終章 花失致死

花失致死 黒

 その慟哭は夜の街を引き裂いて、私たちの心を千々にばら撒いた。それは確かに、私たち、のものだった。

「あァア! 私のッ、私の樹里亜がッ!」

 陰から飛び出した樹沙が、私の食べ残しを抱きかかえる。ひとであった形をほとんど留めていないそれを、樹里亜の名で呼ぶには足りないものが多すぎた。だって、それはもう私の胃に収まってしまったから。辛うじて食べ物が樹里亜であった証左として、半分だけになってしまった整った面立ちが虚ろにこちらを見返していた。

 もうすっかりモノだ。生が抜け落ちて、ただの物になってしまった。これではもう駄目だ。これから先は鮮度が落ちていくばかり。臭いでわかる。

 露出し破裂した血管からとめどなく吐き出された体液。保持するものがなくなった身体は、次々と細胞が劣化していき壊れていく。新陳代謝によって押し留められていた化学反応という変化の歩みが進み始める。微生物たちの宴がはじまる。死んだ先から味が落ちていく。定められた腐敗だ。

 この時ばかりは私の感覚の鋭さを呪った。例え死にたてのモノでも、品質が落ちれば真っ先に気が付く。現に纏っていた花の香りが飛んでいる。獲物の脳内で分泌されたいた快楽物質が吐き出されなくなり、維管束を伝って肉をはじけさせていた香辛料じみた隠し味が失われてしまった。

 もう彼女は美味しくない。

 彼女が実践していた踊り食いは、獲物の味を保つための重要な食事作法だったのだ。決してとどめを刺さず、獲物自身の旨味を最大限引き出しながら味わい尽くすための。

 惜しいことをした。美味しいところを逃した。

 私は後悔に唇を噛んだ。

「どうして、どうして私の樹里亜が、こんな、こんなはずじゃなかったのにぃ……」

 悲嘆に暮れる樹沙を見下ろす。こいつは近くに隠れて様子を伺っていたに違いない。でなければ、異変を察知してこれほど早く、人気のない場所へと飛んでくることなどできまい。なにもかも、彼女らの企みだったのだ。ただひとつの誤算があったとすれば、私がうっかり樹里亜を殺してしまったこと。ちょっとした事故だ。興奮に任せて振り抜いた私の腕が、偶然彼女の頸を捉えてしまっただけ。

 それを悲しむ権利はあんたにはないのよ、樹沙。

「自業自得でしょう? 奪われて悲しむなんてやめてちょうだいよ。私を嵌めたつもりだったのよね? あの小瓶の中身、樹里亜の香りだった。濃い誘惑で発情させて、標的の開花を促し、擬人花はんにんの近くへ誘導する。飢えた擬人花が強い花の香りに誘われて、美味しそうな獲物に食らいつく。そうして何人も襲わせていたんでしょう? あなたたち樹里亜の側近が、彼女の食事のお世話をしていた」

「違うわッ」

「何が違うっていうの? 樹里亜を同属殺しの化け物に変えてしまったのは、あなたたちの罪だ。あまつさえ、その花を枯らせた。樹里亜は自分ではもう食事の誘惑には抗えなくなっていた。だって……あんなにも美味しいの。やさしいやさしい樹里亜は気に病んでいたはずよ。昼間にみせた落花はその現れ。お前だ……お前たちが樹里亜を穢した。花を踏みにじって、堕として汚した」

 でも、許してあげる。だって、そのおかげで私は知ることができた。

 歪んだ形になっちゃったけれど、触れることができた。どこまでも遠くて、届くはずのなかった初恋に。今は私だけが樹里亜を独占しているんだから。恨んでなんかいないよ。

「ちがう……違う、違う、違う! 私じゃないッ」

 樹沙は必至で肉片を掻き集めている。くっつかない肉を手でこねて、樹沙の熱が皮下脂肪を溶かし、いっそう早く細胞片が崩れていく。肉は水っぽくなって、赤い泥に変わって流れていく。

「なにが違う」

 この期に及んで言い逃れようとする態度に腹が立った。食べ残しとは言え、樹里亜だったモノに触れてほしくない。嫌悪は私の足を動かし、そして無遠慮に彼女の頭を蹴り飛ばした。

