第7話 梔子の画

 兄意知の葬儀以来、金弥きんや浜町はまちょう屋敷にいる時間は幾らか長くなった。嫡子を失った田沼家は火が消えたような有り様ということで、かつてのように連日連夜、宴だの茶会だのが催されることはない。だから金弥が実家を訪ねる目的も、遊興ではなく父である意次おきつぐや、後家となった万喜まきを見舞うため。登城の日は決められた通りに出仕するとしても、自然、以前と比べると屋敷を出る日も少なくなった。

 さらに付け加えるならば、父は金弥を水野みずの家の政務からは遠ざけていると、八重やえは思う。離縁が近いならば家内や藩政のことを教えても無駄、とでも言うかのように。父も夫も、例によって表の事情をすべて八重に教える訳ではないけれど。邸内で暇を持て余している様子の夫を見るにつけて、そうなのだろうと察するのだ。




 夫が家にいるからといって、八重との会話が増えた訳でも打ち解けた訳でもないのは、以前通りと言えなくもないかもしれない。


 廊下を歩く八重の足元に、猫のはなが纏わりついてくる。打掛うちかけの模様が動くのが、獲物に見えているのだろう。足を踏み出す先を狙って左右に跳んではじゃれかかってくるから、踏まないよう蹴らないように少々注意が必要だった。

 目的の人の姿が見えたところで、八重は華を抱き上げた。梔子くちなしの咲く庭に面した座敷で、金弥が障子を開け放って画の道具を並べている。暇に飽かせて画を描くことにしたらしい。華やいだ香りが、しっとりと室内にも漂っている。


 八重の影と、華のにゃう、という声に気付いたのだろう。描きかけの画に目を落したまま、金弥がぼそりと呟いた。


「何の用だ。気が散る」

「用、ということはございませんが……」


 例によって頑なな夫の態度に気後れしながら、それでも八重は図々しく腰を下ろした。拘束を嫌がって暴れる華を、腕の中に宥めながら。絵皿をひっくり返したり画を引っ掻いたりしてはならないのはもちろんのこと、絵の具を舐めてしまうのも良くないだろう。


「そなたの気遣いも哀れみも要らぬ。好き勝手に過ごせば良いだろう」


 畳の上に広げられた紙面には、梔子の花の下絵が描かれている。その花弁に白い色を乗せるのに集中しているのか、金弥は相変わらず顔を上げない。言葉も、妻を拒絶するもの。ただ、彼女にしてみれば、以前に比べるといくらか優しいと思えた。


「……嘲るとか見下すとか、そのようには仰らないのですね」


 華を膝の上に落ち着かせようと奮闘しながら、八重は思わず呟いた。すると、金弥が初めて顔を上げる。やっと正面から向かい合った夫は、怪訝そうな表情を浮べていた。


「そなたはそういう女ではないだろう」

「ですが、以前──」


 父に離縁を命じられた夜のことを、彼女は忘れていない。驕っているとばかり思っていた夫の、卑屈な本心を不意に見せられて。八重の方こそ気位が高いの夫を見下しているだのと言われて。言葉の刃で手ひどく斬りつけられたような痛みは、今も心の臓を貫くかのよう。


 妻の口ごたえの気配に、金弥は露骨に顔を顰めた。──と、八重は思った、のだが。


「あれは……ものの弾みだ」

「は?」

「兄が死んだばかりで離縁などと言われたのだぞ。出羽守殿のご憂慮ももっともなこと、取り乱すまいとは務めたのだが」


 ひどい渋面のまま、早口に述べる金弥の目元が、少々赤くなっているような。まるで、恥じ入っているかのような──いぶかしむうちに、八重は信じがたいものを見た。夫が、彼女に対して小さく頭を下げたのだ。


「だから、八つ当たりだった。……悪いことをしたと思っている」

「いえ……私も、そのように思われる振る舞いがあったのでしょう」


 父に可愛げがないと言われたことの意味が、ようやく身に染みた、と思った。今もかつても、八重には思いもよらないことではあるけれど、もっと夫に甘えるとか下手に出るとかしていれば、何か違っていたのだろうか。年上の女のもとに婿入りするということは、男にとっては思うところもあったのかもしれない。ことによると初めて、八重は夫の心中を思って胸を抑えた。


