三日目


 先程まで自分が収まっていた水槽は、水も抜かれて空となり、二人の執事がデッキブラシを持って入っていた。ユウティアは、不思議な気持ちで、壁際に置かれた大きなたらいから、縁に頬杖をついてその様子を眺めていた。

 午後から、ケデズの命令で水槽の掃除が始まった。水が半分ほど入った盥で、ユウティアは下半身を弓なりにし、たゆんだ部分だけを水に付けた格好で、既に一時間ほど過ごしている。


「あの水槽が徐々に綺麗になっていく様子は、見応えがあるな」


 アシュタロトが、興味深そうに話し掛けた。先程までは、真顔で盥の隣の揺り椅子を漕ぐことを楽しんでいたが、今はそれにも飽きて、両手で自身の杖を掴んだ状態のまま、執事たちの仕事を観察している。

 ユウティアは、「そうねえ」と気の無い返事をした。つい四日前までは、自分もああして掃除をする立場だったんだと、ぼんやり考える。


「アシュタロトは、ここにいない時、どこで何をしているの?」

「割り当てられた部屋で本を読んでいるか、屋敷の周りを散歩している。ここの住民たちとも話をしてみたいが、声を掛けると忙しいからと断られてしまう」

「そうでしょうねえ」


 小さく何度も頷きながら、ユウティアはデッキブラシで水槽の底を泡立てる二人を眺める。

 アシュタロトのことは、ケデズの知人だと従者たちに紹介していると聞いた。しかし、ケデズがこれまで知り合いをこの屋敷に呼んだことがないこと、ケネズの悪魔召喚と彼が現れた時期が重なること、アシュタロトの真っ赤な瞳と無表情から、その正体は勘づかれているようだった。


「ところで、彼らはユウティアと共に働いていたのか?」

「ええ。それぞれの名前も分かるわ」


 彼女の微笑交じりの一言が届いたのか、茶色い癖毛の青年はピクリと肩を震わせて、横を向いていた灰色の髪の中年男性はさりげない調子で背中を見せた。

 正直すぎる彼らの反応に、くすくす笑うユウティアに対して、アシュタロトは不快そうに口を歪める。


「その割には、非常に余所余所しく見えるのだが」


 ケデズに連れられてここに入って来た彼らが、主人の去った後、ユウティアのことをどうやって階段の下まで運ぼうか、長いこと揉めていた。最初はユウティアを盥に入れて運ぼうとしたが、二人で持つと均衡が取るのが難しい。

 確実で安全なのは、ユウティアを一人が背負うのだが、どちらもその役目を嫌がった。見かねたアシュタロトが、彼女をおぶって下まで運ぶことでやっと収まった。


「まあ、これは人魚になりたかった理由と通じるんだけどね、あたしね、みんなから嫌われていたの」

何故なにゆえに?」

「三年前にここに雇われたって、言ったでしょ? その前までのあたしの生活は、本当に酷いものだったのよね」


 当時を思い返したユウティアは嘆息し、懐かしむこともなく憂鬱そうな顔つきで続ける。


「あたしが生まれたのは、町の、いえ、国の掃き溜めみたいな場所で、物心ついた頃から、生きるために何でもやったのよ」

「何でも?」

「ええ、何でも」


 アシュタロトが聴き返したが、ユウティアはにやにや笑いながら繰り返すだけだった。これ以上追及しても教えてくれないだろうと、アシュタロトはただ頷く。

 ユウティアとしては、自分の過去を詳しくアシュタロトに話しても構わなかったのだが、水槽の中の二人が、デッキブラシの動きを小さくして、聞き耳を立てているのが見えたので、曖昧に誤魔化す。自分の恥辱にまみれた半生を、彼らの肴にさせたくなかった。