 泣きじゃくりながら違う、と訴える樹沙。みっともなく樹里亜の肉にすがりつこうとする。なんて醜く、みっともない生き物なんだ。愛でられ、美しいと煽てられても、私たちの本性は浅ましく愛を貪るけだものだ。

「私たちはむしろ守っていた方なのに。樹里亜が壊れてしまわないように、花を失って枯れてしまわないように。食べさせる子だって樹里亜に恋した子を選んでいた。食べられた子たちだって本望だったはずよ、樹里亜と一体となり、その美しさの糧になれるのだから。それを、それを、あなたが台無しにしたッ」

「だったら。だったら、いの一番にあなたが身を差し出すべきでしょう? あなたは愉しんでいたのよ。樹里亜を通して、食事と加虐の快楽を貪っていたんだ」

「私の苦しみなんてわかりっこないッ! 樹里亜に見向きもされなかったあなたには分かるはずがないッ! 樹里亜は私を愛していた。愛する私を傷付けまいと、ほかの子を食べることで慰めていた。悩み、苦しみ、葛藤していたの。食肉の快楽と愛の狭間で耐え続けていたのよ」

「身勝手な理屈を」

 苛立ちが香気となって発散される。随分と花が咲いた。樹里亜に強制的に感情を引き出されて芽吹き、樹里亜を食したことで全身から零れんばかりに花が溢れる。もはや樹沙ごときに後れを取る私ではない。暗い興奮を知った。愛の味を噛みしめた。快楽の毒を味わった。

 上位花人にも引けを取らない。いずれは太夫にだって手が届くだろう。樹里亜の屍の上に私の美しさは咲き誇る。すこしだけ、わかってきたことがある。花人がより強く、多く、美しい花をつける条件。以前はただ単純に恋愛の経験を重ねればいいのだと思っていた。それだけでは不十分だ。

 より深く、より濃い。

 愛や恋は突き詰めれば欲望だ。対象へと向ける思いの強さ。愛の定義はだれにも決められない。より強い欲望の芽生えが花人を昇華させる。煮詰めれば暗い業の華。

 食べ残した樹里亜を見下ろすと、小器用にも胚種は私の凶刃を免れていた。食い破られることも、爪を立てられることもなく、つるりとした顔をのぞかせている。身体はもう駄目かも知れないけれど、彼女の魂はまだここにある。絡みつく管や肉を引き千切り樹里亜の胚種を抱きかかえた。

「あなたたちを最後に樹里亜の心は平穏を取り戻すはずだったのに。美しい身体を維持して、太夫として愛されたままで『花園』への凱旋を果たされる日は、祝祭の終わりはすぐそこだったのに」

 地面に這いつくばったまま、身動きの取れない姿勢で樹沙は歯噛みする。

「あなた、たち?」

「今となっては、もう何もかもが水泡に帰した。あの子の死も無駄になってしまった。生まれたばかりの子には悪いことをした」

 樹沙は自分勝手な憐憫を彼方へ向ける。そして、私に意趣返しと言わんばかりの淀んだ眼を向けた。

「擬人花の脅威は去った。怪物を打ち倒すことで事件は幕を閉じるの」

 白い歯が闇に剥かれた。私を嘲笑う。

「筋書き通り、楽園の平穏は守られる」

 彼女が囁いた時には既に走り出していた。



 手遅れに見えた。

 なにが起こったのかを推測することは難しくなかった。噂を恐れて近寄らないとした考えは甘かった。あくまでも手出しをする輩がいない前提のもとで立てられたもの。はじめから、噂さえも計画の一部だったならば、なんの意味があるだろうか。

 あの場で私があなたを気にかけることは不可能だった。樹里亜を第一とする優先順位は変えられない。計画を知っていたなら、もう少し思慮深かったなら、冷静でいられたなら。この結末も少しは変わったのだろうか。

 ここにも転がる死体がひとつ。

 省みられることもなく、悼むものもなく、ぽつねんと孤独に寝そべっている。

 あなたは仰向けに、路面に晒される。白く柔らかい腹に大穴を開けて。花人の急所、胚種を的確に穿たれて、えぐり取られていた。外気に侵され黒ずんだ虚穴。のぞき込めば底のない後悔と罪に落ちていく。

