恋愛集「恋と呼ぶには早いのかもしれない」(短編集)

かさた

第1話 運転手の俺と杖を持つ君



「おはようっ! 運転手さん!」


 車に乗り込んだ彼女は、いつも元気に挨拶をしてくれる。

 俺は特別面白くはないし愛想もない。顔だって普通の方だと思う。それなのに彼女は、いつも明るい笑顔と共に元気の良い挨拶をしてくれるのだ。


「…おはよう」


 重い口を動かして何とか発した返事は、あまり気持ちの良いものではなかった。ただそれはそれでいつものことなので、あまり気にすることではないのかも知れない。俺は彼女がシートベルトをしたことを確認して、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

 次第に景色は流れ、心地よい加速感が身体全体を包んでいく。いつもの癖でラジオをつけると、車内のスピーカーから天気予報が流れた。

 今の時期はちょうど紫陽花あじさいが咲き始める頃。だからだろうか、今日の空は厚い雲に覆われている。天気予報を聞くまでもなく、今日は生憎の天気になりそうだ。


「そうだ、運転手さん。今日のお迎えは5時にお願いします」


「ああ、了解」


「ありがとうございます! はぁ…それにしても雨降りそう…。傘持ってくれば良かったなぁ」


 彼女は肩の少し上あたりで切り揃えられた髪を撫でながらそう言った。男の俺にはあまりわからないが、髪が長いと雨の日は特に大変なのだろう。


「折り畳み傘ならあるぞ。少し大きすぎるかもしれないけど」


 信号待ちのタイミングで、助手席に置いてあった黒い折り畳み傘を彼女に差し出した。

 デザインはコンビニでも売っているようなシンプルなものだが、今時の女子高生が持つようなものではない。俺がそのことに気付いたのは、彼女が折り畳み傘を受け取った後のことだった。


「え、いいの⁉︎ ありがとう、大切に使うね!」


 バックミラー越しで見た彼女は、それを大切に抱えながら満面の笑みでそう言っていた。おっさんみたいな傘で良いのだろうか。そう思ったが、彼女はそんな事を気にもしないのだろう。


「お、おう…。どういたしまして」


 そうして、暫くたわい無い会話をしていると彼女の通っている高校に近づいた。俺は正門近くではなく、いつものように教職員専用の駐車場に車を停める。


「忘れ物すんなよ」


「流石にしないよっ〜。 あっ、でも傘と杖は忘れないようにしないとね…って、私杖が無いと歩けないんだけどっ!」


 1人でボケてツッコむ様子を微笑ましく見ていると、彼女は少し怒ったようにその頬を膨らませていた。その様子も十分微笑ましいのだが、これ以上は機嫌を損ねてしまうかも知れない。


「ははっごめんごめん。今日は雨だから足元に気を付けてね。それじゃまた、いってらっしゃい」


「うんっ! 行ってきます!」


 元気な挨拶をする彼女の名前は、麻宮木葉まみやこのは。俺が勤める「木漏れ日電気株式会社」の社長、麻宮青葉まみやあおばの娘さんである。

 紅葉を思わせる髪とマリーゴールドのように輝く瞳。贔屓目無しに見ても木葉は美人だ。それに加え、成績優秀で明るい性格であり、クラスで人気があるのも頷ける。運動もかなり出来る方だったらしいが、今の彼女は杖がないと歩けない身体になっていた。


 段々と遠ざかる木葉の背中を見て、1ヶ月前のことを思い出す。

 青葉さんが言うには、普通に歩けなくなったのは3年前。交通事故に巻き込まれてた後遺症と聞いているが、詳しい事は聞いていない。そこまで聞く必要はないと思っているからだ。


「出社するか…」


 楽しそうに笑う高校生たちを横目に、俺は無意識にそう呟いていた。

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