畜生の園

涼風鈴

第1話 退屈な日常

騒がしい教室の隅で机に突っ伏して寝ている男がいたらそれはきっと僕だ。昼下がりの日光はどうしてこんなにも眠気を誘うものなのだろう。欠伸をかみ殺して涙を滲ませ前の方を見ればとっくに授業は始まっているらしく、黒板の前では眼鏡姿の先生が数式を書いていた。静かな教室には誰かの寝息とシャーペンがノートを走る音だけが響く。目立たない様に身体を伸ばせば教科書を引き出しから取り出して広げる。今の時間は数学だ。

「えー、今日は18日だから……18番、染谷」

黒板に書かれている日付を一瞥、溜息を零す。自分の出席番号は18番、のろりと立ち上がって黒板へと向かう。寝起きで頭が働かないなりに間違っていようととりあえず書けばいいや、なんて考えてそれっぽく数式を書き連ねていく。一応の答えを導き出して先生の表情を窺う。先生が低い声で「よし」と呟いて赤い丸を付けた。席に着けば座ったばかりなのにもう眠気が襲い掛かって来る。あぁ、つまらない。

方程式とか、三角関数とか、実生活のどこで使うというのだそんなもの。税金とか、法律のあれこれとか、明言されてないけど何となくで守られている社会のマナーとか、そんな使いやすい知識を教えてくれたらいいのに、なんて思う。しかしそんな事を考えていても授業がいきなり楽しいものに変わる訳はない。現実逃避気味に校庭を見やれば持久走でもやっているのだろう、トラックを延々と回るジャージ姿は皆苦しそうな表情だ。同じ所をぐるぐると走るのはこの授業よりも退屈で苦しい。なぜあんな事をしなければならないんだろう。寒風が吹いているであろう外はどんよりと曇っている。


街灯が照らす帰路は身体の芯から体温を奪う様な冷たさに支配されている。風が吹く度にウィンドブレーカーがカサリと鳴り、進める足を速めつつ、ネックウォーマーに鼻を埋める。早く早くと心持ちばかりが焦るがいつもここらを吹く逆風のせいで上手く進めない。部活の疲れも相まってか進む気力ごと削られていく様だ。

もう少し、もう少しと目指すはこの先の角を曲がった所にある自動販売機。そこの下段右端、コンポタ缶を購入して両手で挟み込む。微かに痺れるような感覚と共に手先に温度が戻っていく。ある程度のぬくもりを確保できればプルタブを手前に倒す。カシュリという音と共に立ち上る湯気をふぅっと一吹きして口をつける。食道に温かい液体が流れる感触がして、それが胃に落ちていく。真っ暗な道の少し先に向かって息を吐き出せば真っ白な息がくるりと渦を巻きながら世界に溶けた。その様子を見届ければ視線を上に向け瞬き始めた星の空気を吸い込んで軽くなった足取りを進める。これは僕の冬の習慣だ。帰宅の道が真っ暗になり、自動販売機に「あったか~い」が並び始めれば始まる夕食前の小腹満たし。空いた缶をゴミ箱に詰め込めば証拠隠滅もばっちりだ。

それにしても、つまらない日常になってしまったものだと星を見上げる。高校二年生、受験も無い、新しい環境に心躍らせる事も無い。変わり映えのない生活に飽きが来始めていた。

柔らかな布団、出来上がっているご飯、気さくな友人、退屈な授業、頼れる先輩、理不尽でない先生、開催が確定している大会、それに向けて練習できる環境、帰路のコーンポタージュ、笑顔の家族、暖かな家。平和で、恵まれているであろう生活。生まれただけで、この国に暮らしているだけで、この世界では“運がいい方”なのだ。そんな事は分かった上でも、それでも、この生活は退屈だ。あまりにも平凡な生活、それを歩んでいくのにすっかり飽きてしまった。贅沢な悩みだ、そんな事は分かっている。けれど、小さい頃はもっと世界は劇的だった。刺激に溢れていて毎日が楽しくて、全てが新鮮で、朝起きればまず第一に「今日は何をしよう」なんて考えたものだ。何でもできると勘違いしていて、何にでもなれると本気で思っていたあの頃、自分こそが世界の主役なのだと信じて疑わなかったあの頃の自分は眩しすぎて直視をすることが出来ない。

