第11話 伊那 19歳 計算

 フランスの人々は、友達になるのに年齢差や男女別は気にしない。敬語の必然性のために、初対面のときから年齢差を気にする日本人と違い、そもそも年齢を相手に聞く習慣もない。十年間友達だった人の年齢を、十年後に初めて知った、という話もあるくらいだ。あえて聞かないのではなく、気にしないのだ。

 伊那もヤドヴィカも、ロウという、新しい別世界の友人を歓迎していた。ロウは刺激的な面白い友人だった。ロウも数学科の学生という不思議な存在に刺激を受けているようだった。

 私の世界は音楽一色になりがちだからね、他の世界の人との触れ合いは大切にしている、世界が狭くなってしまうから、とロウは言っていた。


 もっともヤドヴィカは、伊那はロウに惹かれているのよ、と何度も言っていた。ヤドヴィカはロウのファンだ、と言っていた割にはたしかにロウに惹かれている様子はなかった。伊那自身は、自分がロウに惹かれているのかどうかはよくわからなかった。ロウはいつでも伊那をはっとさせるが、それがロウの能力ゆえなのか、伊那の中の恋心ゆえなのかは判断がつかなかった。そもそもロウは伊那の周囲の男性たちとあらゆる意味で違いすぎていた。


 何度かカフェーで会話を紡ぐ間に、国籍の違う三人は、お互いの専門用語の単語をいくつか記憶していった。伊那とヤドヴィカは、楽譜、五線紙、難曲、演奏技術、旋律、抒情、重音、音階など。ロウは公式、定理、証明、微積分、円周率、虚数、自然数、立法数、素数など。

 ロウはカフェーによく来ている高齢の男性とも話し込んでいることがあったが、その人はもと学校の教師であり、専門はドイツ語なのだという。そもそもフランスはイギリスとは仲が悪く、学校教育で取り入れられていたのはずっとドイツ語だったのだ。今ではほとんどの学校で外国語教育といえば英語になっているが昔はドイツ語だった。その人は名前をレオンと言った。ロウは最初にレオンを紹介してくれたときに、獅子仲間だよ、と笑いながら教えてくれた。ロウの本名は彪、トラであり、レオンとはフランス語でライオンのことだ。獅子は想像上の動物で、トラとライオンの間のような容姿をしている。レオンはフランス人のドイツ語教師、日本人の英語教師のようなものだ。

 ロウは父親の仕事の関係で、子供の頃から長くイギリスに住んでいたらしい。その他の国にも滞在したことはあるが、ドイツ語圏は一度も滞在しなかった。したがってドイツオペラに相当苦労したらしい。オペラのことだけでなく、日常のドイツ語、ドイツ人との付き合いなど、ドイツに関するさまざまなことに関して、この高齢のドイツ語教師に世話になった、と話していた。

 音楽の都ウィーンはオーストリアだが、オーストリアで話されるドイツ語は標準ドイツ語とは発音も単語も違うのだという。レオンはオーストリアにもドイツにも暮らしたことがあり、その違いにも詳しかった。伊那とヤドヴィカも、ときおり二人のテーブルに加わることもあったが、二人はドイツ語で会話していることも多く、内容はわからなかった。

 この高齢の男性はすでに隠居しているのでカフェーに現れることも多く、したがってロウと話す時間も長かった。他にもカフェーの客に親しくしている人たちはいたが、仕事がある人はカフェーに現れる頻度が少ない。ギャルソンのアンドレと話し込んでいることもある。ロウが音楽界以外の人とのふれあいを大切にしているのは確かだった。逆にカフェーの他の人たちも、ロウが歌手であるからといって特別扱いはしなかった。教師、建築家、弁護士、歌手・・・歌手もほかの職業と同じように、職業のひとつ、という捉え方のようだった。


 ロウは、本当なら今はイタリアの舞台に立っていたはずらしい。ちょっと事件があって、舞台がひとつキャンセルになったんだよ、と説明してくれた。老朽化したその劇場が、電気系統のショートからボヤ騒ぎを起こし、舞台がしばらく使えないというアクシデントがあったのだという。予想しない春のバカンスだよ、息抜きの間に数学を勉強するよ、と言っていたが、学生のときは数学が好きだったというだけあって、ある程度は伊那とヤドヴィカの数学の話を理解していた。


