頭中花葬 4

 街中まで駆け戻ってきた私は、使われていない廃墟の一角に身を隠し、膝を抱いて息を整えた。

 はっきりと油断していた。彼女が太夫だったということを忘れて接していた。深咲の人格は獲物をおびき寄せる。私はそこへのこのこと無警戒に入って行った。いくら拭っても脂汗が乾かない。私は思い出した。花人の住まう『植物園』のもうひとつの顔。華やかで甘いだけの場所ではないということ。貞節や心を守るには、危険すぎる世界だということ。

 だが、危険を冒して花陀に会った価値はあったと思いたい。肝心の瓶の中身こそ失われてしまったが、次に探すべき目標がわかっただけでも重畳だ。

 小瓶の液体は『蜜造酒』に。歯型の痕跡は『擬人花』に。

 擬人花は単なる噂の域を出ない話だろうが、蜜造酒に関しては何らかの形でかかわっていることは間違いない。『庭園』では出回らない、花人をも揺るがす媚薬だとするならば尚更だ。詳細を知らずとも、十分にきな臭い。

 それに花陀の最後の台詞。

 やはり、最終的には現役の太夫と接触しなくてはならないだろう。できれば直接やふたりきりで会うことは避けたい。今後は立ち回り方も用心しなければ。蜜造酒が言われた通りのものならば、誘惑される危険と隣合わせで調べることになる。しかし、調べるといっても簡単に見つからないものをどうやって探せばいいのだろうか。

 花陀は一服盛られないように、と警告した。

 祝祭の夜には必ずと言っていいほど宴が催され、その中には酒が供されることもある。口から飲食しない私たちではあるが、宴の酒は特別なものだ。

 酒といわれて思い浮かぶのはそのぐらい。花人が手ずから作っているらしい。酒には酔うことはあれど、意志を歪めるほど強い媚薬効果はない。せいぜい、その夜の盛り上がりの足しにする程度のものだ。製法も素朴で、花の蜜を集めて水と混ぜて甕に入れて放っておくだけ。なかには花人自身の花から蜜を集めて作る、という変態的な趣味の酒もあるとか。

 それだけに例の『蜜造酒』という名前は引っ掛かる。

 祝祭の宴は太夫や上級の花人が主催となって、主催者を慕う花人たちが集まって行われる。主催者ごとに宴の趣は異なり、特別なルールを課した遊戯や、夜を徹して酒色にふける集い。主催者と一対一で情を交わす権利を賭けて決闘をする、なんて催しもあり様々だ。

 私は宴が苦手でほとんど出席したことがない。桂花も自分で主催するような性質でもなかった。運よく太夫の開く宴の末席に紛れ込むことができれば、情報を得られる機会もあるだろう。あまり派手な催しに出席すると、それだけで面倒事になる。本当は知り合いの紹介があった方がいいのだが。宴に出たなんて樹沙に知られたら、また噛みつかれることになる。

 今は夜を待とう。

 見つからないように隠れたまま、時間が過ぎるのを待った。


 夕闇が濃くなる街に、帳が降りる。

 口さがない祝祭の街路は、花の芳香に誘われた花人たちで溢れていた。各々開催される宴へと足を延ばし、あるいは飛び入りで参加しようかと戸口から様子見している者もある。

 通りの一等地に立つ、ひと際豪奢な楼閣を見上げる。そこでは宵藤太夫の宴が毎夜ごとに開かれていた。

 宵藤太夫の開く宴は特別なもので、楼閣をまるひとつ貸し切りにされていた。彼女への憧れをもつ子たちが押し掛けるが、誰もが彼女に会えるわけではない。大勢いる中で今晩を共にする子を太夫が吟味して選ぶのだ。集まった子らを最上階の檜舞台から品定めする。太夫にのみ許された贅沢な遊びだといえた。さすがにそんな場所に踏み込む度胸はないし、時間の無駄になるだけだろう。

 参加者が顔見知りばかりの少人数すぎるものや、主催者に心酔した子たちばかりが集まる熱心な宴を避け、適当な規模の会場を探して建物を覗いて歩く。

 格子戸の隙間から細切れにされた人情模様。慕うひとと幸福な顔を見せたすぐ隣で、嫉妬に眼を尖らせる。めまぐるしく入れ替わる感情と表情。

 お座敷から漂う香炉の煙――花の香りを覆い隠し、目隠しをして、触覚だけで誰ともわからず混じり合う遊びに使う――で気分が悪くなる。濃密な夜の気配にあてられて眩暈を起こす。人波以上に、彼女らのめまぐるしい感情の変化に酔ったのだ。どうあってもこういう場は苦手だ。

 ふと、よぎる影がある。

「樹沙?」

 軒下でほてりを冷ましていると、視界の端に思いもよらぬ人影が映った。私を探しているのかとも考えたが、どうにも様子がおかしい。辺りに目配せして、誰にも見咎められていないことを確認すると路地へと消える。そのあからさまに不審な姿が気になり、あとを追って路地へと身を滑らせる。

 樹沙が大勢に混じって騒いでいる姿は想像し難く、私と同じく宴の席は嫌厭していたはず。もっとも、彼女の方が避けられることが多く、積極的に招待しようとする子はいない。自分の思い人が他人と親しくしているのをみると、感情を抑えられない性格で、大人数の花人同士の集まりが徹底的に向いていないのだ。

 嫉妬を肴にする性格の良いひとも珍しくはないのだが、大多数の花人は慎みという名の薄皮で刃を包み隠す。あくまで悋気嫉妬は自身の花を輝かせる昇華の糧であって、他人を攻撃する為の口実であってはならない、という暗黙の了解があるのだ。

 不文律を平然と破る樹沙は、みんなを愛する種類の子からも、約束事を守る真面目な子からも、ただ楽しいだけの恋愛に没頭したい快楽主義の子からも嫌がられる。嫌がられるという点では、宴の席でも暗く浮かない顔の私も似たり寄ったりだろう。つまらなそうだと愚痴られるくらいに。

 路地から路地へ。

 複雑に入り組んだ燦風路の裏側を泳ぐように渡っていく樹沙。尾行に気付かれることよりも、見失ってしまいそうで小走りに石畳を蹴る。寄せ木細工のように敷き詰められた間口と、気まぐれに現れる脇道。戸口を開いた玄関かと思えば、隣の裏路地へと抜けていたり。建物のなかへ入り、中庭を突っ切り、回廊を渡り、時には登って露台伝いに家から家へ。

 明確な目的があるのか、足取りには迷いがない。

 私は徐々に追いつけなくなっていき、裾が折れ曲がった角から覗いたのを最後に見失ってしまう。勿忘草の残り香も、祝祭の熱気に紛れて消えてしまった。

 蒸発してしまったように姿を消した彼女。私はすっかり迷ってしまい、途方に暮れた。先細りしていく通路がみえるだけ。頭上の夜空も細く月明かりが薄い。両脇の壁が圧迫して息苦しい。嫌な空気が鼻を突く。不安感から首筋が濡れた。

 一歩。足裏の石畳から冷気が伝染する。

 喧騒が遠く、ひたり、という自分の足音がやけに大きい。

 深呼吸すべく息を吸い込もうとしたとき、鼻孔から肺に甘ったるい香りが流れ込んできた。褥で思い人の花に顔を埋めて嗅いだときの、胸焼けするような、甘くすえた退廃の匂い。

 一歩進むごとに、濃密な匂いが裏路地を埋め尽くす。

 もう一歩。発生源はあの曲がり角の先だ。

 あの先には、なにかがある。

 予感ではなく確信が、私の喉を干上がらせた。

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