屑(2)

 ***


 大学二年の後期課程が始まってから一ヶ月が経った。

 今日も使い慣れた喫煙所で紫煙を吐く。短くなった煙草の火を消して灰皿に捨てた。

 酒に煙草に女。我ながらクズの道をまっしぐらだが、後悔はしていない。

 元からしてこの身にはクズの血が色濃く流れているのだ。今さらだろう。

 なんて、それが言い訳だと知りながら自省することなく今日も女を漁る。

 勿論相手にするのは都合のいい女だけだ。特定の彼女は作らない。面倒だから。その辺のスタンスは高校の頃から変わっていなかった。

「あん?」

 喫煙所を離れてしばらく。ふと目についた女がいた。どこかで見た記憶がある。

 キャンパス内? いや違う。もっと別の場所だ。もっと古い……ああ、思い出した。高校の頃の同級生だ。確か二年前、高三の時にはクラスメイトだったはず。あれから二年。あまりよく覚えてはいないが少しは垢抜けただろうか。まあ大学に入ってから一年以上もすれば誰だって多少は綺麗になるだろう。そういや名前はなんつったか。……ダメだな。思い出せない。

 ここに智也がいれば教えてくれるんだろうが、あいにく今日は別行動だ。

 少し考える。今日は誰も捕まらなかったから予定が空いてしまっていた。そこに現れた高校時代の同級生。どんなやつだったかも思い出せないが、まあ声をかけてみるのも一興だろう。暇潰しくらいにはなるはずだ。もしかしたら向こうは覚えていないかもしれないが、それはそれで別にいい。

「よう。久しぶりだな」

 こちらに気付かず立ち去ろうとする女に待ったをかける。

「えっ?」

 驚き。困惑。見開かれた目はすぐに細められて左右に行ったり来たり。この様子だと俺のことは覚えていなさそうだ。

「覚えてないか? ほら、高校で同級生だった」

くず霞さん」

「そう。なんだ、覚えてんじゃねぇか。驚いているみたいだったから、忘れられてんのかと思った」

 想像よりもずっと落ち着いた声音だった。なら急に声をかけられて対応に迷っただけか。

「葛城さんのことを忘れられる人って、そんなにいないと思いますよ」

「そうか?」

「はい。葛城さんは存在感のある人でしたから」

 俺は存在感があったらしい。初めて聞く感想だ。どうでもいいが。

 ところで、困ったことがある。

 こいつの名前、全然思い出せない。

 話せば思い出すかと楽観していたが、全く記憶が甦ってこなかった。

 あまり接点がなかったんだろうか?

 仕方ない。こういうことは引っ張れば引っ張るほど後々面倒な問題になる。さっさと聞いてしまった方がまだマシだ。

「悪いんだけど、名前が思い出せない。顔は覚えてたんだけどな」

「雲母です。百目鬼雲母」

 薄っすらと仕方なさそうに笑って、そう名乗った。

「ああ、そうだ。雲母だ。珍しい苗字だなって思ってたんだ」

 とってつけたような感想だが嘘じゃない。

 確かに聞き覚えのある名前。だがどんなやつだったのかはまるで思い出せない。ここまで思い出せないとなると、特に関わりのないクラスメイトってところか。

「そうだったんですか」

「そうだったんですよ。雲母。今日、時間あるか? 飲みに行こうぜ」

「私と?」

 当たり前だろ。わざわざそんなことを聞き返すほど誘われたことが意外だったのか? パッと見ではそこまでモテなさそうにも見えないが……。少なくとも俺が声をかけようと思う程度には整った顔立ちをしている。

「他に誰がいるんだよ」

「二人で?」

 警戒されたか? ……いやそんな感じじゃないな。どっちかというと戸惑っているような……。なんなんだこいつ。あまり見ない反応だ。

「誰か誘ってもいいぞ」

 別に口説き落とそうってわけでもないんだ。何人か増えるぐらいなら一向に構わない。

「いえ、…………はい、いいですよ」

 雲母はちょっとだけ考えるような素振りを見せて、でも結局頷いた。


 雲母を連れて行ったのは洒落た雰囲気の漂うバー。大学生がよく使うような騒がしい居酒屋は避けた。なんとなく今日は静かに飲みたい気分だったのだ。以前見かけてから一度行ってみようと思っていたのもある。

 ほとんど初対面の、それも大した関係になかった古い知人を連れていくには少々プライベート感が強すぎるのはわかっている。露骨に後の展開を狙い過ぎているように捉えられて引かれるかもしれない。だがそれはそれで構わなかった。どうせ暇潰しだ。

