第16話

妻が亡くなったことについて、一応、警察から事情聴取を受けた。しかし、彼女が自殺であることは疑いようのない事実であり、また客観的な証拠も多数ある。


私が包丁を金庫にしまい忘れたことについても、『片付けの途中に、妻が暴れだし、仕方なく、一旦包丁をキッチンに仕舞った。妻が落ち着いた後に、改めて金庫に入れるつもりであったが、失念していた』という私の証言を、完全に信用した。


妻の介護による、私の憔悴が目に見えて酷かった、ということも影響しているだろう。警官は終始、私に対して、同情的であった。


妻を見捨てたことに対して、後悔の念は無かった。


しかし、彼女に恨まれているのでは、という危惧は拭えなかった。いや、彼女は私を恨んでいる、という確信に似た思いすら持っていた。


どうか死後の世界では安らかに過ごしてほしい、と思いながら、私は妻の通夜、告別式を滞りなく、執り行った。


しかし、である。


妻は、死後の世界になど行っていなかった。変わらず、私のそばにいたのである。


これは、別に観念的な話ではない。最初の異常に気付いたのは、妻の葬儀が終わり、家の後片付けをしている時であった。


死人であるはずの妻が、キッチンで一人佇んでいた。


その時の、私の衝撃たるや、言葉に出来ない。驚きのあまり、私は声を上げようとしたが、声帯が自身の機能を忘れ、口をパクパクと開くだけであった。


幽霊なのか。


最初、私はそう思わざるを得なかった。誤解をして欲しくないのだが、私は別にオカルトに傾倒している人間ではない。


これでも、(コンピュータ相手ではあるものの)エンジニアの端くれである。


私は、妻の安からな死後に思いを馳せながらも、霊などの精神的な存在は、あまり信じていなかった。しかし、死んだはずの妻を前にすると、自身がこれまで、信じていた価値観は、いとも簡単に揺らいだ。


幽霊に違いない。私を恨んで、化けて出たんだ。


私はそう判断した。


しかし、同時に幽霊にしては、はっきりとしすぎていた。まるで、妻がその場に本当に、存在しているようだった。


私は彼女に呼びかけた。しかし、まったく応答がなかった。


どれくらいの時間が経っただろうか。私は呆然とその場に立ち尽くしてた。


私の脳味噌は、目の前の状況を、なんとか自分の理解・認知の枠に収めようと、懸命に努力していた。しかし、全て徒労に終わった。


もう、この幽霊と向き合うしかない。


私は、意を決して、妻の正面に立ち、その表情をまじまじと観察した。


どこからどう見ても、妻そのものだった。しかし、目だけ明らかに異質だった。


あの目だ、とすぐに気付いた。自殺をする前に、妻が見せていた虚ろな目つき。この世の全てに絶望している、あの表情だった。


私は、その段階で、考えることをやめた。考えることが出来ないほど、追い詰められた、とも言える。


ごくごく自然に、私の手は動いた。妻の顔に触れようとしたのだ。


しかし、私の手が、彼女の頬に触れようとする、まさにその瞬間、私はまたもや仰天することになる。


妻はその場から、完全にした。


まるで、霧が晴れるかのように、何の音もなく、そして何の余韻もなく、妻はその場から消え去った。


私の手は虚しくくう彷徨さまようだけであった。

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