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  • #45 私のテレビ創成期への応援コメント

    ウチも中学の頃テレビを買いました。
    遠い所からもやって来て、終わると数十人の残した砂や土埃などを、姉が掃除するのがいつものことでした。

    作者からの返信

    そんなに来られては大変ですね
    野球とかプロレスかしら
    あの頃は 喫茶店の入り口に
    〝テレビ 野球放映中〟なんて札が下がって
    お客さんを呼んでました

  • 野犬狩りはうっすらと記憶にあります。
    当時の人気海外TVドラマ「ベン・ケーシー」で、主人公の医師が噛まれて、発病するかと家族でドキドキしながら見ました。
    主人公ですから死なないと思っていても、当時の人達は狂犬病の恐ろしさを教えられていましたから、心配したんですよね。

    作者からの返信

    ベンケーシーのそのエピソード見てました
    狂犬病とか破傷風とか まだまだ身近にあって
    木下恵介劇場で 主人公が破傷風で亡くなるエピソード
    も記憶しています 今は病気の説明からしないと
    怖いと思われないのかもですね

  • 何だか映画で知る知識のようで、面白いですね。
    よくまぁこんなにいろんなことを教えて貰えて、と嬉しくなります。
    小説書いてる人には勉強になる知識ではありませんか。

    作者からの返信

    祖母や母や叔母などから聞いた話は
    もう 子供に話す事もないですが
    こうして書いて 読んで頂けるのは
    本当に嬉しい限りです

  • 1ドル360円を知っています。そんな時に外国へ行く人は凄い人で、洋行帰りと崇められたものでしたね。
    50年近く前に結婚しましたが、海外へは行かず10日間の九州一周の新婚旅行でした。
    やはりお決まりのホームでお見送り、ってのを受けました。
    照れくさいものでした。貰った花を襟元につけてやってる写真なんか見ると、わざとらし~って笑っちゃいます。

    作者からの返信

    海外旅行なんて〝夢の~〟とつく時代でしたよね
    ホームの見送りも次々発車する新幹線では
    やってられなくなったんでしょうね
    昔は 転勤していく人もホームで万歳三唱して
    見送ったりしてましたね

  • 真留女さんの記憶力には脱帽ですね。
    大いに感心していたら、私も少々思い出したことがありました。
    次兄の結婚式だったか、ウチでやったんですが参加者の中に(その家族だったかな)、赤痢(だったかな)の人がいたことが分かって、使った全部の什器や部屋を消毒するのにてんてこ舞いしました。

    様態の悪い状況を隠して参加していたと、後から聞きました。人騒がせな勝手な人もいるものだと、皆は腹が立つより呆れたと言っていました。
    たくさん集まりましたから責任を感じて、家族は大変な思いをしました。

    作者からの返信

    それは一大事でしたね
    お祝いに集まってくれた人にも気を使うし
    普段の何倍もの什器を使ってるし
    しかも 上等のものだし 症状が出ていたとしたら
    〝何してくれるねん!〟という気分ですよね

  • はじめまして、何時も楽しませていただいています。
    私の住んでいるところにも同じような、青のりと塩など入れてつく「かき餅」があります。
    各家によってこだわりの作り方があって、地元では「かき餅コンクール」も開かれています。
    子供の頃は大好きなおやつでした。

    作者からの返信

    いつもご訪問ありがとうございます
    同じ作り方なのに家によって味が違ったり
    塩や砂糖や甘辛醤油など 掛けるものにも
    個性があって 楽しかったですね

  • #57 昭和の旅 カニ族への応援コメント

    ボーイスカウトだった時に、カーキ色のリュックを使っていました。

    僕らは確か、「キスリング」と呼んでいたと思います。

    さらに時をさかのぼると、「カニ族」だったんですね。

    作者からの返信

    キスリング 持ってました 
    上部を紐でしばるだけで
    上蓋のないリックですよね
    あの紐の部分を複雑に巻いて
    そこに 大判の時刻表を半分に折り曲げて
    挟むのが〝カッコイイ〟という
    謎の風習がありました

    コメありがとうございます

  • とても。
    面白く、拝読しております。

    我が家の御風呂は。
    薪をくべておりました。

    ガス湯沸かし器が羨ましくて。

    だって。
    ひねると、お湯なんて。

    羨ましかったです。

    中学生の頃。
    よく、薪割していました。

    結構。
    楽しかったですけど。

    御風呂が沸くまで。
    ジョギングしたのを今でも覚えています。(笑)

