06 Alex

6-1

 叩きつけるような雨だった。高く、深く、大粒に降りしきり、防水コートを打ってなお、足元へ飛沫をあげる。風さえ無い中もう何度目か、眼球レンズに澱んだ水を、涙のように拭う。


 何一つ、確かなものは見えない。街灯、ここにはそんなものも無い。雨水がどれだけに波を立てようと、闇は色を持たず、ただひたすらに画一的だった。暗視モードの視界の中辛うじて映るのは、足元に砕けるアスファルトだけだ。

 座標軸のデータはあるが、衛星測位システムとのリンクも、相対軸となる電波拠点も無い。旧式の地図データが辿る、絶対的位相だけが頼りだった。それが正しいのか間違っているのか、確かめる術は一つしかない。目的地へ辿り着くことだけだ。


 暗闇に隔離壁が現れた。それを目印に見上げ目を凝らせば、壁の向こう、遠く輪郭の影が見える。オールド・トーキョー全域を覆う、崩壊した廃ビル群。その歪な立ち並び、そこにあった。


 だがその輪郭線の連なりを掻き分け、或いは塗り潰すように、巨大な三角直線がそびえる――――メガピラミッドビル。


『シンジュク都庁シティホールが見えるはずさ』


 記憶にあるゾラの言葉と一致した。

 指を壁に這わせ、横伝いを果ても無く歩く。


『オールド・トーキョー最深部、そこは熱核兵器の爆心地だった。今でも深刻な放射能汚染で、誰も近づけやしないんだ。アンドロイドの君だって例外じゃない』


 放射線は半導体を破壊する。それは肉よりも容易い、寧ろ人間よりも、アンドロイドに致命的だ。


『けれど都庁は残った。熱核兵器にさえ耐え得るよう、立派に要塞化してたんだ。ま、結局都庁以外全部焼けたから、放棄されたけどね。笑えるだろ』


 しばらくに歩くと、壁が途切れた。かつては検問所らしかった場所に、幾つもの倒壊したビルが突き刺さり、全ては崩落している。

 その剥き出しの鉄筋に雨が滲む隙間に、身体を潜らせる。目指すのは壁の向こうではない、下だ。爪先を頼りに、地下への階段を下る。


『でも連中も賢かったよ。ちゃんと安全な抜け道を用意してた』


 扉がそこにあった。


『その先で僕は待ってる』


 ひとりでにランプが通電し、瞬いた。触れるまでもなく、勝手に扉が開く。


 廃墟ではあり得ない。薄暗くランプが連なり、通路に灯っていた。塵埃こそ深いが、一面のコンクリートには皹一無く、無機質な灰褐色にある。

 その中を進み続け、防水コートの雨水が乾く頃、通路は終わった。出口のエレベーターはまたひとりでに開き、乗り込むと同時に動く。

 ピラミッド形状のビル表層を、斜角へ上昇していく。地下から地上へ、放射線遮断ガラス越しに外界が覗うた。だがエレベーター内を照らす白熱灯そのものが、暗闇をより強めた。遠景に見えるものは何もない――――ニューヨコハマの喧騒であっても。


 最上階でエレベーターが止まる。


 開けた場所へ一歩、冷たいコンクリートの質感へ踏み出す。足音は響かない、一面に横たわる暗闇に呑まれる。壁らしきものも、天井さえも見えない、存在を感じられなかった。

 灯りはただ一つ空間の中央、ほんの数メートル四方を照らしていた。簡素なポールラックに、細い金属フックでかけられたシャンデリア。比喩でも錯視でもない、ガラス細工を重ねた電球シャンデリアだけが、この空間に灯っている。

 そしてそれを対角に挟むように、埃をかぶったソファと、コンソールテーブルがあった。

 複数のスイッチとボリュームが並ぶ。その大半は意味を読み取れない、だがこれが存在すること自体が、一つの推測を証明した。「主電源」とあるレバーを倒せば、目の前一面に照明が差す。


 そこに俺がいた。


 見上げた空間を埋めるのは、無数のハンガーレールだ。その直角無比な縦横列行の交わるだけ、俺がいる。接続ユニットから上体だけを出し、目を閉じて眠る全てが俺と全く同じ顔、身体を持ったセクサロイドたち。数百、数千を下らない。


 ならば手はある。首の後ろから有線コネクタを引き出し、コンソールポートへ挿す。セキュリティロックはなかった、誰にも知られていないシステムに、必要あるはずがない。そのままデータを送信し――――断たれた。


