第12話

「残念です、ほんとに」言葉とは裏腹に、帰国を告げた際の灰流は淡々としていた。私は内心、灰流から引き止められることを期待していたので、いささか失望を覚えた。もっとも、こちらから別れを切り出している身なので、大変身勝手な期待と言わざるを得ない。


「現在の奥様のご様子は?」灰流には、家庭のことも包み隠さずに話した。その原因が、私が家庭をかえりみなかったことであることも、伝えていた。


「少なくとも、一日中、誰かがそばにいて支えてあげる必要があると思います」事実、その時の妻は自傷行為の傾向が見られ、最悪の場合、自死の可能性もあると医者には脅されていた。流石の私も、その言葉には打ちのめされた。


「だから、仕事からも離れることになりそうです」


「それは勿体無い。なんとか仕事を続ける方策はないのですか?あまり部外者が口を挟むべき問題ではないと思いますが、プログラマーという仕事は在宅でも行えるのでは?」


「ええ、可能だと思います」実際、会社は出社を求めない勤務方式を用意していた。その制度を利用することも出来るが、私は固辞した。


「では、どうして?」


「たぶん、また同じ繰り返しになると思うんです」私は米国での日々を振り返りながら、「私はコードを書いていると我を忘れて熱中してしまう悪癖があります。だから、バランス良く自分のリソースを、妻の介護と、仕事に振り分けることがおそらく出来ないでしょう。必ず破綻してしまう」


「どうしても、仕事を優先してしまう、という意味ですか?」


「そうです。残念ながら、今の妻の状態は予断を許さないようです。いろいろな医者に診てもらいましたが、それだけは共通していました」


灰流は黙って私の話を聞いてくれた。別れ際には、自分の知り合いの心療内科のドクターで腕の良い奴がいる、と言って、紹介まで申し出てくれた。私は灰流の思いやりに感謝し、丁寧に紹介を断り、その場を後にした。


さて、灰流には話さなかったことが一つある。それは、仕事を辞めた本当の理由である。


結論から言うと、私は、妻の存在を少しづつ疎ましく思うようになっていった。


つまり、彼女が健康でいさえすれば、自分のキャリアが途切れることはなかった。そういった思いを、私は無意識下で育てていた。


しかし、夫として、一社会人としての人格が、上記のような感情を抑制していた。私はよき夫として振る舞おうと決意し、事実、そのように振る舞った。


全て、自分自身を人間として認識したかったからである。


中途半端に仕事に片足突っ込んだ状態では、未練が残り、余計に妻の存在を重荷に感じるのは必至である。そんな状態では、義務感が憎悪に転化するのは、時間の問題のように思えた。


要するに、私は、自分が良い人間であるとたかった。そのために、仕事を辞めたのである。




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