第22話 言葉と気持ち

「わたし、知らなかった……。考えもしなかった」


 額に手を当て、重い溜息をつく真子さん。


 一文字真子という人は、喜ぶとどこまでも舞い上がるし、落ち込むとどこまでも落ちていく。そういう人だと琉生も気付いている。


「私、どうしてこうなんだろう。どうして人の気持ちとか簡単に踏みにじっちゃうんだろう……、琉生くんにも最初、迷惑がかかるやり方したし……、今日のあのふたりにも良くないこと考えて……」


「そこまで考える必要ないよ……」


 言葉をかけてもなかなか浮上は難しい。

 ひたすら自己嫌悪に陥る姿は痛々しく、こっちも見てて悲しくなる。


 とはいえ、風間あやめの言うとおり、関係者に筋を通さなかったのはしくじりだった。

 だが真子さん一人の責任なのだろうか。

 彼女の身柄を引き取ると決めた以上、本郷家がまずひとこと挨拶しておくべきだったし、そこら辺の事務的な作業を深く考えていなかったのは自分の失態でもある。


 家に帰ったら両親に報告しようと決意を固めるが、ひとまず激しく落ち込んでいる真子さんを励まさねばと、周囲を見回す。


 せっかく美術館に入れたのだ。


「上に行こう。一番好きな絵があるんだ」


 彼女の手を取り歩き出す。


 美術館には正解にたどりついた生徒たちが何人もいて、だいぶ賑やかになっていた。


「はい、こっち、整列!」

 という風間あやめのかけ声も耳に入ってくる。


 琉生と黒魔子はそんな騒ぎから逃げるように二階の常設展会場に向かう。


 琉生がこの美術館で一番好きな絵が、入ってすぐの場所にある。


「ミレーの最初の奥さんを描いた肖像画で、結婚してすぐに描いたんだって」


 黒い服を着た幼さの残る可愛らしい女性がこっちを見つめている。


「綺麗な人」


 黒魔子は女性の瞳をじっと見つめていた。

 射貫かれたような衝撃を全身に浴びていた。


「構図がモナリザと似てるでしょ。多分、狙って書いたんだと思う。それくらいモデルになった奥さんのことが大切だったんじゃないかな」


「泣いてる……?」


「俺もそう見えるけど、違うって人もいる。実際、潤んではいるけど、それが涙かどうかは画家本人に聞かないと分かんないよね。だから、見る人がそうだと思ったらそれが正解なんだよ」


「……」


 真子さんはひたすらモデルになった女性を見つめている。

 その胸に宿る感情は一言では語れないようだ。


「この絵を描いた数年後に結核で死んじゃうんだ。元々体が弱かったみたいで」


「……」


「いろいろ考えちゃうんだよね。ただの肖像画ならここまで胸に迫ってこない。モデルと書き手の間に言葉にならない気持ちのやり取りがたくさんあったと思う。旦那さんとこれから一緒に頑張ろうって思ってたかもしれないし、自分の体のことを考えたら長生きはできないってもうわかってたかもしれないし、ミレーもミレーで、ふたりでいられる時間はあまり残ってないって気付いてたかもしれない……」


「それでも健気な顔してる。切ないけれど、幸せ……」


 真子さんはそう結論づけた。


「こんな風に書いてくれたら嬉しいと思う。大切にされてる、好きでいてくれてるってわかるから」


「そうだね……。やっぱりこの絵を描いてるときはふたりとも幸せだったんだよ」


「これが、琉生くんの好きな絵……?」

 

「うん。いつ見ても心がぐしゃぐしゃになるから好きなんだ。凄いよね。180年くらい前の絵なのにとんでもないパワーがある。これって一人じゃ出来ないことだと思うんだ。この絵は画家一人で書いたんじゃなくて、夫婦二人で作ったものだって……」


 だから今も残るのだ。


「だから真子さん、一人じゃできないことも二人ならできるよ」


 琉生は力強く真子さんに訴えた。


「一文字さんが引っかけに気付いてくれなかったら地下に風間さんがいるなんて気付かなくて、誰かに先を越されてたかもしれない。ふたりだからここまで来れたんだ。これから先もずっとそれでやっていけたら、凄いことになるって気がしない?」


 熱く語る愛しい人を黒魔子は惚れ惚れと見つめる。


「……ありがとう琉生くん」


 そして黒魔子は気付いた。


「あの日、あなたはこの絵を見てたんだね。私は遠くでそれを見てて、あなたのことが好きになった……」


「なら、この絵に、作者とモデルに感謝しないと」


「うん」


 黒魔子はそっと琉生の肩にもたれた。


「わたし、施設の人に会いに行こうと思う」


「一緒に行くよ。とりあえずいったん家に帰ろう?」


「うん……」


 互いに身を寄せながら、若いふたりは美術館を後にした。


 



 それを遠くから見ている大人たちがいた。


 常設展会場の入り口からさらに奥に進んだスペース。


 シルヴィのサブリーダーにして、橋呉高校の新しい校長、仁内大介。

 さらに杉村光をはじめとする部下が三人ほどいた。


「まったく、なんでこんな場所にしたんだ、風ちゃんは」


 腕組みしながら文句を言う仁内に、シルヴィの力持ち、大神が声をかける。


「追いかけないで良いのか。会ってスカウトするつもりだったんだろ?」


 しかし仁内はふてくされたように天井を見た。


「さっきの話を聞いてたら、やる気が失せた」


「おいおい。諦めるってか?」


「んなこた言ってないよ。むしろ決意が深まった。合格だ。これ以上ないくらい合格だ。もう何の不安もない」


「そうですかぁ?」


 杉村光が文句を言う。


「ちょっと揺さぶりかけられただけですぐオロオロしちゃうし、シルヴィの一員になるにはあまりにも不安定な気がします。強いのは強いけど……」


「ああ、ごめん。わたし、嘘ついた」


「うそ?」


「俺らが欲しいのは、彼女じゃない。彼氏の方なんだ」


 仁内大介は平然と言ってのけたのである。

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