第21話 伊那 21歳 ロウの過去

 ロウが「伊那」の名前に反応したのは、そもそもロウの父が仏教徒だったからだ。だが仏教は中国の文化大革命で弾圧の対象となった。

 ロウの父親は、文化大革命の中で行方不明になっている。処刑されたといううわさだが、真実はわからない。真実がわからなくても、その事件以来、この世から姿を消してしまったことは間違いない。

 伊那はその話をロウから打ち明けられたとき、激しく泣いてしまった。ロウが可哀想で泣いたのではない。その事件が起こったときのロウの張り裂けるような胸の痛みが、自分の胸に移ってしまったのだ。胸が痛くてどうしようもなかった。ロウは伊那を抱きしめて、ありがとうと言ってくれたが、ロウが伊那を慰めるという不思議なことになってしまった。


 そもそも、ロウが中国人の父と日本人の母の間に生まれたのは、それぞれの父方の祖父同士が親友同士だったことによる。ロウの母方の日本人の祖父は、中国大陸で働いていたのだ。国を越えて親友になった二人のそれぞれの子供たちも、国を越えて恋に落ちた。だが、日中関係は悪化し、ついに戦争に突入する。娘を恋人から引き離せなかったロウの祖父は、娘を親友に託したのだ。

 ロウは子供の頃は中国に住んでいたが、母親が日本人だったために、日本人弾圧を避けて家族でイギリスに移り住んだ。イギリスで教育を受けたため、ロウの英語はクィーンズイングリッシュだ。母親の病気による転地療養でイタリアに住んだことがあり、そのときにオペラに熱中したのでイタリア語も話せる。音楽院はパリを選んだのでフランス語も話せ、ドイツオペラに挑戦したためドイツ語も話せる。ここまでは問題なく話せる言語で、ある程度話せる言語として、ヨーロッパの宗教歌であるラテン語、チャイコフスキーやラフマニノフ、プロコフィエフなどの音楽家を輩出したロシア語、スペイン歌曲のためにスペイン語、ヨーロッパの古典のためのギリシャ語、合計十ヶ国語ということになるが、ヨーロッパでは十か国語程度話せる人というのは一定率存在しており、それほど驚愕されることもない。

 難しいのは三ヶ国語までのマスターで、それ以降は頭脳の中に言語の方程式のようなものができてしまうのだという。言語ごとの文法変化や音声変化などに対して、おそらくこうだろうという予想があたるようになり、改めて勉強する必要はないらしい。

 スイスのように、ひとつの国の中に3つの公式言語が存在する国であれば、三か国語操ることが「社会的な大人」である条件であったりする。実際にスイス人には言語の達人が多い。フランスも昔は北フランスと南フランスが違う言語だったが、北フランスが南フランスを征服し、南フランスの言語を弾圧した。イタリアは七つの小さな公国が統合されてできた国で、フィレンツェ王国の言語がイタリア語として採用されている。他の土地、たとえばナポリに生まれれば、ナポリ語とイタリア語(実際には昔のフィレンツェ語)を使い分ける必要があり、ほとんどの人間がバイリンガルだ。


 伊那が「彪の頭の中身はどうなっているの」と言うと、「数式が詰まっている君の頭の中身のほうが不思議だよ」と笑っていた。


 伊那はあるとき、茶目っ気を出してロウ相手に多言語のチャレンジをしかけてみた。ロウが話せることを知っている日本語、中国語、英語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語を避けて、間違いなく知っていると考えられるポルトガル語からスタートしてみた。