    作者からの返信

    ご訪問ありがとうございます
    ガス湯沸かし器がつく前 母は油の多い皿は 
    まずやかんで湯を沸かして それで油を流してから 
    水道で洗ってたのを思い出しました

    時々 これがなかった時 どうしてたっけ??
    と考えても 思い出せない事があります
    今の子たちには 言っても分からない話ばかりですが
    面白いと言って頂けるの すっごく嬉しいです

  • 第2話 黄金週間への応援コメント

    はじめまして。

    昔は。
    土曜日も半ドンで。

    週休二日制よりも過酷でしたけど。

    その分。
    昼から麻雀や、飲みに行ったりと。

    楽しかった記憶があります。

    今は。
    休みでも。

    メールをチェックしたりして。

    気が休まらないような。
    大変な時代だと、思います。

    作者からの返信

    ご訪問ありがとうございます
    確かに 週休2日といっても携帯電話がある限り
    仕事や日常から完全に雲隠れは出来ない時代ですよね
    営業さんがポケベルを持たされた時に
    〝なんか 気の毒〟と思ったのを思い出しました

  • 姉は洋裁・和裁、編み物、お茶・お花など習っていたので、年のウンと下の私は、洋服やセーターなど沢山作って着せてもらってました。
    家の中には花が活けられていて、炉辺でお茶のお稽古ではお菓子目当てで、お客の役をしていました。(姉は甲斐あってか、いちおう旧家といわれる家に嫁ぎました)

    私は大学を終えるとすぐに結婚しましたから、花嫁修業なるものはせず、子育てが一段落した頃40の手習いでお花を習いました。
    花好きだったので楽しくて・・ 看板は不要と言っていたのですが仕方なくもらいました(買ったようなものですがね)。
    大きさはもう少しで洗濯板に使えそうなサイズ。何の役にも立ちませんでしたが捨てられず、やっと3年ほど前に物を載せる板となれました。

    作者からの返信

    好きこそものの上手なれ というようにある程度分別がつくようになってから〝これが好きだ〟と習うのが正しいお稽古だと思います
    それでこそ上達もするし身にもつきますよね 私は習い事に振り回されましたが 自分から行きたいと言ったのはソロバン教室だけでした

  • 私の田舎では真留女さんの言われる「なまこ」と同じように、丸餅以外はお餅を細長い蒲鉾型にして薄く切りました。
    白は勿論ですが黒豆や栃や柿(皮?)よもぎなどが入った豆餅・栃餅・柿餅・草餅などで、堅くならないうちに切って1本の縄(ワラ)に何個も縛って(うまく表現できませんが)、天井から何十本もぶら下げて乾燥させます。まるで暖簾のようになります。
    お餅はすぐにカビますが、こうしておけば保存食になり、おやつで楽しめます。
    お婆ちゃんのぽたぽた焼き、って何とか製菓にありましたがそんな感じで。
    さいの目に切ったものはあられや揚げ餅にして、そんなおやつが楽しみな時代でした。

    作者からの返信

    知ってます 薄く切ったお餅を藁に編み込むようにして軒に吊るして
    カラカラにするの見た事あります
    じっくり焼いたり 油で揚げたり 日持ちがするおやつでしたね

  • 高校生の時アメリカの少女と文通していました。
    クリスマスの頃の手紙に、クリスチャンでもない多くの日本人のクリスマスはこんな風と、真留女さんの書かれているサラリーマンのバカ騒ぎ?の風景を、下手な英語で綴りました。
    何とか意味は通じたようで、返事にはアメリカでもそんな輩が沢山いるとのことで、私の想像と反するものでちょっとビックリしました。

    作者からの返信

    へ~ びっくりですね 私の友人がカソリックの女子高で
    イブは校内の教会で一晩中ミサをして 朝出てくると母親たちが
    お汁粉を作って待っててくれたのがXマス
    と聞いて 海外はみんなそんなのかなと思ってました
    (汁粉はないでしょうけど) 

  • 本当に感心してしまうのですが・・
    これまでの回でも、例えば結納のことなどにしても、よおく記憶されているなぁと尊敬してしまいます。
    私なんか忘れないように書き留めておきたいと思っても記憶もないし、それ以前に物事に対して関心も持たない人でしたので、思い出しようにありません。
    でもたったひとつ、姉が嫁いだ先で箪笥の中を近所の人に披露するとかで、引き出しをいっぱいにして、着物をたくさん持って行ったのを思い出しました。

