃないみたいだけど、なんだか妙に胸に迫るというか、でも真贋をはっきりさせないといけないから、一度実物を見せてほしいんだと」

「そういうことなら私は構わないけど。そうそう、私も春彦にゲンさんのことで伝えなきゃならないことがあったの忘れてたわ」

「ゲンさんのことで?」

「実はね、ゲンさんのお母様の体調が優れないようで、しばらくお仕事を休むみたいなの」

「あ、最近仕事を休みがちだったのってそれが理由か」


 私用で仕事を休みがちだったゲンさんは、決して春彦に教えてはくれなかったが脳梗塞で倒れた母親の面倒を見るため、実家がある広島に頻繁に帰っていたことを初めて聞かされた。


 兄弟はおらず、親戚は九州に住んでいるため頻繁には顔を出すことができないようで、距離的に一番近いゲンさんが仕事の合間を見ては日帰りで介護をしているという。あの老体の何処にそのような力があるのか、改めて驚かされる。


 しかし、そのような生活が続けられるわけもなく、父親を原爆で亡くしながらも女手一つで育ててくれた母を施設に入れるのは忍びないと語っていたらしく、近いうちに実家に戻って農家をしながら介護をすると母にだけ伝えていた。


 事情が事情なだけに母も引き止めるわけにもいかず受け入れたが、瑞鳳苑の生き字引とも言えるゲンさんが抜けるということは、大きな損失になると深い溜息を吐いた母は、傍らに置いてあった煎餅に手を伸ばした。

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