「Eu te amo(ポルトガル語:愛している)」

 予想した通りロウは、ポルトガル語の「Eu tambèm(私も) Eu te amo(愛している)」と返してきた。伊那は続けた。

「Miluji tě(チェコ語:愛している)」

「Já také(私も) Miluji tě(愛している)」

「Te iubesc(ルーマニア語:愛している)」

「Și eu(私も) Te iubesc(愛している)」

 ロウは笑い出した。

「何なの、イナ、何の試験?」

 伊那は笑いながら続けた。

「Jeg elsker dig(デンマーク語:愛している)」

「Også mig(私も)Jeg elsker dig(愛している)」


 伊那はポーランド語、フィンランド語、スウェーデン語、オランダ語、ルクセンブルク語、ラトビア語、リトアニア語と続けたが、ロウはすべて返してきた。

 伊那はアジア言語で続けた。伊那は高校生のとき、アジアの青年交流会に参加したことがあり、友達と面白がってアジア言語での挨拶と愛しているという単語を覚えたのだ。

 韓国語、タイ語、インドのヒンディー語、フィリピンのタガログ語、マレーシアのマレー語、結局ロウはすべて返してきて、「知らない」と初めて言ったのはブータンのゾンカ語だった。ラオス語、バングラディシュのベンガル語も知らなかった。


 今度はロウが伊那に言った。

「i ha di gärn」

「・・・知らない。どこの言葉?」

「スイス・ドイツ語だよ」

 こうなると伊那はお手上げだ。実際にその国に行っているロウに叶うわけがない。

「Rwy’n dy garu di」

「・・・どこ?」

「英国のウェールズ語だよ」

 そう言ってロウは続けた。

「T’estimo スペインのカタルーニャ語ね。 Ek is lief vir jou 南アフリカ。Semi seriyorum トルコ語。 Dustat daram ペルシャ語 Uhibbuki アラビア語 」

「知らない。わかった、降参。・・・負けちゃった」

 伊那はちょっと残念だった。

「僕が負けるわけにはいかないだろう、僕の職業がわかっているの」

 ロウはおかしそうに笑っていた。

「アジアの言語まで知っているとは思わなかった」

「僕がフランス人だったら知らないかもしれないけどね。僕も君と同じアジア人だから、アジアの言語は気になるよ。それに、どこの国の歌にも愛しているって出てくるじゃないか」

「どこの国の女性にも愛しているって言っているわけじゃなくて?」

「そんなわけないだろう。イナは僕をなんだと思っているの」

 ロウは笑いながら伊那の髪をくしゃっとなぜた。


「彪は留守の期間が長いのだもの」

「イナがついてこないんじゃないか。僕だって淋しいときもあるよ」

「私もとても淋しい」

 伊那はロウの腕に自分の腕をからませた。

 ロウは外国に演奏旅行に出かけてしまうことがよくある。外国の舞台に立つときは、ひとつの舞台が終わるまで帰ってこない。伊那は一度ロウの舞台についていったことはあるが、ロウ以外に誰も知り合いのいない国で、知らない言語の中で、ロウの帰りを待っているだけの生活にうんざりしてしまい、こんなことは無理だ、と感じたのだった。二、三日で終わる音楽フェスティバルならついていけるが、舞台はとても無理だった。


 ロウと出会った年には、5月の出会いから初秋まで、ほとんどロウはパリにいたが、それ以降そんなことはない。もしもあの年にイタリアの劇場が燃えるというハプニングがなかったら、そもそも伊那とロウは出会ってもいないのだろう。人の出会いは不思議だ。予想しないハプニングが、どんな展開を人生にもたらすのかわからない。

 オペラのオフシーズンは夏だ。夏には長い夏休みがあるが、その他のシーズンはドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカ、ときには南アメリカのブラジルや南アフリカ共和国に行くこともあり、世界中の舞台から呼ばれている。ロウはパリにあるオペラ・バスティーユかガルニエ宮での公演を優先しているようだが、ロウが演じられる役柄と、舞台や指揮者との兼ね合いで、ずっとパリにいるわけにもいかないようだった。

 他者の恋愛には基本的に立ち入らないパリと違い、他国では年齢差が注目を浴びることもあり、それも嫌だと伊那は思っていた。ロウの家で暮らしていれば、ロウが不在の間もロウの気配を感じることができる。それは伊那を安心させた。それに、伊那が夏休みのときは、ロウも基本的に夏のバカンスに入る。

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