第5話 夫の本心

 義兄が非業の死を遂げようと、離縁を命じられようと、大名の屋敷では常と変わらぬ習慣で時が過ぎていく。八重やえ金弥きんやはほぼ無言のままで夕餉を取り、そしてべられた床に休むことになった。すでに布団の上で丸まっているはなを除けば、閨の中にいるのはふたりだけだ。灯りを落とした薄闇の中に、互いの寝間着の白がぼんやりと浮かび上がっている。


「そなたはせいせいするであろうな」

「そのようなことはございません」


 しとねに座って向かい合って、なおどう切り出すか迷うことしばし──ぼそりと呟いた金弥に、八重は習慣のように反駁していた。兄を亡くしたばかりの人に、声を荒げたくなどないというのに。


「父を、恩知らずの薄情者と思っていらっしゃるのでございましょうな!? 私には言い訳も庇いだてもできませぬ。父に代わって、どのようになじられようとも──」


 彼女が知る夫は、妻の弱みを見つければすかさず責め立てるような男だった。父の前では大人しくしていたとしても、ふたりきりになれば思うところをぶつけてくるだろうと思っていた。事実、金弥は不快げに顔を顰めた。だが、その口からこぼれた声はごく静かで平坦なものだった。


「そなたは気位が高いが潔いな。さすが、名家の面目躍如といったところか。成り上がりの下賤の者とは訳が違う──今までさぞ不本意だったのだろう。素直に喜べば良い」

「そのようなことはございません……!」


(ずっとこのようなことを考えておられた……この方が?)


 鸚鵡おうむのように繰り返しながら、八重は目の前にいるのが本当に我が夫か、信じられない思いだった。


 金弥は実家の権勢に驕っているのだと、彼女はこれまで信じて疑ってこなかった。確かに田沼たぬま家は、意次おきつぐの父の代までわずか禄六百石の足軽だった。だが、そこから一代で栄達した才覚は、誇りこそすれ引け目に思うようなことではないだろうに。


主殿頭とのものかみ様のお引き立てがなければ、当家は再び大名などと名乗れなかったかもしれませぬ。この一大事に、恩ある御方を見捨てるような真似をどうしてなさるのか──」

「その父上も既に高齢でいらっしゃる。兄上さえ御存命なら話はまるで違ったのだろうが──出羽守でわのかみ様は、田沼家に見切りをつけられたのだ」

「……私には分かりませぬ。父上も殿も、どうしてそのように弱気でいらっしゃるのか」


 夫との会話がこれほど長く、しかも口論になるでもなく続くのは、久しくなかったことかもしれない。それほどに、八重は何も分からず混乱している。そして金弥の方では、気の合わない妻にさえ吐き出さずにはいられない何かがある──のだろうか。


佐野さのは乱心して兄上に斬りかかった、と──公にはそのようになるということだ」

「事実は違う、と……?」


 金弥が語ることそのものよりも、夫が何を感じているのかまったく分からないことが八重には堪えた。夫婦とは名ばかりで、何年も同じ屋敷で寝起きしながら、まともに会話したのも稀だったことに、今、この時になって気付いてしまったのだ。


「まだ分からぬ。いずれ狂人のしでかしたことかもしれぬ。だが、世間には天誅てんちゅう快哉かいさいを叫ぶ者も多いのだろうな。」

「まさか」


 言下に否定しながら、八重はまた森田もりた座の客たちの歓声を思い出していた。刃傷沙汰の報せを聞いて、良い気味だと浮かれていた者たちも、確かにいた。下々はとかく下世話なものと、そう思えれば良かったのだが──


「兄上を助ける者がいなかったのもその一端かもしれぬ。幕政を壟断するならず者は斬られて当然とでも思われたか」


 金弥の指摘は、江戸城内にもその類の者がいたことを示唆していた。八重は、周囲に人がいれば凶行はすぐに止められるだろうと信じ込んでいたが、そうではなかったのを事実が教えてしまっている。


山城守やましろのかみ様は優れたお人柄でいらっしゃいました……主殿頭様の、田沼様の跡を継がれて、幕府の将来を負って立たれるはずの……」

「そうだな」


 深く頷いた金弥は、恐らくこれほど万感を乗せた声を妻に聞かせたことはなかっただろう。兄の非業の死を悼み、憤る思いが八重の胸を痛ませる。だが、夫は彼女に慰めを求めてなどいないようだった。


「だが、そうは思わない者も多いのだ。出羽守様はそれに気付かれたのだろうし、ご慧眼だと思う。父が亡くなれば田沼家は終わる」


 顔を歪めて笑みに似た表情を浮かべると、金弥はさっさと布団にもぐり込んだ。八重の声などもう聞きたくない、とでも言いたげに。


「お前にとっては悪い話ではなかろう。大名家への婿入りは、普通は喜ばれるのだから」


 だから、もっと良い夫を得られるだろう。夫は、言外にそう言っていた。確かに彼女たちは互いに悪い夫で悪い妻で──でも、夫婦だったはずなのに。


 会話を拒む夫の隣の床に身体を横たえると、華が当然のような顔で布団にもぐり込んで来た。猫の温もりと小さな息遣いを感じながら、それでも安らかな眠りは訪れてくれず、八重はずっと闇を見つめ続けた。

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