神様編

第31話 神


 神淵の間。


 それは神が世界を眺めて楽しむ遊技場。


 だが、その部屋の主は実に3年もの間、部屋を留守にしていた。


 3年。人の時間感覚からすればそれなりに膨大な時間。だが、神の時間感覚からすればほんの数瞬の出来事。だから神からすれぱそれほど長い間深淵の間を留守にしていたつもりはなかった。


 そもそも何故神が深淵の間を留守にしていたかと問われれば答えは至極単純。ただ眠たくなったから寝室で一休みしてきただけだ。繰り返すが3年の時は神にとって大した長さではない。眠ってる間に起こった出来事は過去を見れば知れるし、そもそも神は地上に原則不干渉なので観測する時刻にタイムラグがあろうと気にしたことはなかった。どうせ干渉は出来ないのだからと。


 今日までは。


 神は起きてすぐに神淵の間を訪れ、最近夢中になっている一人の人間の観察を始めた。名前はマルス。性は持たないが、親の性を借りれば一応ダイアとなる。捨て子のマルスにそれを知る術はなく、親もマルスを捨ててすぐにに死んでいるので、神しか知り得ない情報である。


 神はマルスの観察が大好きだった。この魔力に満ちた世界アナスタシアが誕生してから1万年、神はずっと世界を観察していたが。マルスのような人間は初めてだった。


 神は変わった人間が大好きだ。1万年も世界を観察して遊んでいると、同じことの繰り返しばかり起きて飽きてくる。その飽きを打破してくれるのが変わった人間。そしてマルスはこれまで神が見てきた人間の中で最も変わっていた。


 マルスは強い。とんでもなく強い。その強さが合理に基づいたものでなく、色んなランダム生成要素が噛み合いバグに近い挙動を示した結果であるというのが非常に興味深い。1万年の中で間違いなく最強の人間だ。


 なのに、その境遇は不幸に満ちている。強いのに弱者の側にいることが多く、自分の正義感にのみ基づいて行動する。それでたくさんの損をしてきたし、正義感が報われるような人生は全く送っていないのに、頑なに正義に拘る。損するばかりなのに。強いのに。間抜けで、馬鹿で、呆れることばかりです――なのに、目を話せない。気付けば神はずっとマルスを見ている。マルスのことを見ていると胸の奥が暖かくなってくる。実は密かに神はマルスが死んだら天使にしてあげようと思っている。そして永遠に自分に仕えさせるのだ。マルスは明らかにアナスタシアに収まる魂ではない。その外側、つまり自分のいる世界に存在すべき強度の魂をしている。だから自分の側にいるべきなのだ。神は己の、主観の全く入る余地のない完璧な理論に惚れ惚れする思いだった。


 マルスは私のもの。


 マルスは私のもの。


 アナスタシアは神の遊戯盤。人間は所詮盤上の駒。だが、神は無自覚ながらただの盤上の駒以上の感情をマルスに対して抱いていた。


「ふふ。フィルレインが眠っていた間、マルスたまはどんな人生を歩んでいたのかな、なの」


 神は遊戯盤に触れる。そうすることで過去の記録を読み取れるのだ。ワクワクしながら遊戯盤に触れた神のにこやかな表情はしかし触れた瞬間に消え失せた。


「神よ。起床なされましたか。神が不在の間、不肖このリュートがしっかりと遊戯盤のバランス調整を行っておきました。人間陣営と魔族陣営のパワーバランスの調整。そしてその調整が不自然にならないように特定の駒の性能・性質調整を行いました。事後承諾になりましたことをここにお詫びいたします」


「……マルス、たま」


「恐れながら箴言させて頂きます。神よ。たかが遊戯盤の駒に執着なさるのはやめた方がいいかと。はっきり言って見ていられません。駒は所詮駒。神や、我等神の使徒とはそもそもの存在の格が違う。住む次元も違う。所詮彼等は下等生物。神の御身には相応しくない。……そうですね。私などいかがですか? 神の使徒の中でも最高傑作の私は限りなく神に近い存在。あと一度位階変化をすれば神になれる。まさに御身に相応しい存在かと――」


