憧れのその先 その10

 音楽が鳴り始めるまでの緊張はたまったもんじゃない。それが昔と変わらなくて美鶴は動かないようにじっとしているだけで精一杯だった。だから、ようやく鳴り始めたというのに、動き始めるのが遅れてしまったりもする。


 それを咎められることはないし、たとえ観客席から観ていたとしても気づかれることはきっとないだろうと言うレベル。


 でも、この瞬間にすべてが決まってしまうような気がしてならなかった。


 苦手だな。


 だから、数年たった今でもそう思う。


 一回曲が始まってしまえば、あとはノンストップで演技し続けることしか出来ない。一歩一歩を滑りが加速するように力強く蹴る。それもがむしゃらに蹴ってはいけない。その動作も演技の一部だからだ。


 とてもじゃないけど琥珀さんたちと比べると拙いものでスピードも遅い。それでも形にはなっていると思う。


 昔はもっと追い込まれるように滑っていた。曲についていくのが精一杯で、どたばたしてみっともないと思ったことがある。自分のことを映しているビデオカメラのことを恨んだりもしたものだ。


 曲が転調してゆったりとしたところでスピンに入る。基本的には左足の刃を左に傾けて円を描くようにしていく。それを段々と小さくしていくとある一定のところで身体をひたすらに細くすることをイメージする。それこそ糸のようになれと教えられたこともある。


 上手になれば姿勢を変えたりして、見栄えをよくするのだけれど。美鶴の場合は基本中の基本姿勢、立っている姿勢のまま回る。スタンドスピンって名前のスピンだ。真っ直ぐ立つだけ。でもそれだけでも美鶴としては充分だ。


 スピンが終わったことを表すためにバックの右足でフィニッシュする。ちょっとだけ目を回すけれどそこで休んでいる暇はない。そのまま前を向くと続けて加速してそのままジャンプだ。美鶴が跳べるジャンプは一回転のものだけ。二回転以上は、未知の世界だ。想像もつかないくらいその壁は厚い。


 右足を前に出しながら、左足をバックの位置に置く。宙に浮いた右足を大きく回しながら身体の左側に持っていくようにするのと同時に左足で踏み切るとフワッとした感覚がある。くるりと身体が回ったのを確認すると右足での着地を目指す。


 なんとか着地する。なんとかなった。そう一安心する。それでも曲は止まることはないのはまだ一分も経過していないからだ。


 すでに息は切れ切れだ。それでも踏ん張るように滑り続けた。


「お疲れ様。随分と身体に染み込んだみたいだ。笹木さんはがんばりやさんだね」


 美鶴からすればようやくだ。振りを教えてもらって以降、ずっと頭の中でイメージし続けたものだ。やっと身体がついてきてくれた。


「まだまだです」


 これは謙遜じゃない。本音だ。


「無理し過ぎだけはだめだよ」

「はい。気をつけます」


 そうしている間に、次の曲が流れ始める。琥珀さんの曲だ。本当に自分と同じ動きなのかと思うほどの華麗な一歩だ。流れるようなその動きに惚れ惚れしてしまう。


「立花さんと比べちゃだめだよ」


 上里コーチの言葉にドキッとする。そんなにわかりやすいのだろうか。


「そんな訳ないじゃないですか」


 ちゃんと、そういう顔が出来てきているだろうか。自信は持てなかった。


「美鶴ちゃんお疲れさま」


 琥珀さんが待ちぼうけていた優太くんを腕の中に受け入れながら、こちらをねぎらってくれる。練習終わったばかりなのに元気な姿を見ると、敵わないなとしみじみ思う。


「琥珀さんもお疲れ様です。優太くんもちゃんと待っててえらいね」


 顔を近づけると、ちょっとだけ恥ずかしそうに目を背けたりするのは可愛いなと思う。


「琥珀さんの仕上がりは順調ですか?」

「まずまずね。やっぱり昔みたいには身体が動いてはくれないなって思っちゃうけどね」

「そんなことないですよ。すごいキレイでした」

「またまた。褒め過ぎだよぉ」


 そう謙遜するけれど、顔は嬉しそうだ。


「ママキレイ?」


 それに反応する優太くんがまた、たまらなく可愛い。


「うん。ママのスケートすっごいキレイなんだから」

「えっ。私自身じゃないの?」

「ふふ。琥珀さん自身もです」


 そう言って笑いあえる。この時間がずっと続けばいいのに。そう思わずにはいられなかった。でもそれも対抗戦が終わるまでだ。祭りは準備期間が一番楽しいと言うけれどまったくその通りだと思う。