「それが、紆余曲折あって、今のご主人様に拾われて、ここで働くことになったの。もちろん、自分の過去のことは、上手く隠して」

「ほう」

「あたしは中々上手くやっていたのよ? 先輩方から可愛がられて、少しずつ仕事を増やしていって。あの一年間が、人間だった私にとって、一番幸せな期間だったわね」

「二年目は、違ったのか」

「どこから漏れたか分からないけれど、あたしの過去の一端が、知られてしまって、あっという間に広まって。ある瞬間から、誰とも目が合わなくなったのよ。最も恐ろしい体験だったわ」

「露悪的だな」

「酷かったよ。はっきりと、文句言ってくるんじゃなくて、あたしがみんなのいる部屋に入ったら全員出ていく、あたしが使った食器とかをこっそり捨てられる、誰もあたしの服を洗ってくれないって、すごく陰湿だったのよ」

「それは酷い」

「正直、まだ侍女になる前の方が痛くて苦しい思いをたくさんしたけれど、こっちは、みんながあたしに優しかった分、余計に悲しくて、裏切られたって気持ちが強くてね、なんて勝手なんだろうって、人間自体に絶望したの」

「だから、人魚に」

「うん。人間以外になれるんだったら、何でも良かったのよ。魚でも、海豚いるかでも」


 「成程」というアシュタロトの相槌の後、またデッキブラシの音が大きくなる。全部聞かれたんだなぁと思うと、ユウティアから苦笑が出る。ただ、復讐も込めて、わざと大きな声で話した部分もあったが。

 ユウティアは、アシュタロトだけに聞こえるようにと、そっと耳打ちするほどの小声で話す。


「今までの色々と比べたら、昨日のあれくらい、蚊に刺されたくらいのものなのよ」

「……見抜かれていたのか」

「あんなに悲しそうな顔をしてたら、分かるわよ」


 真顔で、自分の頬を撫でるアシュタロトを、盥の縁に上半身を預けたユウティアは穏やかな表情で眺めていた。昨日、ドアが閉まる直前の彼の顔は、いつもと変わらぬ無表情であったが、ユウティアだけは、自分の事を案じているものだと、気付いていた。

 ふわあと、柔らかい欠伸が出てしまう。午後の光が差そう眠気に耐えながら、ユウティアは、自分の気持ちを正直に話す。


「今の私はね、誰よりも幸せだと思うの」

「そうなのか」

「好きなだけ眠って、三食美味しいごはんが出て、働かなくても、勉強をしないでもいい……。お姫様だって、政治や外交のことを考えないといけないんですもの、未来の心配事がない私の方がきっと自由で、ずっと幸福よ」

「そう思えるのは、素晴らしいことなのだろう」


 隣で、アシュタロトが大きく頷いている一方、うっすらと開けた目の前では、信じられないという表情でガラス越しにこちらを見つめる青年がいた。人間の価値観から逃げられない彼を憐れに思い、ユウティアは優しく微笑み返す。

 今更、彼らになんと思われようとも平気だった。自分は人魚なんだからと自覚するが、と同時に、過去のことを探られるのは嫌だという気持ちも残っていて、ユウティアはそのままならなさをもどかしく感じる。


「掃除も、もうそろそろ終わりか」


 執事たちは、水槽の底まで垂らした縄梯子を登り、それぞれ水の入った桶で水槽の下を流していく。水が底の栓が開いたままの排水溝に吸い込まれていくのを眺めながら、アシュタロトが呟いた。

 ユウティアは、そんな彼の精悍な横顔を眺める。どんな姿になっていても、アシュタロトの心は悪魔のままだ。その揺ぎ無さが、ユウティアには羨ましかった。


「……水槽の上まで、またおぶってね」

「勿論」


 アシュタロトの返答に安堵して、ユウティアは目を閉じる。

 男の人におんぶしてもらったのは、先程のが最初だった。人の足とは違う分、魚の下半身をアシュタロトの腰に回したままにするのが大変だったが、広い背中は温かく、心置きなく身を任せられた。