「リュート。死んでなの」


「は?」


 間抜けな声を出すリュート。神がリュートに指先を向ける。


「デリート」


「え? え? そんな、何故、神、いや、タマシイ、消え、テ……ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 リュートの端正な顔が最初は恐怖に歪み、そして次は絶望に汚染され、そして最後は苦痛に破壊される。己の魂が消滅してゆく感覚に完全に精神を発狂させながら、顔筋がぶちぶちと千切れた壮絶な表情でリュートは世界から完全に消滅した。


 表情一つ変えずリュートをこの世から消滅させた神は一人の配下の名を呼ぶ。


「ルート」


「はっ。……リュート様。だから独断専行はやめろと何度もお止めいたしましたのに……」


 神が名前を呼んだ瞬間、何もない空間に突如一人の女性使徒が現れた。黒い長髪をおでこが見えるようにきっちり分けた、真面目な顔つきをした女性使徒ルートは、その秀麗な眉根を潜めながら今しがた神に消滅させられたかつての上司たるリュートへの呆れを込めたぼやきを呟く。


「リュートはどうして私の意に反した愚行を断行したの? 原因によっては使徒の大粛清を行わなければいけないの」


「おそれながら神よ。それはリュートさま個人の抱きましたる不敬なる感情が原因であり、私を含めた他の使徒に波及する原因ではございません」


「原因はなんなの?」


「嫉妬です。リュートさま――いやリュートは使徒の分を弁えず貴方様に邪な懸想を抱いていました。神の関心が自分よりもマルスと名付けられた駒に向けられるのが我慢ならなかったのかと」


「ふーん……そこまで馬鹿だったの。もう少し苦しめてからデリートすればよかったの。リュートと同じようなことを考えている輩がいないとも限らないしこの機に男性使徒は全て粛清してしまうの」


「神よ。流石にそれはやりすぎかと。大神さまが許しはしません」


「そうなの? じゃあ男性使徒フィルレイン私の身辺に関わる職から追放するくらいに留めておくの。リュートみたいな馬鹿がまだいるかもしれないと考えると不快で仕方ないけど妥協してあげるの」


「それが妥当なラインかと」


 ルートはそう答えながらも、男性使徒が神を目の前にして狂うのも無理はないと内心思っていた。同性の自分でさえ魅了されるほど神の容姿は整っているからだ。


 神は生まれてから日が浅く心も身体もまだ幼い女神だ。だが、その圧倒的な美しさはまさに神たるカリスマを幼い神に与えていた。


 その一本一本が星で構成されているかのように煌めく金の長髪。愛らしいのに美しく、あどけないのに気高い、ありとあらゆる良とされる印象を最高純度で見るものに与える完璧な御顔。まるで光が実体化したかのように真白で汚れ一つなく、どんな完璧な理論でも霞むほどに完璧な造形をした御体。神界でも並ぶものなしと言われる美しさの御神を、神に劣る存在の使徒が間近で見て狂うなと言う方が無理があるのだ。この幼神は幼いだけあって男心に無知過ぎる。その様子もまたたまらなく美しいのだから本当に犯罪的な、存在そのものがハニートラップとでも言うべき美しさである。


 また幼神のフィルレインという名前も涎が出るほど美しい。ただ、神を神に仕える使徒ごときが名前で呼ぶのはあまりに恐れ多い行為で不敬に当たるため、幼神を名前で呼ぶ機会は全く訪れないのだが。そのことをルートは内心少し残念だと思っていた。


 もし許されるならば――幼神を何度も何度もフィルレインと名前で呼び、そしてこの手に抱き締め永遠無限に愛でたい。ルートはリュートのような愚か者とは違うのでそのような神の機嫌を損なう真似は絶対にしないが、そういう願望があるのも事実。正直、リュートの気持ちも分からなくはないというのが偽らざるルートの本音だ。


 だからといってリュートのように幼神を傷つけるような真似は例え魂を消滅させると脅されても絶対にしないが。願望を実行に移すか、移さないか。そこがリュートとルートの最大の違いで、それはそのまま同性と異性の幼神のへの愛情の抱き方の違いでもある。率直に言えばルートが幼神に抱いている愛情は母性の延長線上にあるもので、リュートか抱いていた感情は性欲の延長線上にあるものだった。