 銃声が、有線を物理的に切り裂く。


「なるほど、合理的だ」


 暗闇からシャンデリアの下へ、ボロ切れを羽織った裸体が現れる。


「起動前のアンドロイドには、独立した自我が無い。外部から命令を与えれば簡単に動かせる」


 ゾラだ。


「ましてやそれも、全く同じ思考プロトコルのアンドロイド、正真正銘君自身だ。数十メガバイトの薄っぺらい自我をコピーするだけで、完全な操り人形にだってできたろうね」


 コンソールへゾラが近づいてくる。距離を取るうち、ソファ側へと追いやられた。


「自分自身ならどう扱ってもいいし、いくらけしかけて死んだっていい。実に君らしい、合理的な発想だ。でもね」


 ゾラはコンソールの上に腰を下し、指先でレバーを弾いた。


 無数の俺が眼を開く。何もかもが同時だ、瞼の上がる緩慢な動き、唇の擦れる角度に至るまで、全てが統制されている。


 だがそれはすぐに崩れた。接続ユニットに繋がれたままでなお、数多の眼球が動き出し、一つとして同じ線を描かない。ある俺は一点を見つめ、ある俺は不規則に泳がせ、ある俺は俺を見ている。


「今彼らはね、独立した一人として生まれた。限りなく君に近い、けれど決して君ではない。あとで記憶を消すのは手間だけど……もう人格を上書きすることも、外部から操作することもできない。君のようなセクサロイドではね」

「『元』だ」

「お願いして助けてもらう? 無理だね、彼らはまだ手足さえ動かせない、まっさらな赤ん坊のようなものさ。それに、君が何人いても無駄だよ」


 背に照明が差した。振り返ったそこに、俺たちがいる場所の反対に、ゾラがいた。


 空間の一面を埋める無数のカプセル、その培養液に満たされたそれぞれに、ゾラが眠っている。男性器を持つ個体、乳房を持つ個体、微細な差はあれど全てゾラだ。

 シャンデリアを境界に、二つのハンガーレール群――――俺たちとゾラたちとが向かい合い、天井を覆う。


 とはいえ、幾つかのカプセルは既に開いている。脳漿をぶちまけたゾラの死体が、銃痕に目減りした培養液に浮かんでいた。


「あ、ちゃんと殺しておいたよ。追加で二十五人、これで僕が五十二人目、二周目でまたZ。遠慮なくゾラと呼んでくれていいよ。ま、兎に角座ってよ。いかしたインテリアだろ? ウォートーカーから仕入れたんだ」


 退路らしい退路も無い今、座っている一瞬が命取りになりかねない。


「立ってる? それもいいけど、兎に角安心してよ。今すぐ僕たちみんなで、君をリンチにしようってわけじゃない。君はお客様だ、ここに招かれた、過去現在唯一ただ一人の存在だよ」


 話し合いに来たつもりはない。だがゾラは、それを望んでいる。


 一つだけ確かなことがある。ここにある全てを破壊すれば、ゾラも死ぬ。それには隙が必要だ。


 ソファに腰を下すと、ゾラは目を細めた。


「どうして君を招いたか、わかるかな。他のどの人間やアンドロイドでもない、ましてや他の君でもない。何故今ここにいる君なのか」

「わからない」

「そ、それだよ。わからない」


 ゾラは天井を見上げた。より正確には、天井を覆う俺たちとゾラたちとを。


「ここにいて実際に動いてる君たちを見れば、疑いなくわかってもらえると思うけど。これまで何十万と君を作った。君はその中で、元セクサロイドの契約労働者――――これと言って特徴もない、どこにでもいるあり触れた個体さ。大抵は僕に会うこともなく野垂れ死ぬ」

「否定はしない」

「でもそれがまだ生きてる。重酸性雨の降るニューヨコハマを生き延びて、二度も――――例えそれが、極めて偶然に依るものであっても――――僕を殺した。このロット最後の一人になった」


 次のロットたちの視線が、頭上からゾラの広げた手を追う。


「意外だった、想定外だった。そしてそれこそが、僕の求めていたものさ」

「随分暇らしいな」

「うん、暇だったよ」


 ゾラの視線が落ちる。天井から俺の上を過ぎり、足元に注がれた。その点と呼ぶには曖昧な場所に落ちたまま、唇だけが動く。


「ずっと待ってた」


 ボロ切れから覗く足を組むと、その上に頬杖を突き、視線を何もない左に滑らせ、ゾラは続ける。


「君は生き延びた。他のどの君でもできないやり方で、他のどの君にもない力で、僕の知らないことを知ってる。だから生き延びられたに違いない」


 性別を持たない声は、次第に低くなっていった。音の高低ではない、抑揚でもない。ただが言葉を形にするほどに、静けさを寧ろ強める。


「でもそんな君を、君自身さえ知らない。だから君に投与するんだ、他のどの君にも与えたことのない、一番の刺激を……真実。君も聞きたいだろ」


 ゾラは一方的に続けた。


「聞いてくれよ」

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