第35話 朝ヶ谷ゆうと舞羽のいない日々


 さて、不器用ながらも前を向いて進むことを決意した舞羽についてもっと語っても良いのだが、これはあくまでも僕達の物語である。人間として成長する事を決意した彼女に災難が訪れるシェイクスピア的妄想がしたいなら読者諸君の好きにすれば良いが、それは本書の主旨からそれてしまうのでここは割愛させていただく。


 とは言っても舞羽がいなくなってからの僕の夏休みについて、記述する必要があるとは思えない。奇想天外ダメ人間の舞羽がいなければ特別なトラブルも無く、僕は僕の決めたスケジュールに従って勉強をする。食べる。寝る。起きる。それを繰り返した一週間であったからだ。


 一応、かいつまんで記載しておこう。


 僕のスケジュールは完璧である。午前中に勉強をし、午後は運動をする。脳が疲れたら川端康成を読んだりして彼の書く女の子を堪能したりする。たまに何が楽しくてこんな事をやっているのかと悲しくなったりもするが、それこもれもすべて社会的有為の人材へと己を鍛え上げるためだ。


 以前までは舞羽に邪魔をされてまったく守れなかったスケジュールもようやく順調にこなせるようになって、滞っていた分野の遅れも取り戻す事ができた。パズルのピースがぴったりはまるような綺麗な時間の使い方ができて僕は満足していた。


 満足していた……はずだった。


 だというのに、僕はひどい虚脱感を抱いていた。


 僕のスケジュールは完璧であるはずなのに、どれだけ忠実に遂行しても、どれだけオーバーに勉強しても、一向に達成感がやってこないのはなぜなのだろうか? 味の消えたガムの味がするのはなぜだろうか。


 勉強すれども勉強すれども満たされず、逆に正体の無い焦燥だけが募る日々。


 僕は何か間違っているのではないか。他にもっとするべき事があるのではないか。気づけばそんな事を考えていた一週間だった。


 僕が社会人になるまでおよそ2500日かかる。けれども、このまま順調に事が進んで社会的有為な人材として世間に羽ばたく事ができたとして、そのとき僕に何が残っているのだろうか? 何も残っていないような気がする。


 僕は揺るぎない地盤の上を歩いてきたつもりだったが、その先に待つと信じていた充実した人生は幻だったのだろうか?


 それとも、僕の人生は天ヶ崎舞羽によってダメにされてしまったのだろうか?


 僕の価値観は天ヶ崎舞羽を基軸に構築されていたのだろうか?


 だとしたら僕はこれから先の人生を何のために頑張るのだろうか?


 世界が、とたんにつまらない物に感じられた。


                  ☆☆☆


 二学期が始まってからの僕の人生は無味乾燥であった。


 9月1日。朝、目を覚ます。一人で。


 たまには気分を変えて公園とは反対のルートを走る。一人で。


 朝食を食べる。これは母と。


 二学期が始まるので登校する。一人で。


 特にハプニングも無い通学路を歩く。一人で。


 その間、無言。あるいは音楽を聴く。それよりほかにすることが無い。


 こうして書き出してみたけれど、僕の人生とは何とつまらない行為の集合体であるかをまざまざと突きつけられるだけなのでやめる。


 そうして認めざるを得ない。僕の人生は天ヶ崎舞羽を軸に構成されていたのだと。


 彼女の引き起こすハプニング、奇想天外な言動、無自覚ゆえの破廉恥事案、他愛ない会話。そういったものが僕の人生の大部分を占めるファクトであった。彼女の見せる様々な表情が僕の人生を色づけていた。


 天ヶ崎舞羽と過ごした日々は当たり前の事ではなく、特別な日々の連続だったという事に舞羽が居なくなってから気がついた。


 彼女は僕の人生に多大な影響を及ぼして、唐突にいなくなった。


 男の恋は名前を付けて保存。女の恋は上書き保存とはよく言ったものである。


 どれだけ舞羽の事を想ったとて彼女が帰ってくることは無いのだ。なのに、僕は彼女の幻想から抜け出す事ができずにいる。


 このままでは僕がダメ人間まっしぐらである。たとえ気骨ある男に成長し、社会的に成功したとしても、誰かを幸せにできない僕に生きている価値があるとは思えない。


 僕が伴侶がいる事を前提とした人生設計をすることになるとは夢にも思わなかったけれど、少なくともその意味だけは理解できるようになった。


「だが、舞羽以上の女性などいるのか? 僕の人生はだいぶダメにされてるんだぞ? 舞羽以外に魅力を感じる女性が現れるとは思えないが……まあ、現れなかったらその時はその時だ。一生を童貞のまま終えよう」


 僕はそう決めて教室へと向かった。


 ところが、僕は忘れていた。僕の人生につきまとうダメ人間が1人では無かった事を。天ヶ崎舞羽ともう1人。舞羽とは違うベクトルでダメダメな彼女の事を、忘れていたのだ。


 少しばかり、その時の悶着について話そう。


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