四
約束の時間から二十分ほど遅れることが、世間的に〝少し〟遅れるの範疇に含まれるかどうかはさておくとしよう。
待ち合わせの駅前にやってきた祥子は、何故か知らないが茉奈を連れて姿を現した。
「なんでお前がここにいるんだよ」
「なんでって言われても、祥子姉から誘われたんだもん。受験勉強ばかりだと滅入っちゃうし、たまには気分転換しないとねって。あ、もしかして……二人きりだと勘違いさちゃった?」
「べ、別に期待なんてしてねぇし」というのは完全に嘘で、顎の下からシャツの襟首に流れ落ちるベタつく汗を拭いながら、適当な喫茶店にでも入ろうと暑さにうんざりした様子の祥子についていく。
二人と一人に分かれ、当然春彦が一人で祥子と茉奈の
何処かにショッピングにでも出掛けていたのか、祥子は駅前にある画材専門店の買い物袋を手にしていた。茉奈は若者向けのブランドのロゴが記された袋を肩から下げ、実の兄には見せたことがないような笑顔を向けている。
一人っ子だった祥子は、昔から茉奈みたいな妹がほしいと口にしいて、茉奈は茉奈で祥子のような姉がいたらよかったと羨んでいた。そんな二人だから春彦が神戸に帰らなくなったことをいいことに、頻繁に二人で会っているらしい。
春彦は喫茶店など全国チェーン店で十分なのだが、女性というのは年齢関係なくお洒落な空間を好むもので、駅前から七分ほどかけて歩いた先にある倉庫をリノベーションした喫茶店に到着した。
吹き抜けの天井にシーリングファンが回転し、木材を基調として店内には意識高い系の人種が好みそうなジャズが流れている。付き合っていた時から気取った店がどうにも苦手で、求められない限り足を運ぶことのない店内は大勢のカップルや女性客で混雑している。
店員にメニュー表を手渡され、どれにしようか楽しげに悩んでいる二人とは対称的に、春彦の頭の中には先程隼也に聴かされた話がぐるぐると駆け回っていた。
その時、隣の席から漏れ聞こえてくる会話が自然と春彦の耳に届いた。
「てかさ、聞いてよ。バイト先の先輩めっちゃカッコいいんだけど」
「あの人って彼氏なかったっけ?」
「いるけどさ、一目惚れしちゃったんだもん。なんなら今の彼氏つまんないし、乗り換えもありかなって」
「うわ、最低」
聞こえてくる馬鹿なやり取りと下卑た笑いが、他人事とは思えず胸深くに突き刺さる。祥子と
「なによ、大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫」
今は祥子のさりげない気遣いさえ苦しかった。正直瑞鳳苑で働いていたほうが良かったのではないかと、遅すぎる後悔に悩まされていると察しのいい茉奈から、何か考え事でもあるのかと腹の内を探られるような問いかけを投げかけられた。
「なんでもない」
運ばれてきた水を飲み込むことで答えを濁すと、特に興味もなさそうに「ふうん」とスマホを弄りだす。
あわよくば今日の再会をきっかけに
注文したアイスコーヒーが目の前に置かれると、ストローで吸い上げるそれは普段より苦味が強く感じられた。忙しなく店内のあちこちに視線を向けていた茉奈は、インスタ用の写真をいくつか撮りながら祥子に話しかける。
「祥子姉、よくこんな店知ってたね。来たことあるの?」
「うん。前に連れてもらったことがあってね、その時に雰囲気がいいなと思って、いつか茉奈ちゃんも連れてきたいなって考えてたんだ」
誰と来たんでしょうねと、つい卑屈になる自分に嫌気が差す。自分はこんなにも未練がましい男だったのか。
そこで気がついた。そもそも彼氏がいるからこそ、二人きりで会うことを避けたかったのでは――。
「どうでもいいんだけど、今日の目的はなんなんだよ」
投げやりに尋ねると、それすら意に介さない祥子は「そうだ」と思い出したように口にし身を乗り出した。
「春彦から送られてきた絵の写真なんだけどさ、うちの教授に見せたら興味持って、良かったら現物を見せて欲しいって頼まれたのよ」
「さっきから二人ともなんの話してんの?」
共通の話題についていけないことが嫌なのか、不機嫌そうに茉奈は口を開いた。
そういえば茉奈に伝えてなかった事を思い出し、瑞鳳苑の蔵で大量の美術品を見かけた話を伝えると売ったらいくらになるのか目の色を変えて迫ってきた。
その瞳の奥には今すぐにでも然るべきところに売り払って、自分の大学進学にかかる費用に補填できやしないか、企んでいる光が妖しく輝いているのが見て取れて我が妹のことながら、少し腰が引けた。
「仮に全て本物だとしたら、総額で数千万円、下手したら億は下らないビッグネームばかりなのは確かだけど、そういった作品は圧倒的に
「なんだ、じゃあご先祖様が騙されてたってこと?」
「骨董なんてそんなもんだろ。例え偽物でも本人が本物だと思い込んでたら、間違いなく本物なんだよ」
グラスの中の氷が溶けて、カランと音を立てながらアイスコーヒーは水で薄まっていく。
祥子との関係も実は偽物で、自分が本物だ思い込んでいただけなのだろうか――。
「あの絵には署名がなかったみたいだけど、教授の見立てでは太平洋戦争末期に三十七歳で戦死した、
「生方喜八郎って誰?」
ズズズと、音を立ててメロンクリームソーダを吸い込む茉奈が上目がちに尋ねると、流石美術の教師を目指しているだけあって当時の画家がおかれていた環境を踏まえながら、
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