第19話 生まれて初めての気持ち

 (1)


「さすがはイアンだ。仕事が早いねぇ」

 棺桶を引き取りに来た葬儀屋が棺を荷車に乗せ終わった後、イアンの仕事振りを褒め称える。

「いいやぁ??俺一人だけじゃなくて、マリオンが手伝ってくれるから早く仕上がるんだよ」

 実際、以前より仕事量が増えたにも関わらず、仕上がりが早く終わるようになったのはマリオンのお蔭だ。

「マリオンも良家のお坊ちゃんみたいな成りして、日に日に仕事ぶりが良くなってきているし、シーヴァといい、マリオンといい、お前が引き取った子供達は立派になったもんだ」

「……子供達ねぇ……」

「おっ、噂をすれば、シーヴァじゃないか」


 二人の元へやってきたシーヴァの手は左右共にカップが握られている。真夏の炎天下、汗だくで荷馬車まで棺桶を運んでいた葬儀屋とイアンのために水を持ってきてくれたみたいだ。


「シーヴァは本当に気が利くなぁ。ありがたく頂くよ」


 カップを受け取るやいなや、葬儀屋はゴクゴクと喉を鳴らして一気に水を飲み干す。その様子を見ていたシーヴァが右手の人差し指を立てた後、その指を家の方向へ向ける。

『もう一杯、水を飲みますか??何なら、中でゆっくりお茶でもしていかれますか??』と尋ねているのだ。

 葬儀屋はシーヴァの行動の意味を察し、「じゃ、お言葉に甘えて、少しだけお邪魔するよ」と返した。


「やっぱり、若くて綺麗な娘が淹れてくれる茶は一段と美味いねぇ。イアン、お前は本当に果報者だよ」

「そうかぁ??」


 居間のテーブルで葬儀屋とイアンが紅茶を飲みながら、何となしに話していた。

 マリオンは仕事道具の調整をするために、隣街に住んでいる研ぎ師の所まで出掛けているし、シーヴァは買い物をするために市場へ行ったので、二人共しばらくは家に戻ってこない。


「シーヴァも十七歳になったんだよなぁ。今が娘盛りか」


 結局、葬儀屋から持ちかけられた結婚話をイアンは丁重に断った。葬儀屋は「過保護も程々にしておけよ」と呆れていたが、元来サッパリした質で根に持つことなく、今でもイアンを贔屓にしてくれている。


「イアン。シーヴァをどうしても手放したくないのなら、いっそのことお前の嫁にしちまえよ」

 丁度口に含んだばかりの紅茶を危うく噴き出しそうになった。その際、気管支に茶が入り込み、盛大に咳込む。

「一体、何を言い出すかと思ったら……」

 ようやく咳が止まり、努めて平静を装う。

「シーヴァは、娘同然なんだ。そんなことできる訳ないだろう」


 その娘同然の女を、一度きりとはいえ、一線を越えてまではいないとはいえ。 自分から触れたのは何処の誰だ。白々しいにも程があると内心で自嘲した。







(2)


 数日前のあの夜、シーヴァがベッドのヘッドボードに凭れて熱心に手紙を読んでいると、風呂から出てきたイアンが寝室に入ってきた。


「ミランダは元気にしているのか??」

『うん。でも、中々お酒を断ち切れなくて、大変みたい……』

「そうかぁ……」

『せっかく想い合っていた人と一緒になれたのにね……』

 シーヴァは手紙を丁寧に折りたたみ、封筒にしまうとカンテラの灯りを消し、その傍に手紙を置く。

『おやすみなさい』


 いつもならば、イアンの唇に軽くキスをした後はすぐに横になるはずなのに。

  今日に限って、シーヴァはいつまで経ってもベッドに横たわろうとしない。


「おい、シーヴァ??寝ないのか??」

 見兼ねたイアンがシーヴァの顔を覗き込む。

「明日は医者に診てもらう日だろう??早く寝ろよ」

『行きたくない』

「は??何言ってるんだ」

『だって、行ったところでただ私の話を聞いているだけで、毒にも薬にもならない事を言うだけじゃない。お金の無駄よ』


   シーヴァが声を失ってから、すでに七年が経過しようとしていた。けれども、彼女の声が元に戻る気配は一向に見受けられない。そこでイアンは、二年ほど前から三か月に一度、シーヴァをその筋の診療所へ通わせていた。

 しかし、ただでさえ医者の診察は金がいると言うのに、特殊な分野は更に高くつく。そのためイアンは、棺桶造りは元より、それ以外の仕事も積極的に増やしていた。

  自分のせいで、イアンやマリオンに少なからず負担を掛けていると言うのに。声が戻らないことに人知れずシーヴァは悩んでいた。


  声を失くしたきっかけは、母が死んだ直後。

  家賃を滞納していたことで、アパートの部屋から退去を命じていた家主もさすがに哀れに思ったのか、葬儀や様々な手続きを全て取り仕切ってくれたどころか、行き場を失くしてしまったシーヴァに「しばらくは私の家で暮らしなさい」とまで言ってくれたのだ。

