第23話 伊那 21歳 イチョウの話

 ロウと伊那はときどき、一緒にイチョウの木のところまで散歩する。この二年の間に、伊那はイチョウの声が昔のようにはっきり聞こえるようになっていた。伊那はそれをロウの影響だと思っていた。そもそも、イチョウが最初に言ったのもロウへの返事を言付かったのだ。


「もちろん、日本のイチョウの木とも話せるよ」


 突然、イチョウからそういう言葉がはっきりと降ってきた。伊那がえっ?と声を出してイチョウを見上げる。どうしたの?とロウがいぶかしげに声をかける。伊那はイチョウをまっすぐに見上げて、イチョウの声を聴こうとした。何かを察したのか、ロウは黙ってしまった。イチョウは話を続けた。


「彼が、何度も私に問うんだよ。日本にいるイチョウの木と話せるのか、ってね。もちろん話せると答えてほしい。私たちはこうやって生きている場所から動くことは決してない。だが、その代わりに意識は地球上すべてのイチョウとつながっている。日本にいるイチョウとも通じ合える。ただ、私のように齢千年を超えているイチョウだからこそできる、というのは確かにある。若いイチョウの木は、私のように地球上すべてのイチョウと通じ合えたりしないよ。私だって、この地に暮らしている若いイチョウの木とは話せるが、日本にいる若いイチョウの木と話すことは難しい。もしも話したいことがあれば、日本にいる齢千年のイチョウを通した、間接的なやりとりとなるだろう」


 イチョウからの返事を受け取った伊那は、ロウを見上げた。


「彪、このイチョウの木に、日本にいるイチョウと話せるのか、って聞いたの?」

「えっ」


 ロウがまじまじと伊那の顔を見つめた。


「イナの能力はわかっているつもりだったけれど・・・まさか、そんなことまでわかってしまうのか」

「イチョウに言われたの。彪に、もちろん話せるよ、って伝えてほしいって」

「そうか」


 ロウはイチョウの木を見上げてまっすぐに見つめた。伊那ももう一度イチョウの木を見上げる。二人は沈黙の中でイチョウを見上げ続けた。

 ロウが伊那に顔を向けて口を開いた。


「ほかに何か言っていたかい?」

「ええとね・・・千年を超えたイチョウの木は、地球にいるすべてのイチョウと話ができるのだそうよ。でも、若いイチョウはできないのだって。このイチョウは千年を超えているから、日本にいる千年を超えたイチョウとは話ができるって。でも、日本にいる若いイチョウのことはわからないから、日本にいる千年を超えているイチョウに聞くそうよ」

「なるほどな」

 ロウはしばらく考えていた。

「木というのはそういうシステムになっているのか」

 ロウはもう一度イチョウを見上げてから、伊那を見下ろして笑った。

「たしかに何度も話しかけたけど、返事が返ってくるとは思っていなかったよ。そもそも返事を期待して話しかけたわけでもない。じゃぁ、今までイチョウに話しかけたことは、イナから返事が返ってくるかもしれないのか。まずいな」

 ロウは照れ笑いをした。

「イチョウに口止めしとかなきゃいけないことがいっぱいあるよ」

「いつも何を話しかけているの?!」

 伊那は怪訝な顔をして、ロウの腕を掴んで揺すった。

「ちょっと待って。先に口止めするから」

 ロウは笑いながらイチョウを見上げ、イチョウに向かって何かお願いしている。どういうこと?!と言いながら伊那はロウに詰め寄る。でも、笑っているロウの顔を見ているうちに伊那もなんだかおかしくなり、結局は二人で笑い転げていた。一通り笑いが収まってから、ロウが言った。

「僕はもう浮気できないってことがよくわかったよ」

「どうして浮気の話になるの?!」

「イナにはわからないか・・・」

 ロウはそう言って、伊那の頭をぽんと叩いた。

「どうして急に子ども扱いなの?!」

 伊那がぷぅっと頬をふくらます。ロウが笑いながら伊那の手を取って、手の甲にキスをした。

「子ども扱いしているわけじゃないよ、僕の姫君」

 伊那は慌てて、膨らませていた頬をもとに戻す。ロウは笑ったままで伊那の手に指を絡ませてしっかり握ってから、もう一度イチョウの木を見上げた。


「これからはイチョウと話せるのかと思うと不思議な気分だ」

 ロウは感慨深そうにそう言った。

「イチョウに聞いてみたいことはいっぱいあるが・・・そうだな。まずは、返事をありがとう、かな」

 ロウがイチョウに向かって、ありがとう、と言った。

「フランスの木にはフランス語で言うべきなのか?」

 ロウは伊那に聞いた。

「知らない。でも、日本語で言うならありがとうございます、のほうがいいと思う」

「どうして?何が違うの?」

「日本語のありがとうって、ありえないって意味からきているから。ありがとうございます、と言えば、ありえない素晴らしさがここに存在しています、と今ここに感謝のエネルギーが戻ってくる。ありがとうだけなら、感謝のエネルギーは飛び出していくだけ」

「へぇ・・・」

 ロウは改めてまっすぐ伊那を見つめた。

「Helas! だよ、今の僕の気持ちは」

「なぁに?その言葉」

「おお、なんということだ!!という古いフランス語」

 そう言って、ロウはもう一度イチョウを見上げて、ありがとうございます、と言った。イチョウの木が風に揺れてザザ、と音を立てた。

「今のがイチョウの返事?!」

 ロウが目を輝かせて伊那に聞いた。

「そうよ」

 伊那は笑った。

「彪は、ずっと前から、イチョウにラブレターをもらっているじゃない。それがずっとうらやましかったわ。どうして今更、そんなに感動しているの?」

「そりゃぁ、言葉になるのはまったく違うよ。どういうのかな。突然、違う世界の扉が開いたみたいな気分だ。いや、違うな。本当に違う世界の扉が開いたということか。なんだかすごくいい気分だ」


 ロウがもう一度イチョウの木を見上げた。そのとき、イチョウの枝に小鳥たちが数羽集まって舞い降りてきた。ピーッ、ピーッ、と楽しそうに鳴きかわしている。


 ピーッ。

 ロウが同じように音を発すると、一羽の小鳥がピーッと鳴きながら降りてきて、近くの枝に止まり、キョロキョロと周囲を見渡した。

 ピーッ。

 ロウが音を発する。

 ピーッ。

 小鳥は音を返すが、キョロキョロしているだけで、音の発信源がわからない様子だった。

 ピーッ。ピーッ。

 しばらくロウと小鳥は音を交わしていたが、小鳥は一度もロウに気づくことなく、そのまま飛び立っていってしまった。


 伊那は唖然としてロウを見守っていた。鳥と会話できる人を初めてみた。もっとも、まだ会話にはなっていないようだが。ロウは唖然としている伊那をみて笑った。


「僕は小鳥とまったく同じ音を出しているだけだよ。小鳥はちゃんと鳴き返してくれるが、僕を認識してくれない。人間が同じ音を出すって思わないみたいだ」

「彪って、植物界だけじゃなくて、動物界にもアクセスするのね」

「これって、アクセスしていることになるのか?」

「そりゃぁ、なるわ。そのうち、小鳥と話せるようになるんじゃない」

「そうかな。じゃぁ、そのときはまた、イナが通訳してくれるかい」

「もし、できたらね。できるかどうかわからない」

「きっとできるようになるよ。たぶんね」

 ロウはそう言って微笑んだ。

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