第9話 伊那 19歳 イチョウの木

 パリはようやく春らしい陽気になり、街路樹のマロニエの花が咲き始めている。伊那にとってパリで初めての春だ。大学の勉強とフランス語の勉強を同時にやらなくてはいけない伊那は、まだ授業についていくだけで精一杯、ほとんど自由時間はなかったが、それでも、春の温かい陽気に触れていると、うきうきと楽しい気分になってくる。何もなくても、ただマロニエの花を眺めるだけに散歩がしたくなる。パリの人々はみんな散歩が大好きだ。五月ともなれば、ただ散歩するためだけに大勢の人が街路樹のそばを歩いている。


 大学も伊那のアパルトマンもセーヌ川のそばにある。勉強に疲れると、セーヌ川の川べりの道を散歩して歩くのがいつしか伊那の日課になった。日本にいた頃は散歩なんかしなかったのに、と思う。違う国に住むと、その国の習慣にいつのまにか染まっていくのだろうか。

 パリの街路樹は樹齢の長い立派な木が多い。日本では桜の木が多いが、桜は寿命百年ほどの儚い命の木だ。だが、ここパリの街路樹はほとんどが樹齢四百年にも五百年にもなろうとする木ばかり。樹齢千年を超える木もある。数百年、数千年と人々の暮らしの移り変わりを静かに見守ってきた木々たちだ。だが、木のまわりに憩う人たちは、ほんの百年後にはもう誰もいない。すべての人は入れ替わっている。命は繰り返している。樹齢の長い木はそんなことを感じさせてくれる。

 セーヌ川沿いに下っていくと、セーヌ川がぐるりと流れの方向を変える場所のそばに、古いイチョウの木がある。伊那はこのイチョウの木が好きだった。樹木は種類によって性質が違う。そして、一度仲良くなると同じ種類の他の樹木とも仲良くなれる。イチョウ語を解するようになれる、ということだろうか。一度、一本のイチョウの木と話すことができれば、すべてのイチョウの木と話すことができるのだ。木だけではない。花も草も、植物界の存在はすべてがそうだ。ある日、一本のたんぽぽと会話する。その日以来、すべてのたんぽぽと話すことができる。そうやって少しずつ植物界の扉が開いていく。


 だが、いまの伊那は子供の頃のように植物たちと会話することはできなくなっていた。それでも、かつて会話したことのある植物からは、エナジーが流れてくるのが感じられる。このイチョウのそばにいると、イチョウから温かくて優しいエナジーが流れてくる。それに、いつも歓迎されている気がするのだ。

 イチョウは樹齢の長い木だ。おそらくこのイチョウの木も樹齢千年に近いのだろう。じっとイチョウを見上げていると、イチョウが見つめてきたパリの人々の人生が、伊那のまぶたの裏に流れ込んでくる。貴族たちの馬車が行きかっているのも、フランス革命の人々の行進も、太平洋戦争でナチスドイツの占領下になったときも、いまの平和なパリも、変わらずにずっと眺めてきたイチョウの木。イチョウが人々に注いでいる優しいまなざしが、伊那の心にも伝わってくる。イチョウのそばでは、自分が抱えている悩みがどれもこれも小さなものに変わっていく。イチョウに優しく励まされる。


 伊那はいつものように、川べりの道からイチョウの木のある場所に向かって、少し斜面を下っていった。人々が思い思いの場所でくつろいでいる。家族連れ、カップル、子供たち、ご老人・・・その人々の中に、輝く銀の髪の人がいた。伊那に背中を向けて、イチョウをじっとながめている。


 まぁ、あの人、ロウさんみたいな髪の色だわ。


 伊那はそう思った。背の高い、背中の広い体躯と、輝く銀の髪。

 まさか、と思ったが、どうやらロウその人のようだ。こんなところで何をしているのだろう。ほかのパリの人々と同じように散歩だろうか。

 ロウがまるで視線に気づいたかのようにくるりと振り向いた。

 目を細めて伊那を見つけると、「やぁ、また会ったね」と日本語で声をかけてきた。

「こんにちは」

 伊那はロウに近づいた。散歩中のせいか、セーヌ川のせせらぎとイチョウの木のせいか、ロウの迫力のある波動は前に会ったときより柔らかかった。他者を圧倒するような力強さは、イチョウの前に立っているロウからは感じられなかった。

「いい天気だね」

「はい」

 そばにくると、ロウの輝くような声はやはり他の人たちとは明らかに違っていた。空気をふるわせるように広がっていく声。でも、前に聞いたときよりもっと柔らかい。立って話すと、伊那はロウの肩までしか背が届かない。ロウの声は、伊那の頭の上から降ってくるような位置になる。つまり、ロウの声のシャワーを浴びているような感じだ。

