第15話 伊那 19歳 葉のコレクション
伊那がロウの家に行く日、ロウは最寄り駅まで迎えに来てくれた。改札を出ると、背の高いロウが所在なげにぽつんと立っていた。初秋のやや涼しい風が吹いている。ロウはストライプのシャツに肌触りのよさそうな生地の青いズボンを履いていた。いかにもオフの日の格好だった。
「よく考えたら駅に歩いて迎えに来るのなんて久しぶりだ。私の知り合いはほとんど車で来るからね。さすがに君以上に若い知り合いはいないよ」
伊那より若ければ高校生ということになってしまう。それはさすがにいないだろうと伊那も思った。でも、他に大学生の知り合いがいるのだろうか。
「大学生も来るんですか?」
「私は母校に呼ばれて、歌を教えに行くことがある。生徒はみんな、君と同じような年齢だからね。たまに生徒が遊びに来ることもあるよ。生徒が来るときは、大抵だれかすでに来たことがある生徒がいて、迎えにいく必要がない」
ああそうか、と伊那は思った。この人は私くらいの年齢の生徒とつきあうことに慣れているんだ。じゃぁ、生徒を家に呼ぶのと変わらないのかな、と思った。そう思うとちくりと胸が痛んだが、その気持ちは脇に押しやった。
伊那はこの街にはアジア人の姿が多いことに気づいた。パリの洒脱な感じがあまりなく、中華街もあるせいか雑多な空気感が漂っている。その空気感は、不思議に安らげる。東洋人であるロウがこの地区を選んだ理由がわかる気がした。
「十分くらい歩くけど、平気かい?」
伊那がうなずいた。二人は並んで歩きだした。
「イナ、今日はどんな日なの?」
そうロウが質問した。
「月の数字は9で、9は三角の形が三方向から右方向に回転しながら重なって、一度動きを止めて消え去ろうとします。そこから、十という次の桁を目指すために息を吹き返してエネルギーを発生します。終わりであって、はじまりの数字です」
「それはレクイエムのようなもの?」
伊那はしばらく考えてから返事をした。
「9にも10にも、まだ生命のエネルギーがあります。9は、いったん消えるように見せかけて再び立ち上がるので、眠り、かな。私にとってレクイエムは31です」
31は素数だ。素数には特別な美しさが備わっている。31角形の図形からは、生命の賛歌が聴こえてくる。
「31角形をリアルに思い浮かべるのは、私には無理だな。レクイエムだから、その月が終わるの?それで、レクイエムの次だから、薔薇の図書館の入り口には32面体があるの?」
ロウはそう尋ねた。どうしてこの人はこう鋭いんだろう、と感心しながら伊那は答えた。
「月と日を決めた人が、どんな理由でこの数字を選んだのかはわからないですが、31で生命のエネルギーが終わり、32からは宇宙になります」
「そうか。じゃぁ、今日の日の数字は?」
「26は、3と13からできています。3からできているのは月の数字と同じで、そこは月と日が重なり合います。でも、13は素数です。13は秘密を解放する数字です。月の3と日の3が右回転同志で調和しますが、そこに13が左回転のエネルギーを投げるので、大きく左にまわる、つまり宇宙から流れてくるエナジーが強い日です」
「そうか。なんだか宇宙に圧倒されるような日だね。想定外のことが起こるのかな」
伊那は、そういう解釈もあるのか、と思った。
「ロウは、ひとつの曲を何回練習しますか?」
突然、音楽の練習の話を振られて、ロウは伊那の質問の意図がわからないまま答えた。
「さぁ、数えたことはないが。一曲を本番までに何回歌うかということ?ひとつの曲に関する、解釈を含めた練習も含める?数として数えるのは難しいが・・・」
「解釈も含める、というのはどんな感じですか?」
「私が歌う歌は、どれも作曲家がとっくに亡くなっている曲ばかりだからね。作曲家に直接会って、どうやって演奏してほしいのかを聞くことはできない。だから、どの国に生まれて、どんな人生を送って、人生のどの段階でその曲が作られて、その歌にどういう思いがこめられているのか、それを可能な限り調べていく。
私の場合は歌だから、その同じ作業を作詞家に対してもするよ。原作が物語や小説の場合は、その物語や小説が成立した時代と、作者の想いも調べる。ひとつの曲には、繰り返す主題、つまりメロディが出てくるが、その主題がなにを表しているのか・・・愛なのか、憧れなのか、祈りなのか、鎮魂なのか、それを理解しようとすること、それから主題以外のメロディ・・・たとえば、不安や悲しみを表現するメロディが繰り返し現れることもある。作曲家が育った国の民族音楽のリズムやメロディが現れることもあり、それが郷愁を示すこともある。