 あなたは擬人花と誤解され排除された。花人を喰う危険な存在だからと殺された。

 擬人花は花人に擬態した別の生物、という話だった。にも関わらず、的確に花人の急所である胚種を狙われている。

 殺すよう囁いた誰かがいたからだ。唆した奴は相手が罪のない花人だと知っていたから、花人の急所を狙わせた。抵抗する隙すら、弁明の機会すら与えないように。樹里亜の取り巻きが手を回して、あなたを攻撃するように花人らを扇動したのだ。かねてよりの計画通りに。

 取り囲まれたときと状況は同じ。興奮した花人らは、互いの花の香で気分を増長させ合い、歯止めが利かなくなる。理性と力の加減を欠いた花人は、力任せに暴力の虜になる。あるいは、首謀者が自ら手を下したのかもしれない。

 想定された流れでは、樹里亜が私を喰うことで恢復し、擬人花は退治され事件は一件落着。無垢な子が犯人に仕立て上げられ、花人の抱えた罪は隠匿される。私がうっかり樹里亜を返り討ちにしてしまわなければ。

 あなたの死体を抱き起こす。冷たい土に寝かせたままでは哀れだから。

 私の浅はかさで死なせた後ろめたさもあった。

 不幸中の幸いと言うべきか。あなたはなにも解らずに死んだのだろう。表情は眠っているように穏やかで、頬は柔らかく強ばっていない。撫でた表面は冷めてしまっていたけれど、体の芯にはまだ熱が残っている。死んでからそれほど時間が経っていないらしい。

 あぁ、きっと醜悪な私だろう。

 この閉ざされた世界の誰より罪深くあろうとしている。

 私と樹里亜は恋人ではありえなかった。思いは一方的で、愛で快楽を高めあう関係にはなれなかった。

 そこにひとつの疑問が浮かんだ。

 あの快楽は、不完全だったのではないか。

 あの味は、足りなかったのではないか。

 口の中に残る樹里亜では、物足りないのではないか。

 方法が、あるではないか。

 胚種のない新鮮な死体と、胚種だけになった想いびと。

 彼女なら。花陀なら元通りにすることができる。あなたの穴を埋めるために、うってつけの核が私の手元にある。

 緩慢な仕草で、興奮を抑えて慎重に、樹里亜の胚種をあなたの腹に納めていく。それはあつらえたように、隙間なく欠損を補った。

 死体は完璧な生の美しさを取り戻しながら、死の魅力をもまとい、一層色艶を増して迫る。

 脈打つ痛みが右目の眼球に走った。

 これは恋だ。

 新しい恋が芽吹き出す予兆だ。

 植え付けられた罪と欲望だ。

 あなたが欲しくて、欲しくて、欲しくて、欲しくて、欲しくてたまらない。



 数日後治療を終えたあなたが目を覚ました。

 花陀は死後の時間経過のせいで、脳細胞が一部ダメージを受けていると言った。あなたの記憶が欠落している可能性があると。それは私にとって都合のいいことでしかなかった。まっさらなあなたが生まれ直したのだ。

 あなたは樹里亜の魂を宿し、けがれのない身体をもつ。愛しさの最高潮にある、花人の最高傑作とでも呼ぶべき恋愛の素体。

 でも、まだだ。

 ゆっくり愛を育てるのだ。

 あなたのなかにも愛を植えて、大きくする。時間をかけて、焼き付けて、離れないように。私のことしか見えなくなるように。花を咲かすのだ。

「おはよう」

 無垢な瞳で見上げるあなたに、私は挨拶を交わす。

 右目が疼く。つぼみが水晶体を突き破り、角膜を押し上げる。暖かな赤い感涙がこぼれて、頬に雨垂れを残す。

 あいが開く。

 愛しさがこみ上げる。

 あなたが好きだ。

 どうしようもなく、食べてしまいたいぐらい。

「はじめまして、可愛らしいあなた」

 私は丁寧に名乗る。

 あなたの胚種に刻み込まれて、二度と消えてしまうことがないように。

「私は桂花。あなたに恋した、ひとりの花人です」

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