 その瞬間を思い返している内に、ユウティアは静かに寝息を立てていた。






   ☆






 彼女は、透明な水の半ばを、静謐な微笑みを湛えて、漂っているだけだった。

 鮮やかな黄色のドレスが、水の中ではふわりと浮かんだり沈んだりを繰り返して、常に揺らめいている。立ち泳ぎをするように、青い鱗の下半身は僅かな尾びれの動きだけでこの姿勢を保ち、大きく広がった赤茶色の髪は、腕と同じ動きで少しだけ上下する。


 水槽の掃除を終えた執事たちと、入れ違いで入ってきたケデズは、人魚の姿を真正面で捉えて、嘆息する。

 その音を、真横で聞いたアシュタロトは、彼のユウティアへの接し方が全く迷いないことに感心する。ユウティアが話していた通り、ケデズは水中の彼女にしか興味が無い。


「掃除をして正解でしたね。水の透明度が、全く違います」

「毎日見ていると、汚れは意外と気にならないものだな」

「ええ。これからは、三日に一度、掃除をしましょう」


 存在が気にならない程磨き込まれたガラスに、ケデズは満足していた。昨日までと違い、水槽に手を付けるのにも躊躇してしまう。


「彼女には、黄色のドレスが一番似合っていますね。髪の色と鱗の色と、上手く調和出来ています」

「ああ、そうだな」

「しかし、如何いかんせん、この水槽は暗いですね。水が綺麗になった分、余計にそう感じます」


 残っている右手は杖を持っているので、指を差す代わりにケデズは顎で水槽のすぐ上をしゃくってみせる。


「天窓を付けてみるのは、どうでしょうか」

「まあ、いいのではないか?」


 本人が構わないのならばと、アシュタロトはユウティアの方を見て、内心付け加える。ケデズは、それを確認せずとも、勝手にやりそうな予感はしていた。

 ただ、ケデズ自身は、アシュタロトの言葉が興味なさそうなものに聞こえたようだった。彼女の魅力が分からないなんてと、憐れむような目で、彼を見上げる。


「こうやって、彼女のことをさらに美しくしていきたいだけなのですよ」

「……まるで、芸術品のような扱いだな」

「そうですね。近い感覚なのかもしれません」


 アシュタロトの率直な感想にも、ケデズは深く頷き返すだけだった。むしろ、言いえて妙だと感心している様子も見える。

 ユウティアと話している時とは違い、上手く噛み合わないとアシュタロトは感じていた。退屈とまでは言わないが、居心地の悪さがある。


「ところで、彼女は今日の食事を気に入っていましたか?」

「ああ、問題なく、完食していた」


 ユウティアからの要望通り、彼女の朝食と昼食は、野菜を使わない、それぞれ異なる種類の魚の丸焼きだった。頭から尾まで、骨ごとバリバリと噛み砕いてい食べていたユウティアの姿をアシュタロトは思い出したが、そこまでは伝えない。


「良かったです。彼女が望む食事が、一番健康的ですからね」

「ユウティアの身を案じているのか?」

「ええ。魚でも、病気になると本に書いていました。水質を高く保つことも、大切だそうです」

「そうか……」


 今度は、ユウティアをまるで愛玩動物のように扱う。ケデズにとって、ユウティアは一体何なのかが測り切れずに、アシュタロトは表情が変わらないながらも、混乱していた。

 水槽の中の人魚は、立ち泳ぎの姿勢から、少しずつ体を傾けていき、今では、ケデズの目の前で寝転ぶような恰好で泳いでいた。ケデズは、彼女の目を見つめ返して、愛おしそうに微笑んでいた。


 そんなケデズの隣で、ユウティアと話が出来ないのは退屈だと、アシュタロトは感じていた。杖を持ち換えて、顔を水槽から逸らす。

 「部屋に戻る」と、アシュタロトが一言断ったが、ケデズは上の空で「ああ」と声にならない返答をするだけだった。客人が出て行った前後も、ケデズの世界にいるのは、麗しい人魚の姿だけだった。




























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