ごめんね最終電車

 最終電車の時間を確認して、あまり余裕がないことを認識した上で、私は「同じの、もう一杯」と注文した。薄暗いバーの店内は、段々と他のお客さんは帰っていって、今はもう、私と一組のカップルしかいない状態。


 勿論、明日はお休みで、終電を逃してネカフェで始発を待っても支障はない。ただ、自分の首や腰が凝り固まってしまうのと、満足に眠れないというだけだ。

 そんな苦行を思い浮かべても、席を立つ気にならないのは、まだ記憶をなくすほど飲めていないからだ。



 私は、大変危うかった交際関係を昨日解消した。昨日といっても、数時間前の話なのだが。「危うかった」というのは少し違う気がしていても、一言で言い表すことのできる語彙が、私にはない。もう少し説明を付け足すなら、一度破綻を望んだが終わらせることができず、いつ終るのかわからない危うさがあった交際関係か。なんと冗長な表現だろう。



 二年付き合って、価値観が合わないことに苦しみ、私は彼に別れの希望を申し出た。その日も始発を待たないといけない状況になるまで飲んで、帰ってから別れを告げた。

 少し年上だった彼は、私の話を冷静に聞いて


「それは、二人で埋めていくことができるんじゃないの」


と、言った。


「お前は、なんでも我慢して、何も言わないから、わからないんだ。何を嫌だと思ったのか、何で傷ついたのか、俺にはわからないんだよ」

「今、そうやって、わかろうとする努力も見せないで『わからない』と言ってしまうところが悲しいの」


 たぶん、そんな風に彼に言い返したのは、かなり久々だったと思う。彼は少しだけ驚いた顔をした後に、穏やかな声で


「そうだったのか」


と、呟き、そのまま「ごめん」と謝った。


「確かに、忙しくて疲れてるし、よく考えもしないで今まですぐに『わからない』と言ってたかもしれない、でも。今、それを嫌だと思ってたって、悲しんでたんだってわかったから。これからは、すぐに『わからない』と言わずに、考える。考えられない時はちゃんとそう言うし、後から考える」


 だから、もう一度やり直さないか。


 その言葉に揺らいだのは、彼の言葉への期待からか、それとも、ここまで妥協されたのに突き放すことへの後ろめたさか。


 私は、彼を、彼の言葉を信じることにした。その方が、楽だったからだ。何も変わっていない。

 私は彼のために、変わる労力を惜しんだ。



 そして、彼も、私のために変わる労力を惜しんだ。つまりは何も変わらなかったのだ。彼の台詞が


「わからない」


から


「考えとく」


に変わっただけ。



 終わりはひどくあっけなかった。


「急でごめん、別れてほしい」


 修復を誓って一ヶ月も経たないうちに、電話で言われた言葉に、私は戸惑った。本当に急じゃないか、どうして。


「理由を、聞いてもいい?」

「好きな人ができた」


 その言葉で、不必要な被害妄想が煽られて、私は訳がわからなくなる。


「その、人と、もう付き合ってるの?」

「違う、そうならないために、ちゃんと言ったんだ。お前のためにも、けじめをつけないとと思って」


 彼の自分に酔っ払った台詞は、私を大変惨めに貶める。何も考えていない、何もわかろうとしてない、最後まで!


「けじめって何? 何が私のためになるの?」

「それは」

「違うよね、それは次に付き合うつもりの、その好きな人を尊重しての行為よね。それの何が私のためだって言うの?


そもそも、やり直そうって言ってまだ一ヶ月くらいで新しい人に乗り換えるなんて、どこが私のこと考えてるって言うの? 私はあなたの新しい恋人ができるまでの繋ぎだったってわけね」


 言い淀みながらも、何かしら反論してきた彼の言葉は何も響かないし、もはや言葉として理解できなかった。


 絶えずこみ上げてくるのは、怒りと悲しみ。それも彼へのではなく、自分に対しての、だ。どうしてあの日、楽な方を選んでしまったのか。あの日、別れを一度決意した日に、もっと考えて別れを選択したら、こんなに自分を惨めにすることはなかったのに。考えていなかったのは、私も一緒だったのだ。


 こんな面倒な女、彼は嫌になって当たり前なのに、私は期待して、思考を放棄して、そして別れを告げられた。


 でも、私はどうしたら、よかったのかしら。


 ゆっくりと進んでいく時計の秒針を瞬きもできずに見詰めていた。あなたとの別れを飲み込みきれない私は、最終電車には乗れなかった。

 枯れ果てたと思っていた涙が、静かに零れた。

 それが未練なのかどうか、考えるのも嫌になって、またグラスを空にするのだ。この辛い記憶をなくしてしまえるほどまで。

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