第1話 いつもと違うバス停前から
気付けば家の最寄りから一つ手前でバスを降りていた。
停車ボタンを押した乗客とともに、扉に向かって足が出た感覚。こんなことバス通いを始めてから今まで無かったことだった。混乱しつつ、家の方向へ歩きながら考える。
おしゃべりをする高校生や、大人の声が気になって途中下車しようとした時はある。頭に鳴り響くうるささと気持ち悪さ。でも深呼吸をしながら耐えた。その辺は学校と同じだと思う。辛い瞬間はずっとじゃない。永遠には続かない。
誰だって嫌なことや苦しいことで、いちいちバスを降りたり学校を休んだりしない。そうする人たちもたぶん病気や悩みとか……慣れたり我慢できたり出来ない理由があるはずだ。
じゃあ自分がいつもと違う場所を歩いているのも理由があるのか? バスでは友だちと一緒じゃなかったし、声を出す乗客もいなかった。他にありそうな原因は……そうだ。今朝、子どもの頃の夢を見ていた気がする。
ぼんやりとした記憶が頭の中で引っかかり、足が止まった。
大通りから脇道に入って家までのルートから外れる。バイク屋と駄菓子屋の匂い。酒屋の前に積まれた空きケース。遠くでは公園で遊んでいる子どもたちの声。自分にとって見慣れた景色が続く。こっちの方に来なくなったのはいつからだっけ?
児童館もあまり変わっていなかった。受付に向かう階段も、レンガ風の壁に貼られた掲示物や保育園みたいな壁面工作も雰囲気が残ってる。正面玄関が開いたままだから……閉館5分前から10分前だってことが、備え付けの壁時計をみるまでもなく分かった。
「お迎えですか?」
女の先生が利用者ボードを片付けながら聞いてきた。知らない声だし首にかけた名札も初めて見る苗字。たぶん保護者を待っている子どもが部屋にいて、自分がお迎えに来たって勘違いしてる? 昔ここで遊んでいた時、お兄さんお姉さんを待ってた友だちもいた気がする。
「えっと、お迎えじゃなくてですね」
「忘れ物や、何か御用ですか?」
「その……用事ってほどでもなくてその」
【お迎え】【忘れ物】【御用】
焦ったって良いことはない。一つ一つ言葉を嚙み砕いてのみ込んでいく。
なんでここに来たのか? それだけ言え。うん、でも、この先生、不審者を見るような顔でこっちを見ている。そりゃそうだ。終了間際に挙動のおかしな中学生が来たんだから当然の反応だ。
「まもなく閉館になりますが」
「ですよね。な、懐かしくてつい。また明日早めに来ます」
「……もしかして、ショウくん?」
「あ、伊藤みゆき先生!」
* *
受付奥から先生が来た。小さくなってない? 名札は以前のひらがなの奴じゃなくて漢字だしストラップの色も青い。先生は自分を見上げるようにして笑うと、肩をぽんぽんと叩いた。
「背、伸びすぎじゃないの!? カッコよくなって……」
「先生が
「いつ以来? 久しぶりね」
「中二だから4、5年ぶりみたいです」
「あっという間に大きくなる訳だ……あ、大丈夫よこの子は。小学校の時にいつも利用してた子だから」
「すみません。思いつきで来ちゃって」
二人に頭を下げると、知らない先生はホッとした顔になって利用者ボードを抱え、受付に入っていった。
「閉館まで5分もあるわ。昔のショウくんなら慌てて片付けをしているか、作品が完成しなくて騒いでいるところね」
「せ、先生たちには迷惑ばかり……」
「手を焼いたのは確かにそう。でも素敵な作品を私たちに披露してくれたでしょ。あれが楽しみだったんだから」
当時はクソガキだったよな。今もあんまり変わっちゃいないが。それに出来た作品を受付で見せびらかすのは、褒められるとこが他に無いからだし。自分にいつも怒る先生も、嫌な顔をする先生も、すごいって言ってた。まあ児童館に子どもの作ったものを貶す先生なんかいなかったけど。
廊下に目をやると工作室が見えた。ガラス張りの壁からは傷だらけの机や流し場、たくさんの折り紙や画用紙が位置もそのままだった。どこも全体的に小さく見える。こんな狭かったっけ? 先生の言う通り自分が大きくなったからだろうか。小学校ではそんなこと思わなかったのに。
「どうする? 館内を少し回る?」
「いえ、ここからでも分かります。……誰か他に児童館に来たりしてました? 自分の友だちで」
「中学生だとギターやドラム、軽音楽が目当ての利用はあるけど……あとはバドミントンとか練習をしに来る子だから。ショウくんの知り合いは見てないわね」
「そうですか」
あいつがいるなら一言謝りたかった。
何しろ工作室を使う仲間なのに、ワガママで振り回してばかりだったから。きっと自分のした悪さなんて気にしてないに決まってるが……俺は気になっていたんだ。だから、それが残念と言えば残念。まあ、うん。来てないなら仕方ない。
「大丈夫よ」
「……何が?」
「あなたは心配しなくていい。安心して。先生も児童館にいて長いけどね、あんなにすごい絵や模型を見せる子、ショウくんたちしかいなかった。それは限られた人が持つ才能なんだから」
「みんな作れますよ。やろうとしないだけで」
「そう、紙や空き箱、粘土をこねたりしてね。誰もが一度は挑戦して、誰もが諦めたり妥協してしまう……頭に思い描いたものをそのまま形にする、というのが難しいことを学ぶ」
「先生のおかげだろ」
「ふふ、そう言ってくれると嬉しい。工作に没頭したショウくんの世界には、慎重に声をかけた……早く片付けて、って伝えるともう早くしないといけない世界に書き換わっちゃって、落ち着いて誰の話も聞けなくなったりしたわ」
心にある世界。設計図。
先生の話を聞いて、昔の場面が脳裏に浮かんだ。
自分が一人で工作室を独占していた日。たまたま作品が上手く仕上げられず、感情的になってしまいハサミやペンを投げそうになっていた。誰も声をかけなかった。掛ければ火に油を注ぐ、と分かっていたから。
その時、いま立っているこの場所。受付の方から声が聞こえた。あれは確かに先生の声で……他の先生に自分の事を話していた。心の中がどうとか世界がどうとか。それをはっきり思い出した。
【今日は空き箱が二つまで使えるよ!】
【時計の針がどこになったら片付けの時間だっけ?】
【宿題がしたくなったら頑張ろう!】
俺が焦らずに心の中を変えられるように。
それでも世界が歪んで割れそうになりそうな時は、【大丈夫】【心配ない】【安心して】と声をかけてくれた。だから先生の声は、この児童館で一番よく覚えていたんだな。
「ショウくんの世界に入れるのは、アコちゃんくらいだった」
「……俺は怒ってばかりでしたけど」
「いい関係よ? 多少乱暴な言い方になってはいても、作品の工夫やアイデアを言い合えるんだから」
「そうかな」
「あれだけ上手なんだから、工作室で夢中になるはずだわ。いえ、夢中になるから上手になった……ってアコちゃんなら言うかもね」
「違いないです」
本当に言い出しそうで、つい笑ってしまった。
確かに心の地図を書き換えられるのはアコだけだった。伊藤みゆき先生はやっぱり俺たちの事を良く知ってて、見守り続けてくれたのも分かったし、今日来てよかった。
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