一章 花人薄命

花人薄命 黒

 風に乗って姦しい歓声が遠くに聞こえてくるほかは、捲る頁と衣擦れと床板が朽ちていく静けさに包まれていた。私は角の取れた安楽椅子を揺らして、微睡の縁でそのときを待っていた。

 梁が腐って傾いだ廃屋の屋根からは、新緑の若葉が大きく伸びをしていた。時が廃屋ごと私を呑み込んで、鼓動の拍子が腐朽の歩度と呼吸を合わせる。時の大河は水面が静止してみえ、進んでいることを忘れさせた。杉の柱と藁を練り込んだ土壁で仕切られた家屋は古い時代の遺産で、ゆったりとした時間のなかでも着実に森へ帰ろうとしている。漆喰ははげ、地面と勘違いした雑草が根を張らねば、壁などとうになくなっていただろう。

 元は郊外の小さな教会堂だったらしく、奥行きのある長方形の屋内には、簡素な祭壇と数脚の長椅子だったものが地に臥し眠る。私は通路の中央に位置取り、かつて神の像があったろう場所を正面に据えて待っている。新しく生まれ落ちる子を待ちわびる。

 こんな日についてない子だ、と思わなくもない。

 今日は、私たちの住む『庭園』の祝祭だ。街はずれで油を売っているような花人はいない。

 本来ならば多くの花人たちに見守られ、生誕の祝福を受ける。私のときは退屈に飢えた子らに取り囲まれて喧しいぐらいだった。花人になって以来、何度か立ち会ったが、入れ代わり立ち代わり少女たちがお祝いに訪れて華やいだものだ。今日もそうなる予定だったのだが。

「『花園』から帰っていらっしゃるのですって」

 『花園』に昇殿した太夫たちが、生まれ育った『庭園』に一時帰郷する。数年に一度、あるかという稀な慶事だ。数日前から準備だなんだと、上を下への騒ぎぶりで、今頃、歓迎のために盛大な祝祭が催されていることだろう。恋焦がれた、憧れのひとが帰ってくるのだ。誠心誠意お出迎えしたい、という子は多い。優先順位の先頭には、いつだって自身の恋心が居座っているものだ。

 まだ、何人にも触れ合っていない新人がないがしろにされるのは仕方がないこと。しかし、それではあまりに可哀想だと、私が見守り役を引き受けた。「相変わらず、素直じゃない」と、樹沙から生暖かい目線を送られた。

 あのひとと離れて約三年。彼女が太夫になって、はじめての帰郷だ。本当ならば、一番に迎えてやるべきなのだろうけど。私の胸には、三年前に喧嘩別れした記憶が、棘となって刺さったまま。実際は私が一方的に癇癪をぶつけて、喧嘩にもなっていなかったのだけれど。どんな顔して会えばいいかわからないから、と逃げてきたのだ。「初心過ぎるのも問題ね」と笑う少女たちを尻目に、ひとつ、彼女への後ろめたさも抱えていた。

 物思いを断ち切ろうと頭をふる。こめかみに咲いた花弁が揺れて、辺りに甘い芳香を振りまいた。

 あの日からもう十年も経ったのか。

 私はこれから生まれ落ちようとする名もなき『あなた』をみやる。

 視線の先には一本の樹。教会の床板を割って根を張り、太陽を求めた腕は屋根を突き破って広がる。寛衣をまとったようにゆったりとした襞が波打つ樹皮。朝方の、まだ青く澄んだ陽光が、の抱く木陰からこぼれる。

 本を閉じ、安楽椅子から立ち上がる。

 もうじきだ。胎動する蕾が気温の上昇を感じて開こうとしている。むせ返る蜜の香りが、廃れた教会堂に一時ばかりの崇高な気配を取り戻させる。

「母さん」

 私は樹木に呼びかける。今ではもう、名前も忘れられた私たちの母胎樹。『植物園』には彼女のような母胎樹が幾本も生え、数年に一度の間隔で花人を産み落とす。人間ら哺乳類はその胎に子を宿すという。胎児の成長とともに腹を大きく膨らませる。母胎樹も彼らに倣ってか、丸みを帯びた蕾が樹皮を押しのけて幹に生える。

