第23話 夜空の中に

 押入れを開けたのはずいぶん久しぶりだ。でもそれは、俺の記憶の話だった。この世界においては、最後に開けられたのはそこまで前のようではないらしい。


 目当てのものはすぐに見つかった。そんなに埃も被っていない。正直予想外ではあった。

 冬の夜空は空気が澄んで星がよく見える――ふと、そんなことを考える。受験が終わった日の夜にでも、天体観測に繰り出したのかもしれない。記憶は少しも蘇らないけれど。

 結局、この唯一とも呼べる趣味をいつ止めたのか。それは定かではないのだ。なんとなく、その事実に胸がずきりと痛む。


 なんて、余計な感傷に浸っている暇はない。

 箱の中身をしっかり確認してから、さっさと部屋を出た。持ち上げるその重さに懐かしさを感じる。


 外に出ると、長峰先輩は外で待っていた。腕を組み車体に身体を軽く預けて、その視線は宙の方。とてもアンニュイな様子で、でもどこか様になっている。

 先ほど泉先生とわざわざうちの親に挨拶してくれた。どうぞ中で待っていて、という言葉をふたりは固辞した。遠慮なんて必要ないのにとは思うが、難しいところではある。


「お待たせしてすみません」

「いいえ、まったく。むしろ急がせてしまってごめんなさい」

「これくらいなんともないですよ」


 短く言葉を交わすと、後部座席の扉を先輩が開けてくれた。

 軽く頭を下げながら中へ入っていく。お疲れさまー、と運転席から朗らかな声が飛んできた。


「ではお願いします、泉先生」

 助手席に乗り込んだ先輩に、俺も続けて言葉を繰り返す。

「よっし、お任せあれ!」


 気合満々な声が聞こえてきたが、行きのときほど不安はない。泉先生は運転が上手だった。それに、そもそも辺りは住宅街。飛ばそうにも限度はある。


「さっきちらりと見えたけど、なかなかいいものを買ってもらったのね」

 ルームミラー越しに、天文部部長と目が合った。

「そうなんですか?」

「ええ。たぶん部にあるものより新しいモデルだわ。性能的にもずっといい」

「へえ。買ってもらったの、5年くらい前なんですけど」

「ふふっ、マイナー部の備品ってね、年季が入ってるものなのよ。今度、お姉さまに文句を言っておいてちょうだい」


 冗談めかした口調だけど、その目は全く笑っていなかった。切れ長の目で、ぐっと力が籠ると結構迫力がある。

 こちらとしては、ただから笑いするしかなかった。予算配分って世知辛いの、と元カノが昔悲しい顔で愚痴っていたのを思い出した。


 しかし、この望遠鏡そんないいものだったのか。隣りに置いた箱にそっと目をやる。

 当時は子供だったからよくわからなかった。使い出してからも、何も気にしていなかったっけ。あの頃夢中だったのは、詳細に見える数々の惑星。そして、その関心はその下に敷かれた黒い絨毯へと移っていった。


 車窓の外は変化に乏しい。辛気臭い顔をした青年がずっとこちらを見ている。この年頃が持つ夢や希望や情熱というものは一切感じ取れない。

 当時の自分もそうだったのだろうか。それは少しも思い出せない。いやでも、いくら自分が捻くれていた奴でも、そんなことはなかったと思う。若さゆえの楽観をちゃんと持ち合わせていた気がする。


 ほどなくして、車が止まった。徒歩だと少し時間がかかる道のりも、自動車にかかればこの通り。

 ルームライトを付けながら、泉先生が身体を捩じってこちらを向く。


「はい、到着。先生、車戻してくるから先行ってて」

「ありがとうございました」


 先生の小型車が闇に向けて走り出すのを見てから、俺と先輩は再び校舎の中へと戻る。普段は決して使うことのない職員玄関わきのインターホンを押すと、警備員さんが開けてくれた。


「大丈夫、重たくない?」

「平気ですよ。運び慣れてますから」

「それはそうだわね。でも、最近はあまりしてないんでしょう、天体観測」

「高校入ってからはちょっと忙しくて」

「わかるわ。高校生活って意外と大変だもの。でも本当にそれだけかしら?」


 意味ありげな問いだけど、先輩の言い方はどこまでも何気なかった。階段を登る足は決して止まらない。


「もちろん」

「ふうんそうなの。じゃあ落ち着いたらまた始めるのね」

「それは……」


 先輩の口調はどこまでも平然としていた。

 言葉を呑む。実は考えてなかったことではない。


 このイベントに参加して思ったが、やはり夜空を見ることは楽しい。今でも、星に――宇宙に心惹かれるところはある。

 でも、その先に道はないのだ。そうかつての俺は思った。今よりもちょっと先の未来に。それで、趣味としても遠ざけた。

 けれど、今なら。やり直しの対象は、別にあいつとの関係だけじゃない。言うなれば、高校以降の過去全て。実際、俺はこうして1周目はしなかったことに進んで首を突っ込んでいる。


「まあそれはキミの自由よね。それだけ立派な道具を持ってるのだから、ちょっと余計なお世話を焼いてしまったわ」


 ごめんなさい、と天文部部長は微かな笑みを溢す。屋上の扉の前で振り返った彼女は、どこか寂しげな表情をしていた。


 そんなことはない、とその背中に心の中で返す。この子との会話が、今日のイベントが、何か自分にとっての道しるべとなるような気がした。

 ちょうど、星の位置を頼りにした古の船乗りのように。




        ◆




 屋上は静謐さに満ちていた。今までの賑やかさはすっかり鳴りを潜めて、どこまでも穏やかな時間が流れている。誰もが星々に見入っているのだ。


 視界いっぱいに広がるのは、満天の星空。背中のひんやりとしたブルーシートの感触に、このための土足厳禁だったのか、と納得する。寝そべりながらの天体観測は格別だ。貸し出された毛布は温い。