 膝の上でふて寝を決め込むことにしたらしい華を撫で、八重は思い切って口を開いた。


「あの……今さらではございますが、私たちは夫婦として、その、良くないあり様だったと思います。今少し、腹を割って殿とお話がしとうございます」

「本当に今さらだな」


 金弥は皮肉っぽく笑うと、再び画に視線を戻し、筆を動かし始めた。描かれた梔子も、庭に咲くそれと同様に美しく匂い立つよう。画は、父忠友も好む趣味だ。彼女のいないところでは、舅と婿で話が合うこともあったのだろうか。日々の諍いに紛れて、夫の趣味にも人柄にも興味を持とうとしなかったことへの後悔が、じわじわと八重の胸を蝕んでいく。


「出羽守様は、今は次の婿を探しておられるのだろう。家柄や能力はもちろんのこと、正式にことが決まるまで吹聴せずにいられるような、人柄も信用の置ける者を、な」

「それは……そうなのでしょうが」

「だから、俺がこの屋敷にいるのもほんのしばしの間だけ。後釜が見つかるまでのことだ。仮に、万が一仲睦まじくなったとして、別れが辛くなるだけではないのか」


 ひとつ、またひとつと梔子の花が染めあがっていくのを眺めながら、八重は夫の言葉を噛み締める。意知の葬儀の日のことを思えば、田沼家の旗色はいかにも悪い。父の命には逆らえないだけでなく、十分に理があるのも分かってしまう。あらかじめ離縁の話を聞かされたのも、だから今さら子を儲けることなどないように、と釘を刺す意図があってのことだろう。それは、分かる。だが、分かった上でも大人しく吞み込もうとは思えないのだ。


「私は……悔しゅうございます。父の言いなりになることしかできないのも、世の者たちに良いように噂されるのも。とはいえ女の身には何ができるはずもなく──殿ならば分かってくださるかと……いえ、それも甘えた考えなのですが」

「出羽守様は、そなたが男であれば、と漏らされたことがあるが」

「まあ、父がそのようなことを?」


 確かにそれなら家の跡継ぎの心配は要らないのだろうが、婿に言うにはずいぶんと配慮のないことだ。夫のために眉を寄せた八重に、けれど金弥は少しだけおかしそうに告げる。


「だが、女で良かったのかもしれぬ。その血の気が多さと気の強さだ。乱心ではなくても、義侠心でまた松本御大変が起きかねぬ」

「ま──」


 先祖が起こした刃傷沙汰を持ち出して当て擦られて、八重の声は危うく尖る。思わず身を乗り出すと、華が不満げな唸りを上げる。その様を見て、金弥の笑みが深まった。


「ほら、そのざまではないか」

「……今のは殿が悪うございます」


 言い訳の余地もない逆上ぶりを見せてしまったのに気付いて、八重はむっつりと黙り込んだ。腹いせのように華の毛をかき回す彼女に、夫の笑い声が降ってくる。金弥が、筆を置いて立ち上がったのだ。


「うむ、悪かった。が、そなたはそれだけ危ういのだ。はっきりものを言うのは──今となっては、小気味良いのかもしれないが。清々しくて、潔くて……」


 短い間に二度もあっさりと非を認められた。しかも、夫が小声で付け足したのは、彼女に対する誉め言葉だったような。いずれも信じがたくて八重が目を瞠る間に、金弥はさっさと部屋を後にしてしまう。


「次の婿は、もっと上手く扱うのだぞ。思ったことの半分は胸に留めておけ」

「殿、どちらに……?」

「乾かねば次に進めぬから、今日はこれまでだ。そなたはここで猫を撫でていれば良い」


 言われた通り、華が膝の上にいては身動きもままならない。だから八重は、夫の足音が遠ざかるのを背中で聞いた。今の一幕は、果たして夫と腹を割って話せたうちに入るのかどうかは、分からないままだった。

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