天明五年 正月 八重姫様御憤激

第1話 直談判

 廊下を急ぐ小姓の背を追って、八重やえは大股に足を運ぶ。小袖と打掛が擦れ合う衣擦れの音も、さやさやと優雅なものではなくて、斬りつける烈風を思わせる鋭い音だ。


 先触れとほぼ同時に到着した彼女と夫に、父の住まう水野家上屋敷は騒然となった。夫婦そろって険しい顔で乗り込んで来たのだから無理もない。もしも八重が馬に乗れたなら、駕籠ではなく騎乗したまま門を破ってやりたいくらいだった。


 父に娘の「急襲」を伝えようとしているのだろう、転がるように走る小姓は、同時に父の居場所を教えてくれている。肩で風を切って進む八重に追い縋る者も、いるにはいるが──主家の姫に手を触れる非礼を冒すことはできないだろう。


「八重様、お控えください! 殿はご来客中でございます」

「遣いは出した。客人にはいったん下がっていただこう」

「若殿様まで……どうか──」

「火急の用だ。諦めよ」


 金弥きんやに執り成しを求めたその者は、すげなく断られて情けないうめき声を上げた。八重の無茶を諫める役を期待したならあいにくだった。


(今は殿もお怒りだからな……!)


 夫が妻の後ろを行くなど、常ならば夫婦の姿としてあるまじきもの。だが、今の金弥は八重の背を守ってくれているのだ。万が一にも父のもとに押しかける前に取り押さえられることがあってはならないように。万喜と龍助の窮地を前に、非常に珍しく彼女たち夫婦は一致団結している。


 神田橋かんだばし田沼たぬま邸を訪ねたのは、つい昨日のことだ。稽古場から戻った金弥と目を合わせた瞬間に、龍助りゅうすけも叔父に不安を打ち明けたのだと察しがついた。すべてを知らされている訳ではなくとも、祖父と母の間の不穏な気配は子供にも感じられたのだろう。


 そして、夜のうちに何があったかを報告し合って、彼女たちは父を問い質すことに決めたのだ。それも、できる限り早く。


(客に家中の醜態を見せるならそれも良し……!)


 婿を引き連れた実の娘に噛み付かれる老中など、さぞや世の笑いものになるだろう。今の八重は、父の評判を思い遣るような気遣いをする気はさらさらなかった。




 父がいるはずの部屋の障子を、八重は音高く引き開けた。同時に、道場破りさながらの大声で呼ばわる。


「父上! お伺いしたいことがございまする!」


 八重の声に驚いたのか、父と対面していた客人とやらが座ったまま跳ねた。何の騒動と思ったのか、声も上げずに平伏しているから八重からは若い武家のようだ、としか分からない。ただ、飛び跳ねた時に父の前を空けてくれたからちょうど良い。先手必勝とばかり、父が言葉を発する前に、八重はさっさと腰を下ろした。彼女の隣に、金弥もすぐに座を占める。夫婦ふたりして、不退転の覚悟を示した格好だ。


 ただならぬ気配に、そもそも礼儀外れの急な訪問──にも関わらず、父は慌てた様子を見せなかった。軽く眉を寄せてはいるものの、胡坐を崩すことさえなくゆったりと構えている。


「八重か。金弥殿も、ちょうど良いところに来た」

「私も、するするとお会いできて嬉しゅうございます。──そちらの御方にお聞かせしてもよろしいのでしょうか」

「構わぬ。だが、何の用かは知らぬが、お前はそれどころではなくなるだろうな」


(何を……!?)


 客を下がらせるなら今のうちだ、と脅したつもりだったのに。あっさりと首肯されて、八重は一瞬怯んでしまう。不覚にも、父に微笑む余裕を与えてしまう。

 八重が返す言葉を思いつく前に、父は手を伸べるといまだ平伏したままの客を示した。


「分家の吉太郎きちたろうだ。そなたたちも顔くらいは見知っていよう。この度、当家への婿入りをやっと承諾してくれた。……吉太郎、畏まらずとも良い。顔を上げよ」

「は──」


 父に命じられて、客はごくゆっくりと顔を上げた。まるで、八重たちに顔を見られるのを恐れるかのように。それでも、まっすぐに身体を起こすまでには十秒にも満たなかっただろう。控えていたのは、確かにかつて日本橋で行き会ったことのある吉太郎だと、すぐに認めることができた。だが──父は、今何と言っただろうか。


「……父上、私はご冗談を伺いたい気分ではございませぬ」

「冗談で言うことではないだろう。この吉太郎がそなたの次の婿になる。まったくの正気、本気だ」

「ですが──」


 父の言葉は、八重の耳を通り抜けるだけで何ひとつ意味を結ばない。


 代わりに彼女の脳裏に過ぎるのは、過去の光景だ。息子に言及して目尻を下げる吉太郎。正月に会ったばかりの午之助の利発さ。幼い息子を見守る雪乃の眼差しの、優しく幸せそうなこと。そのいずれもが、父の告げたことに反している、はずなのだが。


 八重の隣の金弥も息を呑んだきり絶句している。吉太郎も、以前とはまったく違う強張った表情で唇を結んでいる。そんな中に響くのは、父の場違いに明るい声だけだった。


「吉太郎は大納言だいなごん様の覚えもめでたいからな。気に入りの小姓を手放したくないと、ご了承いただくのに時間がかかってしまったが。だが、大名の家督を継がせておいたほうが後々──」

「ですが、父上!」


 父は、娘たちに口を挟む隙を与えまいとして長広舌を振るっているのだ。そうと気付いて、八重はひと際大きな声を張り上げた。吉太郎が、海老のように後ずさりながら再び畳に手をつくのが目の端に見えたが、そのようなことはどうでも良い。八重は父だけを睨めつけ、食らいついた。