「ここにはよく来るの?」

「このイチョウの木が好きなんです」

「そうか。日本を思い出すから?」

「はい、そうです」

「私は、この木は日本にたくさんある木だな、と思いながら見上げている。日本の人に教えてもらったよ」


 ロウはイチョウの木を見上げた。伊那も一緒にイチョウの木を見上げる。五月のイチョウの木は新芽の明るい若草色だ。樹齢の長い、古いイチョウの木にも、同じように美しい新芽が萌え出ている。


「あっ!」

 伊那は突然声をあげた。

「どうしたの?」

「イチョウの花が咲いている!」

「ああ、五月だからね」

 若草色の明るいイチョウの葉っぱのよこに、もっと薄いグリーンの花びらがひらひらとしていた。それはマロニエの花のように華やかな色ではないが、繊細で可愛らしかった。この古くて大きなイチョウの木に、あんな可愛い花が咲くなんて、そう思って伊那はイチョウの花を見ていた。

「イチョウの花が珍しいの?」

「ええと、五月のイチョウの木をじっと見たことがなくて、こんな花だと知らなくて」

 伊那は言いながら少し恥ずかしくなった。私は日本にいたとき、イチョウの木の何を見ていたんだろう。イチョウの木が好きと感じながら、どんな花なのか気づくこともなかったのだ。

「そうだな、イチョウの花は目立たないからね」

 ロウは笑うこともなく答えてくれた。

「今日は、大学の授業はどうしたの」

「今日は授業のない日です。ずっと勉強していると、散歩がしたくなって」

「そうだろうね。私は音楽を選んだから、ずっと机に向かって勉強するということはあまりなかったが。外の空気が吸いたくなるものだと思うよ」

「音楽大学ですか?」

「いや、音楽院だよ。パリ音楽院だ。音楽大学と音楽院の違いはわかるかい?」

「知らないです」

「音楽院は日本で言う専門学校のようなものだよ。普通の勉強がほとんどない。音楽だけに専念できる。だが、私は声楽専攻ではない」

「えっ?」

 伊那はロウを見上げた。この輝く声を持つ人が、声楽専攻ではないとは、どういうことだろう。

「歌は好きだったが、私は東洋人だからね、こちらで舞台に立てるとは思っていなかった。専攻はピアノだよ。だが、私の歌を聴いた先生に声楽の道に進むように勧められた」


 伊那は、この人の若い頃には、もっと差別は厳しかったのだろう、と思った。伊那も差別を感じたことはあるが、それは表立ったものではない。人種差別はモラルに反するというルールを、あるいは礼儀として、あるいは良心として、あるいは本心として、ほとんどの人が守っているように感じていた。

 ロウは続けて言った。

「先生には、こんな風にも言われたよ。才能は誰のためにあると思う? 君の才能は君のためにあるわけじゃない。君の才能は君以外の人のためにある。君の歌で、誰かが幸せになるのを見て、君に幸せが返ってくる。他者に自分の才能を与えることが、自分を活かすということだ。」

「才能を与えること・・・」

 伊那はつぶやいた。この人の歌はたしかに他者を幸せにするだろうが、数学に誰かを幸せにすることができるのだろうか?それはとても難しいことに思える。

「歌は誰かを幸せにできるけれど、数学は難しい気がします」

 ロウは伊那を見下ろして笑った。

「たしかに音楽のほうが数学よりわかりやすいだろうが、数学だっていろいろな形で人類に貢献しているじゃないか」

「ロウさんみたいに言ってくれる人は少ないです。たいていの人は、数学という言葉を聞いただけで距離を置くというか、場合によっては嫌な顔をされることもあります」

 そう言いながら、伊那ははっと気づくことがあった。自分は数学を選んだことを、誰にもわかってもらえないと勝手に信じ込んでいるのか。それが、この人が言っていた『数学を理解できない人は自分を理解できないように感じてしまう』ということなのか。

「嫌な顔をされるの?!本当に?」

 ロウは真面目に驚いているようだった。

「されます」

 伊那はロウが驚いているので、逆におかしくなって笑った。

「でもそれは日本でのことで、パリに来てからはないです。ほとんど数学科の学生としかつきあっていないからかもしれないです。フランスの人たちはそんなこと気にしないのかもしれないし」


 伊那が学生だと言うと、専攻は?と聞いてくる人は多かったが、数学科だと答えても、ほとんど人は「ああ、そうなの」と答えるだけで、世間話と同じスタンスだった。

 日本にいるときは、「数学科を目指している」というと、「数学?!」と大仰に驚かれることが普通だった。なぜだろう。日本人は世界平均と比較しても、かなり数学能力の高い国なのに。それとも、数学能力が高いからこそ、余計に神経質になるのだろうか。


