天明五年 初夏 八重姫様御驚嘆

第1話 江戸城西の丸にて

 父意知おきともの喪が明けるのを待って龍助りゅうすけは元服し、意明おきあきと名を改めた。田沼たぬま家世子として将軍にも御目見えし、内外共にその立場を確かなものにした。家治いえはる公の御代が永遠ではない以上、田沼家も意次おきつぐも引き続き盤石とは言えぬまでも、ひとまずの決着はついたといえるだろう。


 夏を迎えて、八重やえの傷もそろそろ癒えた。刃が肌を裂いた痕は数年は残るとしても、とりあえず日常の生活に不自由はなくなった。


 だから、その日父が深刻な面持ちで訪ねて来た用件を、彼女は最初吉太郎きちたろうに関することだろうと考えた。そろそろ雪乃ゆきのの件での怒りを解いて、次の結婚の話を進めるのだろう、と。


(最後まで、できるかぎりのことを……)


 決して手放しで歓迎できることではないが、避けられぬこと。だから、意次の言葉を胸に、粛々と受け入れようと思っていたのだが──


「私が、御城の西の丸に……?」


 見慣れぬ人間──父を見るなり彼女の膝から逃げ出したはなの尻尾を目の端に捉えながら、八重は呆然と呟いた。西の丸に参上して、その主である家斉いえなり公に一連の出来事への礼を述べよ、というのが父の命令だったのだ。


「内々のことゆえ、父上から御礼状をお渡しいただけるとのことでしたが。やはり直々に参上せぬのは非礼でしたでしょうか……」

「いや、そういうことではないのだ。お会いする以上は何よりもまず御礼を申し上げねばならぬというだけで」


 将軍世子の怒りを予感して青褪める娘を、父は手を振って宥めた。


「そなたの傷のこともお耳に入ってしまっていたのだ。そろそろ治ったならば会えるであろう、と。気に入りの小姓の妻となる女を、品定めしたいとでもお考えなのだろう」

「然様でございますか……」


 過分な気遣いのような、不躾な好奇心のような。とはいえ、此度の件では、家斉公には書面はおろか、言葉ですらも言い尽くせぬほどの恩義がある。直に感謝を伝える機会があるのは、願ってもない。なので八重は恭しくお召しを受けることにした。


「承知いたしました。それでは、父上がご登城の折に同行させていただくのでしょうか。それとも──」

「それこそ内々のことだ。老中の務めに関わることでもなし、そなたひとりで参上することになる。……良いか、くれぐれも非礼のないようにな」


 たとえ幾つかの前科があるとはいえ、御城の中で、それも将軍世子に対しての非礼を恐れるとは、娘に対する父の信用のなさは度が過ぎているとしか思えなかった。そもそも、最初からやけに思い詰めたような顔をしていたから深刻な事態を恐れてしまったのだ。


「当然で、ございます!」


 父の不安を増さないように、八重は丁重に答えたはずだったが──父の渋面からして、完全に成功していなかったのかもしれない。


      * * *


 登城する諸侯や役人で混雑する大手門を避け、西の丸側の門から御城に入った八重は、西の丸の奥向きに通された。将軍のおわす本丸の機構をなぞったという西の丸における大奥ということになる。思いのほかに貴人の私的な空間に招き入れられて、自然と八重の背筋は伸びる。控えるように言われたのが目の眩むような広間ではなく、緑麗しい庭に面した座敷だったのは、まだ幸いだっただろうか。


大納言だいなごん様のお成りでございます」


 平伏してから、さほど待つ必要はなかった。畳を見つめる八重の耳に衣擦れの音が響き、上座に人が座った気配がある。吉太郎が忠誠を捧げる御方の姿は気になるが、無論、許しもなく顔を上げるような真似はしない。


「この度は拝謁の機会を賜り、恐悦至極に存じます。大納言様には先日──」


 慎ましく頭を垂れたまま、八重は用意していた口上を述べようとして──


「ああ、堅苦しい挨拶はなしで良いぞ。苦しゅうないから面を上げよ。近う、来てくれ」


(え……?)


 あまりに気安い言葉に驚いて目を見開いた。いや、言葉だけではない。家斉公の声そのものも、聞き覚えがあったのだ。


(まさか。まさか)


 型に嵌められたかのように、身体が固まって動かない。せめて言葉を返そうにも、舌も凍り付いてしまっている。ただ、まさか、の言葉だけが八重の頭の中を駆け巡る。


「どうした、早う」


 それでも重ねて促されて、八重は壊れた人形のようにゆっくりと、ぎくしゃくと頭を上げた。すると、いかにも利発そうな少年の、溌溂とした笑顔が彼女を迎える。


「久しいの。出羽守でわのかみは、約束通りに黙っていてくれたようだな? ……そなたの驚く顔が見たかったのだ」

「あ、の……私、私は──っ」


 声と全身を震わせる八重を前に、その少年は声を立てて笑った。


わしは幼名を豊千代とよちよと言ってのう。吉太郎はとっさに良い名を考えてくれたものだ」


 顔を上げて目を合わせてしまえば、もはや否定することなどできはしない。悪戯が成功した時の会心の笑みを浮かべて、幼いながらに堂々と脇息に凭れていたのは、彼女が豊太郎と呼んでいた少年に相違なかった。


