第4話 父の本心
それでも型通りに挨拶をし、昨日の非礼を詫びた後、八重はちくりと切り出した。
「今日は急用はお済みでしたか、父上」
昨日のように逃げるような真似はせずにじっくりとことの次第を聞かせてくれるか、とのあからさまな皮肉である。もちろん父も棘を聞き取ったのだろう、白くなり始めた眉がぴくりと動いたが、言うべきことは既に準備していたと見えてすぐに答えが返る。
「……あの後、
「まあ、
「そなたらの離縁のこと、儂は周防守殿には漏らしておらぬ。ならば別のところから知られたと考えるのが道理であろう。だから心当たりを質しに参ったのだ」
「お待ちください。父も承知していたのですか……!?」
金弥が声を上げた理由は、八重にも嫌と言うほどよく分かった。失脚の累が及ぶのが怖いから離縁する、などと。いったいどの面を下げて切り出したというのだろう。そしてそれは、いったいいつのことだったのだろう。
金弥の声に、八重の視線に宿った非難の色に気付かないはずもないだろうに、父はいささかも動じることなく、いっそ堂々と言い放った。
「初めから知らせておった。……
「そのような時に!? 父上、それは──」
「無礼も非道も忘恩も、百も承知しておる! が、致し方あるまい!」
息子のひとりが瀕死の重傷を負ったその日のうちに、もうひとりの息子の離縁を持ちかけられるとは。意次の心中を思い遣って八重は小さく叫び、けれどそれを上回る大声で父は一喝した。
「田沼家の権勢は世人の目にあまるほどになっていたのだ。主殿頭殿ご当人はともかく、家中には驕った者もいるであろう。できる限り諫めたつもりだが、天運にも恵まれなんだ。近ごろの凶作を、天罰とさえ囁く者さえいるのだぞ」
意知の葬儀の列を乱した物乞いどもを思い出して、八重は膝の上で拳を握りしめた。田沼家は今や羨望だけでなく嫉妬や憎しみの対象にもなっている。事実は事実として受け止めなければならない。それに、昨日は怒りに任せて行動して失敗したのだ。金弥も、目に憤りと反発を
「そこへ、あの刃傷沙汰だ。山城守殿さえ健在ならば、幕政の中核に影響を持ち続けることもできたのだろうが。下手人の佐野にそこまでの知恵があったのかはともかく、あれによってその道も断たれた。このまま行けば、主殿頭殿の失脚と共に田沼家は沈む。そしてそれはそう遠いことではない! 少し考えれば誰にでも分かることだ!」
「だから──致し方なかったと仰るのですか」
できる限り穏やかに、八重は相槌を打った──つもりだった。実際にはだいぶ剣呑な響きになっただろうが。しかし、父は間髪を入れず大きく首を振る。
「だから、先手を打って我が家が悪評を少しでも引き受けようと図ったというに! 庇おうとした当人に裏切られるとは……っ」
「──は?」
八重と金弥は、揃って間抜けな声を上げた。そして同時に、互いのほうを向く。軽く目と口を開いた金弥の、どこか幼い表情が新鮮だった。同じような表情を相手に晒しているのかと思うと、八重としては気恥ずかしくもあるが。だが、問題はそこではない。
「あの、父上……今のお言葉は──」
「……失脚を恐れて、大した理由もなく婿を追い出すのは、いかにも不忠であろう。見事な掌の返しようと、嗤われも
再び、夫婦の視線が無言のうちに交わった。考えたことも、きっとふたりして同じだろう。これはいったいどういうことか、と。
「あの……」
八重が呟いたのと同時に、金弥が息を吸う気配が届いた。だから、続けて言葉を発したのも、これまた時を同じくしていた。
「吉太郎殿もそれをご存知なのですか?」
「八重もそのお考えを承知していたのですか?」
さすがに、父に尋ねた内容は別だったが。重なったふたつの問いを聞き取れたのかどうか、父の眉が怪訝そうに寄せられる──いや、怪訝に思ったのは八重たちがそれぞれ尋ねたことだったのだろうか。
「不確かなことをお前にあらかじめ言ってどうする。余計に怒るのが目に見えている。吉太郎には……無論、すべての腹積もりを伝えた上で乞うたが。儂の考えに同意してくれる男でなければ意味がないからな」
今日の天気を述べるような、ごく当たり前のことを告げる口調で父は答えた。──より正確には、当たり前のはずのことを、娘たちはなぜ知らぬのかと訝しみ戸惑う口調、なのかもしれなかったが。八重たちの顔に浮かんだ疑問と混乱を読み取ったのだろう、ついに父も首を傾げた。
「昨日、吉太郎から聞かなんだのか。上手く伝えてそなたたちを宥めよと、そのつもりだったのだが……」
「あいにく、聞いておりませぬ。ご自身とご子息の栄達のためとばかり……」
「何? なぜそのようなことを言うのだ……」
そのようなことを言われても、聞いていないものは聞いていないのだ。父が腕組みをしたきり考え込んでしまったので、その場にはしばしの間、気まずい沈黙が降りた。
「……
互いに無言のまま探り合うように目を見交わす三者の中で、最初に口を開いたのは金弥だった。話題の転換は、父にとっても歓迎すべきことだったのだろう。金弥に答える父は、どこか安堵した風も窺えた。
「周防守殿に漏らしたと、はっきりとは仰らなかった。が、周防守殿にも思うところはあって当然であろうし、内密のつもりでも言葉や態度の端々から察することはあるかもしれぬ、と……」
「それは、あり得ることでございますな」
父と夫のやり取りを聞きながら、八重はこの場にいない男に思いを馳せていた。
(吉太郎殿は……なぜ黙っておられたのだ……?)
父と八重は、図らずも同じことを考えていたらしい。最初から言ってくれていれば、と思う。とはいえ、一方で自分の頭で考え付いたことでなければ得心できなかったであろうことも分かるから、父が黙っていたことについては、まだ良い。だが、昨日の吉太郎の言動はまったく理解できない。
八重と金弥を上手く宥めよ、と。昨日、父が去り際に下した投げ遣りな命令にも、一応の根拠と成算はあったのだ。にも関わらず自身の栄達のためと言い張ったのは──少なくとも言葉通りの意味ではないと、考えざるを得ない。
(でも……では、やはり昨日はとてつもない非礼をしてしまった……!)
自身の失態を改めて思い知らされて、八重の背と、膝に握った拳を、季節に似合わぬ汗が濡らす。そして、彼女が胸中で懊悩するのを他所に、父と夫のやり取りは進んでいた。
「……先日見舞った時は、父は妙に突き放した、線を引いたような態度でございました。出羽守様にも、同様に……?」
「うむ……お前が余計なことをしたせいで、と詰ってくださればどれほど楽だったか。策士が策に溺れたな、と笑うばかりでおられた……」
余計なこと。確かに、父がこのようなことを企まなければ、周防守も娘や孫を田沼家から取り上げようとは思わなかったのかもしれない。けれど、今の八重には父を責める気にはなれなかった。正しいと信じ込んで為したことが間違いだったと気付いたばかりなのだから。彼女はとことん父に似てしまっているのかもしれない。
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