「日本では調和を尊ぶあまり、平均とは違う能力を持つ人を敬遠する傾向にある、とは聞いたことがあるが・・・」

 ロウはそんなことを言った。

「数学はそもそも、マイノリティですから」

 伊那はそう答えた。音楽と違い、数学科以外の人が日常で数学を楽しむことはまずない。クイズ番組に数学の問題が出題されることはあるが、それは出場者の能力を競うためのものであって、決してお茶の間の人が数学を楽しむために選ばれた問題ではない。

「音楽は一緒に時間を過ごす人のためのもので、数学ははるか未来の人のためのものだともいえるが・・・音楽がはるか未来の人に役立つことがあるように、君の数学も、いつか一緒に時間を過ごす人を幸せにするかもしれないよ」

 ロウは慰めようとしてくれているのだろうか。それとも本心だろうか。どちらなのかは図りかねたが、そんな風に言ってくれる人もいままでいなかった。

「ありがとう」

 素直にそう言いながら、数学を選んだことを、誰にもわかってもらえないと勝手に信じ込むのはもうやめよう、と自分に言い聞かせた。

 伊那はもう一度イチョウの木を見上げた。樹齢の長いイチョウの木は、穏やかで鷹揚な祖父のように二人を静かに見下ろしている。


「イチョウの木はセーヌ河の川岸に何本かあるが、このイチョウの木が一番好きだな」

 ロウがそう言った。

「ほかにもイチョウの木があるんですか?」

「あるよ。このイチョウの木が一番大きいが、他にも大きなイチョウの木はある。まだ見たことはない?」

「ほかのイチョウの木は知らないです」

「じゃぁ、教えてあげるよ。そうだな・・・ここからは遠いが、フロールのカフェーからは近いよ。次にカフェーで会ったときに一緒に行こうか」

「はい」

 伊那はうれしくなった。イチョウの木から流れてくるエナジーは好きだ。そしてこの人から流れてくるエナジーも。ふたつはまったく種類が違うものだが・・・イチョウは優しく穏やかで、ロウは訴えかけ、揺り動かすエナジーだ。イチョウのそばにいると、包み込まれ癒される。ロウのそばにいると、忘れていた大切なことを思い出せる。

「そうだな・・・来週の水曜の午後ならいけると思うよ。授業がある?パリの夕暮れは遅いから、遅い時間でもかまわないけど」

 フランスの日没時間は、5月ともなると21時を過ぎる。日本では17時は夕暮れだが、パリにいると17時は真昼も同じだ。

「17時ならいけると思います」

「そう。じゃぁ、来週の水曜の17時にね」

 そう言ってからロウはふと気づいたように言った。

「私にイチョウの木を教えてくれたのは日本の人だったが、ずいぶん年配の人だったよ。若い人はあんまり木に興味がないと思っていたが・・・数学科の人は違うのかな」


 たしかに、木に興味を持つのは年配の人が多い。伊那のまわりにも、木に興味を持っている人はいない。伊那はヤドヴィカと友達になってから、自分の不思議な世界のことについて、ほとんどヤドヴィカに打ち明けていた。ヤドヴィカはあるときは面白がりながら、あるときは感心しながら、あるときは真剣に聞いてくれていた。ヤドヴィカは草花や木との会話も興味を持って聞いてくれたが、ほとんど初対面のロウに向かって、子供の頃はイチョウの木と話していたので、とは言えなかった。


「小学校の校庭に大きなイチョウの木がありました。ずっとイチョウのまわりで遊んでいたので、イチョウは私にとって特別な木なんです」

 伊那はそう説明した。それは本当のことだった。そして、最初に伊那が会話したイチョウの木は、もちろん小学校の校庭の木なのだ。だが、そのイチョウの木は雷にあたって枯れてしまった。そのとき伊那が号泣したことを話すことはできなかった。

「そうか。それは原風景というものかな。若い女性にイチョウの木を案内するとか変だな、とふと思ったよ」

 ロウはそう言って笑った。

「君は大学に友達がいる?」

「はい」

「じゃぁ、よかったら一緒においで。もちろん、友達が木に興味があればの話だが」

 伊那は、ヤドヴィカは木ではなくてロウに興味があるだろう、と思った。そもそも彼のファンだと言っていた。

「興味はあると思います」

 伊那は、そこは伏せて言った。

「そう、じゃぁ来週の水曜にね。待っているよ」

「はい」


 伊那はロウに別れを告げて、再びセーヌ川の河畔を歩いていった。

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