 多くの花人は、生誕を神秘的で美しいと表現する。しかし、私は何度立ち会っても怖気が拭えない。不気味で、奇怪な光景。この感情は生そのものへの嫌悪感だろうか。それとも、生まれてしまった私への自己嫌悪が跳ね返って映るだけか。

 相変わらず慣れない。源泉のわからぬ不快感を抱え、それでも形だけ祝福を取り繕おうとする。

 あぁ、やはり後悔だ。

 新たな仲間へ贈る言葉があるとするならば。

「どうせ苦しいだけなら……」

 蕾が震える。

 やめておこう。彼女が私たちと同じ轍を踏むと決まった訳ではないのだ。

 唇を湿らせた言葉を、吐き出す前に呑み込んだ。しみったれた恨み言の代わりに、恋を知らない純真な生を寿ぐ。

「おめでとう、まっさらな。あなたはいつまでもあなたのままでいてね」

 命が芽吹く。

 陽気にほだされた花びらが、一枚ずつ、その頑なだった鎧を脱ぎ去っていく。仄白い花弁に囲まれた中心には、あるべき器官が取り去られた代わりに、少女の形をした『あなた』が生えていた。臍から下の身体を木の股座に埋めた格好で項垂れている。髪は琥珀色の樹液に濡れ、瞼を微かに震わせる少女。

 はた、と異常が目に付く。

 下半身がまだ母胎に繋がったままだ。正常な状態ならば、蕾が開いた時点で身体は樹から出ている。前に立ち会った子は蕾のなかで身体を丸めて寝っ転がっていた。埋まっている子というのは珍しい。明らかな難産。この子が無事産まれるためには介助が必要だ。

 私はしゃがみ込んで、脇の下から腕を差し込む。抱きかかえるようにして、引っ張り上げようと腿に力を込めた。生暖かい樹液が私の肌に垂れ、抱いた少女の身体が滑る。何本もの糸が千切れる、ぶちりとした生々しい感触が体越しに伝わってくる。少女は未熟児だったせいか、母胎樹の繊維と癒着しているようだ。私はそれを力任せに引き剥がしていく。

 髪の毛を力任せにむしるような痛みに耐えかねて『あなた』の意識が覚醒する。

 痛みは、はじめて感じる外界の刺激としては強すぎるものだった。パニックに陥ったあなたは、産声も忘れて、腕をがむしゃらに動かして暴れる。歯の隙間から細く鋭い息遣いと、獣の唸りを吐き出す。生まれたばかりのあなたは、植物らしさや少女らしさを持ち合わせておらず、ただ命の激情に駆られて必死に苦しみを訴えていた。

「ごめん、ごめんね。苦しいよね、痛いよね」

 生を抱き締めているのだと実感する。

 幸い、あなたが暴れてくれたおかげで、埋まっていた身体が母胎樹から抜けきった。最後に臍と繋がった維管束を手早く引き千切った。指一本分の太さの管が離れた臍からは、勢いよく水っぽい体液が流れ出して床に染みを広げる。手荒な臍帯切断は相当の痛みを伴ったらしく、あなたは抜け出たばかりの足までも振り回して声にかえた。

 庭師のもつ刃物があれば、無用な痛みを与えることもなかったのに。彼らもまた、太夫の帰郷で出払っている。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 なんとか落ち着かせようと、いっそう強く身体を抱きとめる。線の細い少女の身体には、外見からは想像もつかない力が込められ、抑えるだけで精一杯だった。あなたの拳や膝が何度も私を殴打する。整えられていない爪先が、服の隙間に入り込み、隠していた傷に突き立てられる。歯を食いしばってうめき声を堪える。あなたの鼻元に私に咲いた花を押し付け、その香りを吸い込ませる。

「もう大丈夫だから」

 私たちの花にはふたつの香りがある、と聞いたことがある。

 教えてくれたのは、花人のなかでも最高齢と噂の『物知り花佗かだ』だった。沈静と興奮の、対になる状態を催させる香り。花の持ち主の感情に呼応して、花はその香りを変化させる。私はその話を頼りにして、なんとか気持ちを落ち着かせる。いつの日か自分がしてもらったように、身を寄せ体温を分け与える。滑る髪を撫でてやり、まだ何者でもないあなたが、名前もないあなたが、きちんとこの世界に在ることを教えてやる。