 伊那は、今年の夏には日本に戻らず、フランスで勉強に専念する予定だった。ヤドヴィカは家族の顔を見るために少しだけ帰ると言っていた。ロウはそのまま、舞台なしで夏のバカンスに突入する予定だという。自然と、三人はカフェーで会う機会、話す時間が長くなっていた。ヤドヴィカが当たり前のようにロウと呼び捨てるので、伊那もいつのまにかロウと呼ぶようになっていた。ヤドヴィカがいるときはフランス語、いないときは日本語なのだが、呼び捨てているとだんだん敬語も少なくなってしまい、ときどきはっとするのだが、日本育ちではないロウは気にならないようだった。


 ある日、カフェーで三人は自然に連絡先を交換した。

 連絡先を記した紙を手渡したとき、一瞬、伊那の視線が紙の上で固定されたまま静止したのをロウはいぶかしく思った。

「イナ、なにか変なことが書いてあるの?」

「あ、ごめんなさい。つい、癖で」

 伊那は照れくさそうに笑っている。隣から笑ってヤドヴィカが答えた。

「イナは計算しているのよ」

「計算?」

 ロウが不思議そうな顔をした。

「その、私は小さい頃から数字を計算することが得意で」

 伊那は珠算のフランス語を頭の中で探したが、見つからなかった。

「あ、ソロバンのこと?」

 ロウが口を出し、伊那はうなずいた。ヤドヴィカがソロバンの意味を聞き返し、ロウがフランス語で説明した。

「それで、自分の暗算の能力を落とさないために、どんな数字でも見た瞬間に計算するクセがついているの」


 日本にいるときは、暗算の対象になるのは車のナンバーが多かった。4桁の車体番号だけでなく、上部の番号もあわせて、足したり引いたり割ったり掛けたり二乗したり素因数分解したりする。だがフランスの車のナンバーにはアルファベットがあり、たいして数字が大きくない。そのため、伊那は暗算能力を落とさないように、車のナンバー以外のあらゆる数字を、見たらすかさず計算するように切り替えてしまった。電話番号はもちろんだが、チケットの通し番号、切符の通し番号など、数字ならなんでもだ。ただし、時計とカレンダーは組み合わせが決まっているので計算の対象にはならない。

 いまも、紙に記された数字を見た瞬間、計算してしまったのだ。もはや条件反射でしかない。しかし、計算と同時に、その数字は記憶できてしまうのも伊那の特技だ。だから必要な電話番号はすべて頭に入っているし、わざわざ電話番号帳を持つ必要はなかった。携帯電話を持っている人も少しはいたが、まだ流行ってはいなかった。

 ロウは面白がっていた。

「数学科の頭の中では、そんなことが行われているのか!」

「私はしないわ。でも数学科では、計算が早いほうが有利だから、する人もいるわね」

 ヤドヴィカが答えた。

「まさか電話番号を渡して計算されるとは思わなかった」

 ロウは明るく笑った。

「計算するだけじゃなくて、ちゃんと記憶します」

 伊那はちょっとムキになって言い返した。

「本当?」

 ロウはぱっと紙をひっくり返した。

「言ってみて」

 伊那は正確に数字を繰り返した。

「本当だ」

 ロウは目を丸くした。

「すごい、便利だな!」

 ロウは目を輝かせて感心していた。

「ほかに何ができるの?」

「計算で?買い物の合計金額をあらかじめ計算するとか」

「えっ?ということは、税金もあわせて計算できるの?」

「はい」

「いいなぁ、便利だね!一緒に買い物にいきたいよ」

 ロウは心から面白がっている様子だった。

「税金計算なら、ヤドヴィカもできますよ」

 伊那はそう言った。

「そうなの?もしかして、それは数学科では常識だったりする?」

「ええ。買い物の場合は、足し算と、簡単な掛け算ですから、それほど難しくはないです」

「君たちには簡単なんだね。また恥ずかしい発言をしたな」

 そう言いながらロウは楽しそうに笑っていた。

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