 ただひたすらに息を呑む。自然の美しさに感動しながら同時に畏怖する。忘れていたはずの情熱が蘇り、つい胸が躍ってしまう。


 不意に、夜空へと誰かの手が伸びた。袖が少し捲れて、白い素肌が夜闇に浮かび上がる。位置関係から考えれば、それは藍星のものだ。


「綺麗だねー。ねぇ、あれは何座なのかな?」

「どうだろうな」

「あら、天文博士のアンタでもわからないんだ?」

「誰が博士だ。全部覚えてるわけじゃないからな。そのための星座早見盤だろ」


 そっかー、と藍星は円盤を掲げた。円盤と夜空を見比べては、へーとか、ほーとか感嘆の息を漏らす。

 なんだろう、このあどけない生き物は。学園のアイドル、形無しである。


 屋上から見ると、普段よりは近く見えた。でもまだまだ遠い場所だ。距離的な意味だけでなく、理解という面でも。

 人類は宇宙の全てを把握したわけではない。知っていることはごく一部で、宇宙にはまだたくさんの未知が存在する。

 その広大さに、無性に心惹かれるのだ。神秘的で、美して、でも時に残酷で、そんな物語をこの手で解き明かしたいと確かに思ったことがある。


「ね、涌井くん。どうして今日は誘ってくれたの?」


 いつの間にか、藍星の顔はこちらを向いていた。寝そべったままだから、髪の毛が顔の輪郭にそってしなだれている。それがちょっと艶めかしい。


「それは」言葉を切って少し考える。正直自分でもよくわからない。「なんとなく、藍星には星空が似合いそうだなって」


 絞り出した答えはあながち嘘でもない。図書準備室で、彼女がそう言ったときにピンときたのだから。名前に星が入ってるから親しみがある、なんてあの藍星凜々華がそんなことを言うなんて思いもしなかった。

 予想外の親しみやすさに、少し近づいてみたかったのかもしれない。自分のことなのに、よく実感は持てなかった。

 事実として、一緒に星空が観たかった。今はそれだけでいいと思う。圧倒的な光景を前に、思考が次第にぼやけていく。


 暗闇の中、藍星の様子はよく見えない。ただもぞもぞと動く気配に、また盛大に恥ずかしがっていることだけはわかった。ホント、純情だなこの子は、とつい口角が緩んでしまう。


「うわー、似合わないこと言うわね、アンタ。恥ずかしくないわけ? あたし、少し寒くなってきたんだけど」

「夜も更けてきたからな。鳥類には厳しい時間だ」

「残念でしたー、フクロウとかは夜行性ですー。って、誰が鳥よ!」


 ちょこんと、幼馴染の足がこちらの足に触れた。わざわざこちらの毛布に進入する形。

 少し照れ臭くて、軽く触れ返す。そうすると、向こうもまたやり返してきた。

 そんな子供みたいなやり取りをやや繰り返して、どちらともなく笑い合う。またこの幼馴染とこんな風に仲良くできるなんて、まさに夢のようだと思う。

 結局は、やり直しとはそういうことなのだ。


「やっぱり、涌井くんはこういう道に進みたいの?」

 いつの間にか、藍星は動揺からは立ち直ったらしい。

「進路のことか? ……うーん、まだ考えていないかな」

「藍星はどうするか決めてるのか?」

「うん。私は医療系に進みたいんだ。もっと言うとね、看護師になりたい」


 思わず目を向けると、その横顔は真剣そのもの。言葉もどこか力強い。ひしひしと決意を感じる。

 心の底からの目標なのだろう。人柄を知る今ではそこまでの違和感はない。


 でも、俺はこの子の未来を知っている。在学中に雑誌モデルデビューを果たし、流れで芸能の世界へ。

 だから、てっきり初めからそういう志望なのだと思ってた。それに相応しい容姿を持っていて、本人も自覚的なのだ、と。

 今の彼女を見ていれば、それがどれだけ的外れだったかと苦笑してしまうが。


 だとしたら、どこで道を変えたのだろう。いや別に、看護師と両立してる可能性もあるけど。そうだとしても、違う意図が混ざったことには変わらない。

 でも、まだ高校に入ったばかりなのだ。今やりたいこと、興味あることを突き通せるは少数だ。俺がいい例だ。


「凜々華ちゃん、もう将来のこと考えてるのね。凄いなぁ」

「そ、そんなことないってば。陽菜希はどうなの?」

「あたしもこいつと同じよ。まだ何も決めてない。でも、理系科目は苦手だから多分文系ね」


 同じ、か。幼馴染の何気ない言葉にふとハッとさせられる。決めてない、とはいい言葉だと思う。未来のことを変に知っている今の俺にとってはなおさら。

 これからゆっくり考えればいいか。それだけは、周りにいる同級生たちと何も変わらない。高校1年生ってそういう生き物だ。


「好き嫌いはよくないぜ」

「人間向き不向きはあるものよ、学年1位さん」

「そうだ、そうだ。天才さんの嫌味だ!」


 それにしても、今日はよくこいつら徒党を組むな。

 やはり元の世界では考えられなかった組み合わせに、数奇な巡り合わせをひしひしと感じた。

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