退屈に殺されそうな僕は刺激を求めていた。しかしそうすればするほど同級生達との隔たりは開いていく。芸能人のスキャンダルや流行りのドラマの話しかしない同級生たちの話はただひたすらに退屈なものなのだ。自分にとって退屈なそれを、この世に存在するすべての話題だと言わんばかりに話す彼等は退屈な存在になってしまった。僕は変わり映えのしない日常の少しばかりの変化を望んだ。あの頃の様に、目が覚める度に心躍る様な、人生のすべての時間をちゃんと使えている実感が欲しい。そう願う事は悪い事なのだろうか。人は慣れる生き物だ。そして際限なき欲を持つ生き物でもある。どんなに恵まれた環境でもそれに慣れ、更なる欲を抱いてきたから人類はここまで発展してきたのだ。僕は、この欲を悪いものだとは思わない。


「ただいま」

「おかえり」

「おかえり~」

「おかえりー」

暗い玄関の明かりのスイッチを探し当てる。土間に転がっているのはパステルピンクのシューズに黒のパンプス、そして聞いた事も無いメーカーのロゴが入ったスニーカーの三足だ。父親の帰宅はまだなのだろう。明るい奥のリビングから母親が顔を覗かせた。

「今日の晩御飯はオムライスよ」

「そうなの?やった」

料理が好きな母親の料理はどれも美味しいが、自分はその中でもオムライスがいっとう好きなのだ。小腹満たしは終わっているが食い盛りの高校生男子、おまけに部活終わりはあんなもの、食べていないにも等しい。腹の虫が泣き出しそうになるのを服の上からそっと押さえてネックウォーマーを外しながらリビングに向かう。

食卓にはもうすでにオムライスとサラダが配膳されていた。キッチンに立っているのは姉の弥絵(やえ)だ。そしてその傍らにいるのは小学生の妹、陽(よう)。リビングに顔を出せば姉はスープを注ぎ始めている所だった。ひとまず鞄を自室に置きに行ってリビングに帰ってきた頃には夕食の用意はすっかり完了している。父親も帰って来たらしい、久しぶりの一家勢揃いの食卓だ。いつもは父親か自分が欠けている事が多い。

「いただきまーす」

妹の元気な声につられるように皆も両手を合わせて食事を始める。薄焼きの卵を割れば見えてくるのはケチャップライスだ。時折入ったごろりとした鶏肉が美味い。

「悠兄、あとで教えて欲しい事があるの。算数なんだけどさー」

「分かった。後で持ってこいよ」

「わぁい、悠兄大好き」

「悠、そういえばあんたもうすぐ大会って言ってなかった?」

「もうすぐって言ってもあと一か月はあるぞ?なに、来てくれんの?」

「優しいお姉ちゃんが差し入れを持って行ってやろう!」

「まじで?やった、あざーっす」

喧嘩を全くしない、とは言い難いがうちは普通に仲がいい家族だと思っている。喧嘩して、何日も口をきかない事だってあるし家族みんなで出掛けたりもする。学校行事には必ずどちらかが来てくれる両親にわがままだがどこか憎めない母によく似てちゃっかりした妹、母をよく支えてくれて父によく似てしっかり者の姉。自分はどちらかと言えば父親似、常にあわただしく何かをしている母親に比べればどっしりと構えていて物静かな父親の方が雰囲気が似ている。

「ごちそうさま」

リビングでくつろいでいれば約束通りに宿題を持って近付いてくる妹。高校生の自分から見れば簡単な計算問題だがそれを鼻にかける気はない。何が分からないのか、それに重点を当てて教えてやる。

「あー、鶴亀算って奴か。これは考え方があるんだよ」

「どこから考えればいいか分かんない……」

算数や数学は好きだ、答えが一つしかないから。どんな求め方でもその方法に理論があって正解を導き出せるのならそれは正しい。採点者の裁量で正解不正解が決まる教科に比べたらなんとわかりやすいものだろうか。