 あなたは喋る言葉もなく、私は香りと肌で包み、いつまでそうしていただろうか。いつしかあなたの緊張は緩み、くたびれたのか、深い息を繰り返しはじめた。

 私は眠りに就いたあなたを汚れた床に横たえるのも忍びないと、自分の服を脱ぎ捨て、その上にあなたを寝かせてやる。

 裸になったことで露わになる私の身体。未熟な乳房で押し隠していた傷から鮮血が滴っている。あなたの爪で引っ掻かれた傷は、皮が捲れて埋没していた花床を掘り起こしていた。私は思わず辺りに人目がないことを見回して確認する。

 よかった、誰にもみられていない。

 不貞を働いている場面を暴かれたように恥じ入り、すぐさま傷跡を手で覆った。あなたが抜け落ちたあとの母胎樹の虚穴から、樹液をひと掬いして傷跡に擦りつける。止血と汚して傷を隠すためだ。ひとつ胸をなでおろし、再びあなたを見遣る。

 やることはいくらでもある。まずはあなたの身体を綺麗にしてやらねば。

 錆びたバケツで近くの水路から水を汲んで戻り、粘度のある樹液を固まりきる前に布巾で拭って落とす。臍の止血は樹液がしてくれるので、余分な樹液だけを取り除く。

 それが終わったら、教会堂に放置されたままの誰かの忘れ物からマシな服を引っ張り出して着る。少々日に焼けて黄ばんだ、背中ががら空きのワンピースが残されていた。角度によっては危ういが、最低限私の隠したい傷は覆ってくれる。花人は奔放で、衣服に頓着しない子も少なくない。濡れたりして脱いでそのまま、ということはしょっちゅう。皆、自分の身体に咲いた花を見せびらかしたくて仕方がないのだ。

 一通り処置が済み、新しく生まれた子を観察する余裕ができた。私はあなたの眠る身体をつぶさに眺める。

 傷も、余分な感情も持たぬ、無垢な身体だ。汚れていないし、ひねてもいない。そこには素直な感動があった。ほんの十数年前までは私もこうであったという寂しさと失ったものへの羨望。そして、否応なき変化。指先で私の花に、傷に、触れる。失って得た感情ものの重さを確かめるように。

 知らなかったんだ。

 こんなにも痛いものだったなんてこと。

 誰も教えてくれなかったじゃないか。

 あのひとは私に弱さを植え付けた。こんなにも痛いのに、自分から捨ててしまう意気地がない。そうだというのに私は――。

 気が付けば、あなたが焦点の合わない、茫漠とした目線をこちらに向けていた。澄んだ黒い瞳。混じりけのない美しさがあると思えた。

「気分はどう? すこしは落ち着いた?」

 あなたは私の声に反応し、目線に意識を宿していく。小首を傾げ、風に髪を洗わせることで、私の言葉に返事をしようとする。葉擦れにも似た、あまりに穏やか過ぎる言語のやり取りだった。

「言葉は母さんから教わっているはず。あなたはもうただの草木ではないのだから、きちんと話すことをしなければ。億劫かもしれないけれど」

 花人は産まれてたてでも言葉を話せる。母胎のなかで、母さんの知識をある程度、受け継いでいるのだ。母さんの蓄えた記憶が管を通じて行き渡り、臍帯のつながりが途絶えるその時まで、子は教えを受けている。母胎樹も以前は花人だった証拠だ。もっとも切り離されたショックで色々と大事なことは忘れてしまうらしい。

「な、に」

 あなたは喉を震わせる不快感に戸惑いつつ、ふやけた声で問いかける。

「かなし、い、なに」

 自らの頬に手を当てると、乾いた肌に小さな川の流れができていた。花人は自他の感情に敏感な生き物だから、上手く抑制ができない。あなたをみていると、どうしても溢れる感情を抑えていられなくて、身体が勝手に、さめざめと雨を降らせるのだ。一滴掬って唇につけたとて、雨の味は複雑に入り組んでいて、自分でもなにがどうとは答えることができない。ただ、あなたの素朴に過ぎる生は、泣きたくなるほどに美しいのだ。

「なんでもないよ」

 花人になった私は美しく微笑んでみせた。

 この十年で、私は美しい笑みの作り方だけは上手くなった。

 花人らしい、美しい、愛されるための微笑みだ。

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