第3話 意次という人

 意次おきつぐ八重やえたちを迎えた座敷の床の間には、銀の花活けに梅が飾られていた。まだ緑の少ない初春のこと、凛と咲く紅の色が鮮やかだった。屋敷の主の精気のなさを補って、照らし出してくれるかのように。


「八重殿、金弥きんやも。わざわざお出でいただいて申し訳のないことだったね」

「とんでもないことでございます、義父ちち上様。お元気そうなお姿を拝見できて、まことに嬉しゅうございます」

「はは、綺麗な方が訪ねてきてくださったからかな……」


 軽く笑った意次は、八重の嘘を指摘することはしなかった。元気そう、などとは白々しいにもほどがある。すっかり痩せて縮んだ意次は、目を離せば消えてしまいそうな風情さえした。若いころは大奥をも騒がせたという端整な顔立ちは変わらずとも、だからこそ儚さがいっそう危うく見える。にこやかに、との夫の言いつけを守るのに、八重はかなりの気力を要した。


「枯れ木も山の賑わい、でございますね。義父上と、万喜まき様さえよろしければ、もっとお訪ねしたいと常々思っております。龍助りゅうすけ殿のご成長も楽しみで──」

「御心はとても嬉しいが、そう気を遣っていただかなくとも良いのだよ。貴女には父上もおられるのだから」


 柔らかに首を振られて、どうにか繕った笑みもすぐに強張ってしまうのだが。嫁に行ったのではなく、金弥を婿にもらった形の縁組だったから、水野みずの家を優先しろというのは一応道理に適ってはいる。だが、意次のこの言い方は、まるで──


(離縁のことを承知していらっしゃる?)


 慌てて金弥を横目で窺うと、夫は頬を強張らせてごく小さく首を振った。舅の言いつけを守ってか、実父を気遣ってか、やはり金弥は例の件を漏らしていない。


「まあ、父など放っておいても構いません。主殿頭とのものかみ様への御恩は、幼いころより言い聞かされて参りましたもの」


 ならばしらを切り通すべきか、と腹を括って、八重はわざとらしいほど明るい声を上げた。実の父である忠友は放っておいて良い、も本心である。どうせ父は、今も次の婿とやらの説得に奔走しているのだ。こんなにも弱り切った恩人を裏切って!


「さて、私のほうこそ出羽守でわのかみ殿には大いに助けていただいたが」


 八重の心痛も、内に滾る憤りも頓着しないとでもいうかのように、意次はゆったりとした所作で茶を啜った。


「八重殿もご承知の通り、我が家は何の由緒もない足軽だったゆえ。家法などというものもなく、人の使い方も分からず──大名としての振る舞いを、心得ていなかったのだ」


 意次が誰に対しても腰が低く丁重な言葉を遣うのは、確かだ。息子の妻である八重に対してさえも。義理の父のこの優しさがあればこそ、夫のかつての振る舞いにも耐えようと思ったし、家のためには良縁だったのだと信じることもできた。この方の考えならば悪いということはないだろう、とも。


 けれど、今の意次の声には苦い後悔が潜んでいた。身分を問わずに意見を聞き入れ取り立てるのは、家格に囚われず幕府の益を第一に考えたからこそ。悪いことだとは、八重は決して思わないが──名門と呼ばれる家々からは恨みを買っていた、のだろうか。


「だから、出羽守殿から謙虚に学んだつもりであったのだが。足りなかったのかもしれぬな。……いつの間に、あれほど憎まれて……」

「義父上……」


 意次の述懐は、金弥が見せた劣等感と根を同じくしていると見えた。意次も、息子がなぜ殺されたかを考え続け、それを自家の出自やこれまでの振る舞いに求めているのではないだろうか。


 何があろうと、人が殺されたのを正当化する道理があるはずがない。息子の非業の死に、父が負う責があるはずがない。そう伝えなければならないのに、悲しみに沈む意次の姿は八重の舌を凍らせた。どうにか言葉を見つけようと胸中で足掻くうちに、意次は茶を飲み終えてしまった。茶器を茶托に戻ししなに、視線を紅梅へとさ迷わせる。


「……そこの梅は、越中守殿が献じてくれたものだ。若いのに熱心な方だ……」

「ああ……」


 金弥の相槌には、どこか苦々しさが滲んでいるように聞こえた。定信公は、自身が家紋とする花をわざわざ贈ったらしい。贈り先に自らの痕跡を刻もうとするかのようなやり方は、押しの強さを真っ先に感じて眉を顰めさせられる。だが、意次は八重たちとは違うように感じているようだった。


「若い方にお任せすべきか、と思うこともあるのだ。八重殿の父上などには叱られるのだが……」

「僭越ではございますが、私も、でございます! いかに若く優れた方がいらっしゃるとしても、主殿頭様がなさってきたことを軽々しく投げ出してはなりませぬ……!」


 父は、本心から意次を叱ったのだろうか。内心では見限って上辺だけを取り繕ったのではないのだろうか。疑いながらも、八重は腹に力を込めて強く断言した。にこやかとはほど遠い物言いに、夫が顔を顰めたのが視界の端に見えたが、構わない。義父である方を、励ましたい一心でのことだ。言いたいことを呑み込んでいる場合ではない。


「ふむ、やはり出羽守殿のご息女だな。勇ましいこと」


 無礼を咎められてももの言いだとは、覚悟していたが──幸いに、意次は笑みを浮かべて頷いてくれた。だが、八重が安堵したのも一瞬だけのことだった。


「年寄りの繰り言に付き合わせてすまなかったね。いや、良い気晴らしになった」

「また来客の相手をなさるのですか。今少し、休まれても良いでしょう。まだお邪魔したばかりで──」


 話を打ち切る気配に、金弥は慌てたように腰を浮かした。激務の中に父を返すのは忍びないと思ったのだろう。けれど息子の制止は届かない。痩せた身体に似合わぬ力強ささで、意次はきっぱりと首を振った。


「今の私にも頼ってくれるというなら尽力せねばなるまい。──八重殿、時間があれば万喜殿や龍助にも会っていかれると良い」


 意次の言葉は、息子夫婦との対面はこれで終わり、と暗に告げていた。主の意に応じて小姓が障子を開けると、雪の積もった外から眩いほどの光が差し込んだ。白い光で洗われたような微笑も、八重たちに向けられた声も、あくまでも穏やかで優しくて──けれど有無を言わせぬものだった。息子夫婦と歓談する休息を自身に許すつもりはないのだと、態度で示すかのように。

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