「さ。帰ろっか」


 夜も遅いわけではないのだけれど優太くんもいれば出来るだけ早く帰りたいのだろう。ご飯だってこれからのはずだ。


「はい。そうしましょう」


 そそくさと荷物をまとめてスケートリンクの自動ドアへ向かう。その前に誰かが立っているのを見つけて、道を譲った。


 なんだか不自然な感じがしておやっと思う。琥珀さんの動きが固まったのだ。


「ごめん。美鶴ちゃん。優太を預けてもいい?」


 そういいながらすでに優太くんを腕の中から引き離そうとしているからにはよっぽどなのだろう。


「よう優太。久しぶりだな。相変わらず泣き虫な顔してるな」


 知らない男の人の声だ。でも自動ドアを開けて入ってきたその人のことが誰だかはわかった。


「優太くん、いこ。琥珀さん大丈夫ですか?」


 離れていいものだろうか。琥珀さんをひとりにして大丈夫だろうか。そんな不安を振り切れるはずもない。


「大丈夫だから。待っててね優太」


 琥珀さんにそう言われてしまったらやっぱり従うことしか出来ない。なんで連絡よこさないんだ。そう聞こえるのを必死に振り払うようにスケートリンクの奥へと逃げるように戻った。


「海藤さん!」


 その大きな姿を見つけたのと同時に叫んでいた。その様子に緊急性を感じたのか海藤さんも慌てた様子で近寄ってくる。


「どうした?」


「優太くんのお父さんが外にいて、いま琥珀さんが」


 だったらどうだっていうのだ。他人が口を出していいものなのか。ちっともわかりやしない。でも、確かに琥珀さんの表情は明るいものではなかったし。優太くんを引き離そうといしいるのだから決していいことではないとは思う。


「わかった。様子をみてくるからここで待ってな」


 そう言って歩き出す海藤さんの背中が大きすぎてホッとできる。でもそれも一時的なものだ。


「どうしたの?」


 優太くんが不安そうにしている。当然だ、これだけ緊迫した雰囲気にしてしまったらどうしたのだか分からないだろう。幸いなことにお父さんだと気がついていないみたいでホッとする。もしかしたら琥珀さんの腕の中で寝かけていたのかもしれない。


「大丈夫だよ。ちょっと用事ができただけだから。一緒に待ってようね」


 それで納得したのかしてないのかよくわからないがまた眠そうにうとうとし始めている。


 暫くの間その姿を見ながら必死に冷静であろうと考え続けた。いくら考えようが、いやむしろ考えるほどに不安は雪のように心の奥底へ積もっていく。


 それに同時に後悔がどんどんと心を埋め尽くすかのように広がっていた。


 私が外に人がいるだなんて伝えなければ。琥珀さんと優太くんのお父さんが会うことはなかったはずなのだ。最後のメンバーだと勘違いさえしなければ。そのあと、そのことを琥珀さんに話をしなければ。


 もしかしたら。今みたいな状況にならなかった。そう思えてならない。


「震えてるの?」


 優太くんが目を覚ましている。気が付かないうちに身体が震えていたらしい。


「起こしちゃったね。ごめんね」

「寒いならギュってしていいよ。ママもいつもそうするから」


 何も言えなかった。琥珀さんと海藤さんが戻ってくるまでの間。どれくらいの時間が過ぎたのかはわからない。でも、ずっとそうしていたらしく。いつのまにか震えは止まっていて優太くんは美鶴の腕の中ですやすやと寝息を立てていた。

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