 悲嘆に暮れ、不安に押しつぶされていたシーヴァにとって、その言葉にどれだけ救われたことか。


  ところが、家主の家で暮らし始めて二週間が過ぎた頃だった。


  その日は、家主の妻子が外出していて二人きりだったところ、突然、彼がシーヴァに襲い掛かってきたのだ。

  あの時の恐怖と痛みと絶望は一生忘れないだろう。

  醜い欲望を剥き出しにさせた男の恐ろしさ、信頼という感情を見事に嘲笑う裏切りに散々打ちのめされた末、気付くと声が出せなくなっていた。


  医師曰く、男性に対する恐怖心や嫌悪感を取り除けば、声が戻るかもしれないとの事。

  そんな簡単にいくもんか、と心の中で吐き捨てるものの、もしかしたら、イアンへの想いが叶ったならーー、馬鹿馬鹿しい。お伽話でもあるまいに。


「……シーヴァ??」

 知らず知らずの内、物思いに耽っているとイアンが心配そうな顔を向けてくる。

『何でもないよ。言われなくても、もう寝る』

 そう言って布団にもぐりかけたところで、ちょっとした好奇心が芽生えた。

『もしかして、イアンの方から私にキスしてくれたら声が戻ったりしてね。ほら、お伽話なんかでよく、王子様がお姫様にキスすると目を覚ましたりするじゃない??』

「はぁ??お前、何を小さな子供みたいな、夢見がちな事を言ってんだよ。そんなので戻る訳ないだろ??馬鹿な事言っていないで、さっさと寝ろ」


 やはり一笑に付されてしまった。だが、シーヴァは食い下がらなかった。


『何よ、キスの一つや二つくらい、してくれたっていいじゃない。イアンの馬鹿、阿保』

「あのなぁ……」

『ケチ、ヘタレ、不能』

「こら、誰が不能だ……。若い娘がはしたない言葉を使うんじゃない」

『据え膳食わない、恥ずかしい男』

「……お前なぁ!」


 しまった。さすがに言葉が過ぎてしまった。いくらイアンが少々気弱で優しい人だとはいえ、これは怒られたとしても仕方ない。イアンの大きな掌がシーヴァの頬に振り下ろされる。

 叩かれる!思わずギュっと目を瞑り、身を竦ませたシーヴァだったが、予想に反して叩かれるどころか、壊れ物を触るような優しい手つきでイアンは彼女の頬に触れてきた。と思いきや、グッと無理矢理顔を上向かされた後、唇を吸われた。

 シーヴァは、この信じ難い状況を把握しきれず、ハシバミ色の瞳を見開いたまま、石のように固まってしまった。イアンはシーヴァの開きっ放しの瞳に気付くと、空いている方の手で彼女の瞼を軽く押さえて閉じさせる。

 唇を吸われ続けながら、ゾクリとした快感が全身の肌に走った。身を売らされていた時にも何度となく客に唇を求められたものだが、激しい嫌悪以外何も感じなかったと言うのに。


 鼓動がいつになく荒ぶる。呼吸が自然と早まり、肩を上げて息をする。

 しかし、ふと我に返った瞬間、シーヴァはイアンの顔を反射的に拳で思い切り殴りつけてしまった。殴られたイアンは、大きな身体を折り曲げて痛みに悶絶している。


『ご、ごめんなさい……!!』

 すぐさまシーヴァはイアンの身を起こし、殴った方の頬に手を添える。

『ごめんなさい、ごめんなさい……、わざとじゃないの……!!』

「いいや……、大丈夫だ……。むしろ、つい調子に乗った俺が悪い……」

 シーヴァの手をさり気なく身体から離すと、イアンは痛てててて、と殴られた頬を押さえる。

「それよりも……、気分悪くないか??吐きたくなったら、俺に遠慮なんかせずに吐いてきていいからな」

 シーヴァは大袈裟なくらい、ブンブンと首を横に振る。

「それなら、良いけど……」

『……気分が悪くなるどころか、すごく……、幸せな気持ちになれた……。ルータスフラワーに居た頃に散々されてきたのに、こんな気持ちは生まれて初めてだよ……』

「…………」

『そんなことより、それ冷やさなきゃ。洗面器に水を張ってくる』

 ベッドから抜け出そうとしたシーヴァの細い手首を、イアンがそっと掴む。

『何??早くしないと、しばらくの間、腫れたままになっちゃう……よ……』


 それ以上、シーヴァは何も言えなくなった。

 線の細い身体をイアンがギュッと強く抱きしめてきたから。






(3)


 あの夜――、初めてイアンの方からシーヴァにキスをしてしまった。

 決して越えてはいけない線を、イアンは自ら飛び越えた。とんだ最低最悪な男だ。きっと天国にいるであろう妻と娘はおろか、神すらも呆れ返っているに違いない。


 キスをされて『すごく幸せな気持ちになれた。こんな気持ちは生まれて初めてだよ』と、頬をうっすらと染めて幸せそうにはみかむシーヴァの姿が可哀想だと思ってしまった。本当ならば、年相応に同じ年頃の青年と初々しい恋をするはずだっただろうに。

 恋を知る前に性欲の捌け口にされてしまったことでシーヴァは人を愛せなくなっていた。そんな彼女が唯一愛したのが、親子程歳が離れているくたびれた中年男だなんて。


 きっと彼女はこの先も、自分以外の男には絶対に目もくれないだろう。

 理由をはっきり言えば、上からの物言いになってしまうが同情や憐れみだ。

 シーヴァも重々承知しているのか、あの夜の後も、二人は何事もなかったかのように日常を過ごしている。


「そんなもんかねぇ。最近、グッと女っぽくなってきている気がするぜ??俺が独身だったら、惚れてるやもしれん」

「そういう目で見ないでくれ」


 イアンのやや厳しい口調に、「冗談だ、怒るなよ。だけど、お前さぁ、シーヴァに対して情が湧き過ぎて手放せなくなっているように見えるぞ??」と葬儀屋はやんわりと彼を諭したのだった。

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