「こういうところへはよく来るのか?」

「いいえ。初めて来ました」

 と言うわりには雲母は落ち着き払っている。嘘くさい。まあ別にどっちでもいいんだが。

「葛城さんはよく来られるのですか?」

「まあ、そこそこってとこだな……。何にする?」

「……おすすめって、ありますか?」

 横並びに腰を掛けた雲母がそんなことを聞いてきた。手慣れてんなぁ。好きなの頼めよ。

「柑橘系とベリー系、後はコーヒーとかもあるか。どれがいい?」

「えっと……柑橘系でお願いします」

「はいよ」

 スプモーニ、いや、チャイナブルーにでもしようか。俺は、まあ、一杯目だしジントニックで。

 届いたカクテルで唇を湿らせながらぽつぽつと取り留めのない会話を交わす。悪くない。

「へぇ……。雲母は心理学科か。ちょっと面白そうだ」

「興味、あるんですか?」

「意外か?」

「少しだけ」

「ははっ。つっても本当に興味があるってだけだけどな。専攻するほどじゃあない。雲母はなんで心理学科を選んだんだ?」

「大した理由じゃないですよ。合格したのがそこだったってだけです。恥ずかしい話ですけど」

「ま、そんなもんじゃないか? 明確な目的を持って選んでるやつの方が少ないだろ」

「葛城さんは経営でしたっけ?」

「ああ。今後を考えて無難にな。……ん? なんで雲母が知ってんだ?」

さんに聞きました」

「智也に?」

 意外な名前が出た。いや、意外って程でもないか。

 智也はあれでまめだ。同じ高校から同じ大学に進学したなんて大した縁でなくとも、交友関係を持っていても不思議じゃない。

「智也とは仲がいいのか?」

 ないとは思うが一応聞いておく。

 もし万が一、智也とそういう仲だったら接し方を考えなければならない。あいつと揉めるのは御免だ。そこまでしてどうこうなりたい相手でもない。

「どうでしょう? 偶に見かけたら少し話すぐらいです」

「そうか」

 特に偽ったようでもなく、自然と紡がれた言葉に嘘や隠し事は感じられなかった。

 もっとも俺は女の嘘を見抜くのが上手いタイプでもないから本当のところはわからない。

 最低限の確認はした、というだけで十分だ。気にするだけ無駄だと、下手に勘ぐるのはやめた。

 空になったグラスを置いて、考える。

 少し飲み足りないが、ジントニック、ギムレット、マティーニと、初めて来た店で頼む定番のカクテルは一通り飲んでしまった。かと言って店を変えるほどでもない。

 ……今日はこの辺にしておくか。

 最後にXYZを注文する。

 思いのほか悪くない時間だった。それなりに楽しめたし、暇つぶしにはなった。

「えっくすわいじー? 変な名前のお酒ですね」

「これ以上のものはない、最高、って意味だ。ほら、XYZより後ろのアルファベットはないだろ?」

「なるほど。最高のカクテルですか」

 実際のところは諸説あるんだが、まあ詳しいことはどうでもいい。

「飲んでみるか?」

「……そうですね。じゃあ、少しだけ」

 XYZをもう一杯頼む。届いたのは見た目にも美しい白濁したカクテル。しばらくグラスを眺めていた雲母が口をつけた。白く細い喉が動くのをぼーっと眺める。

「どうだ?」

「美味しいです」

 XYZは酸味と甘味のバランスがよく飲みやすいので万人受けする。

 ただ注意しなくてはならないのが、口当たりの良さに反してアルコールの度数が高めなことだ。その日最後の一杯に飲むことが多いから酔いが回っているところに飲むことを考えなければならない。かく言う俺もほんの少しだけだが酔いが回ってきたのを感じる。

 ちらりと横目で雲母の様子を窺えば、色白の頬は上気して紅が差し、口元は僅かに緩んで、目はとろんと溶けている。

 あまりアルコールには強くないらしい。酔いが回っているのは間違いない。

 そっと息を吐く唇がなんだか妙に艶めかしくて、つい目で追ってしまった。そんな俺の視線に気付いたのか、雲母の濡れたような熱っぽい瞳が俺を捉える。

 ──そんなつもりじゃなかったんだがな。

 空白だった今夜の予定を書き加えた。

 雲母が席を外している間に会計を済ませて待つ。

「すみません。奢って貰ってしまって」

「気にすんな。急に誘ったのは俺だしな」

「……ありがとうございます」

 ネオンが妖しい夜の街を二人で歩く。時折ふらつく雲母の手を取った。

「危ないぞ。酔ってるだろ」

「平気ですよ」

「はっ、嘘つけ」

 握った手に力を入れて、雲母の華奢な体を引き寄せる。

「霞、さん……?」

 目が合う。小さく呟かれた呼びかけには答えないまま、そっと唇を奪った。

 突き放されることはなかった。

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