「吉太郎殿にはすでに奥方がいらっしゃいます! 御子様も! なのにどうして婿入りなどできましょう!?」

「離縁すれば良い。そなたたちと同様に」

「そんな、無理を……!」


 父がごくあっさりと言ってのけたのは、吉太郎に妻子を捨てさせるということ。雪乃ゆきのから夫を、午之助うまのすけから父を奪うということ。そして八重は、最初の婿を見捨てたばかりか他家の婿を横取りした女になるということだ。怒りが八重を突き動かす。我知らず、膝立ちになり袖を捲って父に掴みかかろうとしてしまうが──


出羽守でわのかみ様」


 辛うじて思いとどまることができたのは、金弥が八重と父の間に割って入ってくれたからだ。凛と正した夫の背は、八重に落ち着けと告げている。


「吉太郎殿のご評判はかねがね伺っております。お家の安泰のためには、まことに得難い婿がねかと。まずはお慶び申し上げます。これで私めも心置きなく実家に戻れるということでございますかな」

「うむ……」


 丁重な言葉と裏腹に、金弥の声にはたっぷりと皮肉がまぶされている。だから八重も振り上げた手を降ろすことができたし、父もさすがに気まずそうに目を逸らしている。


(そうだ、そもそもここへ来たのは……)


 少しだけ冷静さを取り戻した八重は、成り行きを夫に任せることにした。日ごろから遠慮のない八重が言うよりも、これまで舅に従順であった金弥の言葉のほうが、きっと父も重大に受け止めるだろう。


「昨日、神田橋で義姉あねと甥より聞きました。松平まつだいら周防守すおうのかみ様は龍助を養嗣子に迎えられるおつもりだと。田沼家は、私が継げば良い、と……!」

「何……?」


 目を見開いた父の顔を夫の背中越しに見て、八重は嫌な予感を覚えた。父は、純粋に驚いているように見えたのだ。それが何を意味するのか──分からないまま、八重は夫が斬りつけるように鋭い声で父に迫るのを聞いた。


「甥を支えると思えばこそ、離縁を承知したのです。埋め合わせに田沼家を与えられて喜ぶとでも? 兄の忘れ形見を追い出してまで? これでは──話が違う!」


 金弥の難詰を呑み込むのに、父はずいぶんと時間をかけたようだった。八重と金弥と、吉太郎と。子の世代の三人が見つめる中、父はやがてゆっくりと呟く。


「……周防守殿が……?」

「父上、私も万喜様から確かに伺いました。亡きご夫君をお見捨てする訳にはいかぬと、大層ご心痛のご様子で……!」


 信じられぬ、とでも言いたげな父の口調こそ、八重には信じがたかった。松平周防守は父の同輩の老中、その御方の考えを一切知らぬ、などとは。しかも、田沼家の子女を娘や息子にめあわせた者同士でもあるのだ。互いに謀ったことでないというなら、あまりに間が良すぎるではないか。


「私ひとりのことならば、どうにか呑み込もうとも思えましたが。吉太郎殿のことといい、これではあまりにも……!」

「出羽守様は、父をお見捨て遊ばすだけではなく、進んで陥れようとなさっているのですか。ただでさえ傷心の老体から、孫まで奪ってどうなさるおつもりですか」


 金弥と並んで詰め寄りながら、八重はまだ心のどこかで父を信じたかった。父が何も知らぬとは考えづらい──が、もしも、父が本当に何も知らぬのなら、そのほうが良い。彼女たちの離縁のことはまだしも、万喜と龍助のことについては助けを求めることができるかもしれない。父の驚きの表情から、そのような望みを抱きかけたのだが。


「──わしは何も知らぬ! 周防守殿には何も言っておらぬし聞いておらぬ」

「父上……!?」


 叫ぶなり、父は痩せた身体に似合わぬ俊敏さで立ち上がった。虚を突かれた八重たちが留める隙もあらばこそ、父はそのまま足早に敷居に足を向け──振り向きざまに、告げる。


「急用ができた。すぐに屋敷を発つゆえそなたたちも帰れ」


 一切の迷いも悩みも消えた父の顔は、八重に離縁を命じた時と同じ、冷徹そのものの表情だった。


「お逃げ遊ばしますか……!」


 娘の心からの懇願も、父には届かなかったのだ。抱きかけた期待は裏切られ、同時に収まりかけた怒りは瞬時に再び燃え上がる。声を尖らせた八重の横で、金弥も父に追い縋ろうと腰を浮かす。だが、室内にはもうひとりいるのを、父だけが覚えていた。


「吉太郎! この際だから八重と語らっていけ。このていどを宥められぬようではこの先が思い遣られる……!」

「は? はは──っ」


 急に呼び掛けられて、吉太郎はばね仕掛けの人形のように跳ね起きた。吉太郎自身も、何を命じられたのか分かっていない様子ではあったが。とにかくも、無言で平伏していた男の存在を八重たちが思い出し、かつそれに気を取られた隙に、父はもう手の届かないところへ逃げ落ちていた。


「まったく、誰のためだと思うているのか……!」


(何を恩着せがましく仰るか……!)


 最後に漏れ聞こえた呟きは、八重の怒りに火を注いだ。だが、それをぶつけたい相手はもう目の前にいない。金弥は腕組みをして座り直し、吉太郎はどこか怯えるような表情で辺りをきょろきょろと見渡している。夫婦だけでもない、先ほどの話があった以上は身内と括るのも憚られる──非常に気まずい三人だけが、残されたのだ。

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