そうした曲の背景を理解していくことで、曲に対する理解が深まっていくんだ。もちろん、楽譜に記してある音楽記号を理解することも重要だよ。なぜフォルテなのか、なぜピアノなのか、なぜフェルマータなのか・・・みんな意味がある。そうやって曲を理解するときには、たいていはピアノで音楽を再現していて、あまり歌うことはない。曲の理解が一通りできてから、ようやく歌うことになるかな。どんな風に声を表現していくのか、こうした表現は正しいのか、考えながらね。このときに、過去にこの曲を歌った人たちの歌を繰り返し聴くよ。そして、自分はどういう歌い方をするのか試行錯誤するんだ。練習時間は孤独との闘いだな」
伊那はロウが語る話を聞きながら、華やかにみえる音楽の世界も、結局は長く地道な練習の繰り返しでしか成功はないということを感じていた。数学となんら変わらない。なにかひとつのことを追求するというのは、そういうことなのだ。
「それで、何が聞きたかったの?」
ロウに問われて、伊那は我に返った。ロウからはじめて聞く音楽のレッスンの話が面白くて、そもそもの質問の意図をあやうく忘れるところだった。
「9月26日の話です。私はいつも、私が生きて9月26日のエネルギーをこの体で感じられることは、あと数十回しかないと思います。たった数十回で、本当に926のエネルギーが理解できるのかな、って。だから、ロウがひとつの曲に取り組むのが百回以上であれば、私の日付に対する理解より、ロウの曲に対する理解のほうが深いのじゃないかしら」
「そりゃ、ひとつの曲に対するアプローチは、たった百回では終わらないが」
ロウはいったん、言葉を切った。
「イナは本当にときどき老人みたいだね。悪い意味ではないよ、感心しているんだ。私はいま、君が私よりはるかに若いことを忘れていたよ。時間の概念がぜんぜん違うんだな」
ロウの家は、それほど大きくないが小さな庭があり、一階にはグランドピアノがおいてある大きなサロン風のリビングがあった。窓が大きくとられており、庭が見渡せて光がさんさんと差し込んでいる。音楽家の友人が来たときはここで演奏し、学生が来たときは一緒に歌うのだという。
「アップライトピアノでも構わないが、そもそもピアノ科だったので、グランドピアノなんだ。グランドピアノを置ける家を探すのに苦労したよ。ピアノは重いから、ピアノ用の土台でないと家にゆがみがきてしまうんだ。この家は私の前には音楽愛好家の老婦人が住んでいてね、ときどきこのリビングで小さな音楽会をしていたのだ」
そうロウは説明した。部屋にはたくさんの楽譜が並んだ本棚と飾り棚がひとつ、端にテーブルとイスが数脚あった。
飾り棚の中に、木からのラブレターのコレクションがあった。色とりどり、いろんな大きさの葉っぱと、花びら。イチョウもあるが、よくわからない葉っぱもたくさんある。どれも枯れて粉々になってしまわないよう、押し花の形に変えてあった。ロウは几帳面なところがあるらしい。
「最初は木からのラブレターだなんて考えなかったよ。最初にもらったラブレターがどうなったのかは記憶にない。あれ、どういうわけか葉っぱが手のひらの中に滑り込んできたな、くらいの感覚だった。たぶん、そのまま捨ててしまったんだろう。私にはお気に入りの木が何本かあるが、あるとき、木のそばでしばらく過ごした後、ふと木を見上げた瞬間、その瞬間にあわせて葉っぱや花びらが落ちてくることに気づいた。それで、もしかしたら、これは木からの合図なのかな、と思い始めた。それから捨てずに持って帰るようになったんだ」
「この葉っぱがあのイチョウの木ですよね?こっちは?」
伊那の質問にあわせて、ロウは、この葉っぱは凱旋門近くのマロニエだよ、とかセーヌ河上流のケヤキだよ、とか答えていた。すべて記憶しているらしい。イタリアやドイツの木の葉っぱもあった。ロウは外国に公演にいったとき、それぞれに時間を過ごすお気に入りの木があるらしい。
ロウの語る話にあわせて、それぞれの葉っぱや花びらが、ロウの輝く声を聞きながら身を震わせているように伊那には感じられた。この葉っぱも、この花びらも、みんな、ロウのことが好きなんだ。
「こんな話をしたのはイナが初めてだ。このコレクションに興味を持つ人はいないよ。みんな、木が好きすぎて葉っぱまで集めているんだな、くらいにしか思っていないよ」
伊那は、ロウはいつからこの葉っぱのコレクションをしているのだろう、と思った。二年前に亡くなったパートナーには、この話をしなかったのか、それともコレクションは最近なのか・・・。しかしそんなことを聞くわけにはいかなかった。
「ロウが木を好きなのじゃなくて、木がロウを好きなんです」
「そんな風に、木の立場に立って話すのはイナくらいだよ」
ロウは微笑んで、お茶を入れてくるから座っていて、と言って出ていった。
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