「大変な、ご無礼を……」


 弾かれたように再び平伏する八重の、畳についた手が震え、どっと流れる冷や汗が全身を濡らす。


 父のあの硬い表情はこれのせいか、と。八重は今さらながらに悟っていった。きっと父も、娘に先立って家斉公に驚かされていたのだ。婿に迎えようとしていた男が、将軍世子を市中に連れ回し、あまつさえ娘の屋敷を訪ねる手引きをしていたと聞かされて。老いた父の心臓が止まらなかったのは僥倖だった。


(非礼のないように、も何も……!)


 くどいほどに念を押されたのも、驚きのあまりに無作法をしないように、との精いっぱいの忠告なのだろうとも、分かる。けれどそれはあまりに遅い。八重はこれまで、吉太郎の後輩と信じていた少年にいったい何を言って何をしてきただろうか。混乱の極致にある頭は上手く働いてくれないけれど、将軍世子に相応しい礼を尽くしたのではないことだけは確かだ。以前の記憶を手繰ろうとすれば、吉太郎の朗らかな声も耳に蘇る。


『こちらは豊太郎と言いまして、大納言様にお仕えする小姓、いわば某の後輩ということになりますな』


(なんと安易で……なんと、不遜な……!)


 家斉公は良い名だと笑ったが、とんでもない。自身の名と、将軍世子の御名を混ぜて、咄嗟に偽名をこしらえるとは。父が見込んだ男は、彼女が知っていた以上に大胆不敵で恐れを知らぬとしか思えなかった。


「何を言っておるのだ」


 動くことも言葉を発することもできない八重の耳に、軽やかな笑い声が響く。変声前の少年の声は高く澄んで、鳥の囀りのように楽しげだった。


「身分を偽って無礼をしていたのは儂のほうであろう。そなたは何も無礼をしておらぬ。菓子も美味であったし、掏摸すりを捕らえた手並みも見事であった。あのような女子おなごは見たことがない!」

「そのような……不調法で、お恥ずかしいところを……」


 家斉公は、とりあえずは怒ってはいないようだった。だが、蒸し返された出来事は何ら八重の心を軽くしてはくれなかった。


 それは、大奥には向かってくる掏摸を転ばせる女はいないだろう。将軍に仕えるからには、容姿も教養も選りすぐられた貴婦人がひしめいているはず。あの時は──八重は、虫の居所が悪かったのだ。離縁を命じられて、父とも夫とも心が通じぬ鬱憤を、あの掏摸にぶつけただけのこと。決して、褒められるようなことではなかった。


 羞恥に火照った顔を隠すべく、身体を起こすことができない八重の視界に、家斉公の影が落ちる。頑なに顔を伏せているのを、不審に思って立ち上がったらしい。心配げな声が、降って来る。


「……いつもの勢いはどうした? そなた、いつもはもっと威勢が良いではないか。やはり、騙していたのを怒っているのか?」

「滅相もない……!」


 慌てて顔を上げると、家斉公は思いのほかに間近に彼女を覗き込んでいた。不安を湛えて曇っていた目が瞬時に晴れる表情の変化が眩しい。くるくると表情を変えた少年は、八重の目の前の畳を手でぽんぽんと叩いた。


「ならば、良かった。ここに座って良いか? 内緒話がしたいのだ」

「は──それは、もう……」


 できることなら断りたかったが、できるはずもない。八重がおずおずと頷くや否や、家斉公は彼女の前に座布団を引きずってさっと座った。ちょうど茶菓を運んできた侍女に、八重は目で助けを求めたが──無駄だった。本来あり得ざるべき距離の近さに、侍女は一瞬だけ目を泳がせたものの、無言のうちに用を済ませて退出してしまった。


「そなたが怒っておらぬで本当に良かった。先に会った時よりもよほど顔色が良いのも。傷が癒えたというのは本当だったのだな」

「もったいないお心遣いでございます……」


 輝くばかりの若々しさの少年にしげしげと見つめられて、八重は顔を伏せたい衝動と必死に戦った。どうやら本当に心配されていたらしいのも不可解だった。将軍世子の立場では物珍しい出会いではあっただろうが、たった二度、ほんの少し言葉を交わしただけだというのに。


 だが、家斉公は笑みを消すと、ごく低い、抑えた声で囁いたのだ。


「そなたの顔が見たい、などとは出羽守への口実だったのだ。いや、確かに会いたくはあったのだが、それだけではなくて──儂はそなたに詫びねばならぬ」

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