「あ、でも方程式とか習ってないのか、それなら……」

こういうのは案外小学生に教える時の方が難易度が高い。自分の持っている材料を相手は持っていない事が多いからだ。少ない材料をどう組み合わせればいいのか、それを考えるのは難しいが楽しい瞬間でもある。

「まず少ない足の方で総数を割って、そしたら問題文のより多い頭数になるだろ?そしたらそこからどれだけ少なくしないといけないのかを考えて……」

説明を懸命に聞いてプリントに向かう陽はHBの鉛筆をこれでもかと握り締めている。力が入りすぎていて白んだ爪が何処か痛々しく見えた。

「陽、鉛筆握る時に力入れすぎだ。それだと疲れやすいだろ」

「うーん?分かんない……」

一度自室に戻って小学生の頃に使っていた矯正具を取り出す。いつか使うかもなんて取っておいたのが功を奏した。陽の鉛筆をにつけて渡してやる。

「悠兄、やりにくいよぉ」

「慣れたらこっちの方が絶対良いから」

ぶつくさと文句を言いながらも大人しくそれをつけてくれる陽は素直だ。

「……うん!分かった!悠兄、ありがと!!」

「どーいたしまして」

陽の宿題を見終われば次は自分のを終わらせなければならない。小学五年生の夏休みに作ったドアプレートがかけられたドアを開ける。ドアをくぐってすぐに扉の傍にある電気のスイッチを押すとピンという軽い音の後に何度かの点滅が起こった。明るくなった部屋を見回してまずは棚の上にある水槽に被せてあった布を除く。この水槽には1コロニーの蟻の群れが今日も生を全うしている。そろそろ餌やりをしないといけない頃だろうか、地表付近に出てきている何匹かの蟻が右往左往して餌を探し求めているように見えた。引き出しにしまってある飴を1つ、砕いて地面にばらまく。蟻達は砕いた飴の欠片をせっせと巣に運び込んだ。あれは小学生の夏休みだった。自由研究にと親が買ってくれたアリの巣観察キット。透明な水色のゲルの中に作られていく巣に夢中になって夏休みどころか、ほぼ1年観察し続けたが最後にはゲルが崩壊してしまった。今のスタイルに行き着くまで、試行錯誤を繰り返したがそれも楽しい思い出、今ではすっかりその小さな黒い昆虫を観察して、育てるのが趣味の一つだ。透明なプラスチックの壁をなぞればこちらを見上げる様に一匹が触角を動かした。

「お前達の考えている事が知れたらもっと楽しいんだろうけどなぁ」

蟻を観察していれば彼等がコミュニケーションをして秩序だった集団である事が分かる。彼等は彼等なりのルールで毎日を過ごしているのだろう。彼等が何を思って、何を思考しているのか、とっても興味深い。しばらく観察をしていたが部屋の時計がもう8時を指している事に気が付いて慌てて布を引き下ろした。宿題をしなければならない。

学習机に備え付けの軋む椅子に座り鞄を開く。今日の宿題は数学のプリントと自己学習だ。「今日は何するかな…」

シャーペンの芯をカチカチと繰り出しながら計画を立てた。


課題が終わるのに要した時間は実に一時間半。すっかり凝り固まった背筋を伸ばして背もたれに身体を預けた。

「悠―!お風呂入っちゃいなさーい!!」

「ナイスタイミング」

折よくかけられた声にそう呟いてベットの上に放り投げられたままのパジャマとクローゼットの引き出しにしまわれた下着を持って階段を下りた。この厳しい寒さに温かい湯舟の存在は非常に有難い。湯船に浸かれば冷えた手先がジリジリと痺れるような感覚がする。お湯に浸かり身体の力を抜けば無意識に声が漏れた。

「風呂あがったよー」

リビングに声をかけつつすっかり温まった身体のままベットに寝転がる。このまま布団に入れば体温を維持したまま眠りにつくことが出来る。冬の布団の中ほど幸せな空間はないだろう。

きっと明日も授業を受けて部活をして、友達と喋って家族と話して、いつもと変わらない生活なのだろうな、それに少しでも抗う為に明日は少し遠回りをして学校に行ってみようかな、なんて考えていればいつの間にか眠りについていた。

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