 だから根本のところでルートはリュートの愚かさが理解できない。だがそれでいい。いや、幼神のそばにいる者にとってそれがいいのだろうとルートは思う。


 ただ、リュートはリュートで清廉潔癖品行方正容姿端麗で知られたまさしく使徒の鏡のような存在であったのに、その彼でさえ幼神の魅力の前に乱心したという事実に幼神の側にいるものとして一抹の不安を覚えざるを得ない。果たして私はいつまで正気を保っていられるだろうか……。


「あのね。フィルレインね、これからアナスタシアに行ってくるの。あ、勿論人間に転生してマルスたまに会いに――いやアナスタシアに行くから神界法に照らし合わせても問題ないはずなの」


「お、おやめください! リスクが高すぎます!」


 ルートはさり気なく神が漏らした本音はあえてスルーして、神の無謀を止めるべく言葉を尽くす。


「確かに人界に神として介入するのはともかく、人として介入するのは法的には問題ありません。スリリングな遊戯の一環として認められています。ですが悪意に満ちた世界に神ではなく無力な人として転生して大きな絶望や心に傷を抱えて帰ってきた神の話は枚挙に暇がありません! 私は貴方様に傷ついて欲しくありません! 大抵の神は超常たる存在である神の感覚のまま人に転生し、それが原因で失敗します。恐れながら貴方様にはまだ人と神の違いの実感を伴った理解が足りないかと存じます。どうか、考え直すようお願い致します」


「フィルレインね。マルスたまにごめんなさいしなきゃいけないの。使徒の管理不届きは神の責任だから。フィルレインが謝らなきゃいけないの。だからフィルレインはマルスたまに会いに行かなきゃいけないの。これは決定事項なの。使徒なのに神に従わないなんて不敬なの。それとも――あなたもリュートと同じでフィルレインとマルスたまを引き裂きたいの?」


「ひっ!」


 神から無邪気な殺気が漏れる。それは大いなる気紛れ。人が虫を気に入らないからと殺すように神は使徒を気に入らないからと殺そうとしているのだ。ルートは平伏して全力で神に謝った。


「申し訳ありません! たかが使徒の分際で神の御意思に逆らうなど出過ぎた真似を致しました! これより神の意向を叶えるため、このルート全力を注ぎます!」


「うん。それでいいの。じゃあ早速【キャラメイク】してくるの。マルスたまが独り占めしたくなるような美少女になるの。でもマルスたま以外には興味ないから。マルスたま以外には見えないようにするの。初めてのポイントの割り振り楽しみなの。ドキドキするの」


「素晴らしいお考えかと思います」


「じゃあ定期メンテナンスは任せたの。ちゃんと魔力濃度調整やバグ取りするの。手抜きは許さないの。全部ルートに一任するの。今の使徒の中ではルートが一番有能だからフィルレインはルートを一番信頼してるの」


「えっ」


「じゃあ任せたの。【転生プログラム】起動なの」


 神の姿が消える。転生の間に転移したのだ。これでもうアナスタシアで死ぬまで神が戻ってくることはない。ルートは身体をぶるぶると震わせる。そしてガバッと顔を上げたかと思うと爛々と瞳を輝かせながら満面の笑みでこの場にいない神に向けて宣言した。


「お任せください! 神が最も信頼する使徒であるこのルートが貴方様の願望を叶えるべく万全のサポート体制で遊戯を運営させて頂きます! 貴方様が最も信頼する使徒であるこのリュートが! 最も! 信頼する使徒であるこのリュートが! フォオオオオオオオオ!」


 実は神は消去法的にルートが一番マシくらいのつもりで言ったのだが、幼神故に言葉が足りず結果的にルートの暴走を招いた。神の魔性の美しさと使徒への本質的な無関心が招いた悲劇であった。


 フィルレインは人界に向かう。その眼に映るはマルスの姿のみ。マルス以外の全ては興味の埒外。


 自らがそうなるように調整した、戦乱蔓延る悪辣なる地上に人として転生するには、いささか以上に無用心すぎる心構えだった。



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