    実家自慢の友人(というほどでもないかな)が嫁いできた時に、反物を数えきれないほど持たせてもらって来たと言っていました。
    子供や孫が生まれた時までの分だそうで、必要に応じて染めるのだそうで白地だそうです。
    箪笥も幾棹だとか何がどれだけとか、(婚家は狭い家でしたのに)婚礼道具の凄さを競うような風習の地域の人だったようです。
    (因みに私は裸でと言って貰えてハイ宜しく、で、全てを婚家でまかなってもらいました。ありがたかったです)

    作者からの返信

    昨日の事は忘れるのに昔の事は一つ思い出すとズルズルでてきます
    引き出し一杯にしたら後使えない ほんとに合理的でないですよね
    箪笥の引き出しの底に 出産時用のさらしやガーゼの反物
    (安くてかさが高い)を敷いたなんて話も聞いた事があります

  • 「愛ちゃんはお嫁に」に出てくる「でしゃばりお米」がその仲人の代表❓格ではと、私は思っちゃいます。
    そんな世話好きな、仲人好きの人が張り切っていた時代があったんですよねえ。

    作者からの返信

    「でしゃばりお米」は懐かしい(笑)
    母がよく「全くあの人はまるででしゃばりお米だわ」なんて
    言ってました もう通じない言葉ですね
    隣の家の子が何歳かも分からない時代ですものね

  • #26 女で十文は恥だったへの応援コメント

    次姉が多分足が大きかったのでしょう。
    靴を見ては「バカの大足、間抜けの小足」といって、母はとても残念がっていました。気の毒に、ね~とよく思っていました。
    昔はこんなこと言ってたのか、と思ってスマホをみたら「バカの大足、間抜けの小足、中途半端のろくでなし」とありました。
    他にも地方によって色んな言われ方があると知り、笑っちゃいました。

    作者からの返信

    うちの方では「バカの大足 マヌケの小足 丁度いいのは僕の足」って
    言ってましたよ
    息子も27センチ越えで安いスニーカーにはサイズがなくて
    たっかいの買わされて 往生しました

  • 日紡貝塚の選手達、東洋の魔女なんてよばれてましたね。
    メダリスト達が全国の学校を訪問してくれたんでしょうか、私は当時高1だったのですが、私の母校の中学校にも来てくれたので、体育館で練習風景を見せてもらうことができました。
    中学では排球部だった私は先輩面して、選手達のいる部屋にも入ることが出来ました。写真も撮って得意になっておりました。
    河西選手は大きかったけど、藤本選手は中でもやや小柄で、回転レシーブがすごかったと私の頭にインプットされています。

    作者からの返信

    そうでしたね あの時 野球と相撲以外のスポーツを
    初めて見たと思います みな一流選手でしたから輝いてましたね
    排球部(そう言ってましたよね)でしたか
    直接お会いできて練習を見たら 一生忘れませんよね

  • ビートルズが来日した時、私は大学生でした。
    下宿のご主人から、息子がビートルズを見に行きたいと言ってるけどどうしたものか、と相談されました。
    あの頃はビートルズなどのロックは不良の音楽だという親たちがいました。
    古い親たちは、あのウエスタンカーニバルの様子を見て、ロックはろっくでもねえ(下手な洒落🙇)ものと思ったのでしょう。

    ジュリーにキャァキャァ騒ぎ、オックスのファンが失神するなんてこともありましたね、懐かしいです。

    作者からの返信

    リーゼントがまかり通っていた中学でマッシュルームカットは
    〝不良〟と言われて 先生のチックで髪を固められてました
    今から思えば 何だったんだろうです
    オックス 忘れました 今時の華奢で色白男子の先駆者ですね

  • 大学生の時は彼(現・夫です)のところへ電話して長話していました。
    公衆電話に10円玉をたっくさん持って、じゃらじゃら入れながら大変でした。
    その後どれ位かして100円玉が使えるようになりましたね。

    作者からの返信

    私の友人も「10円玉が10枚あったら取り換えて」
    と皆に言ってました 今の子には味わえない必死さですね

  • 一昨日10話まで一気に読ませて頂きました。
    懐かしくて、そうだった、あの頃は・・と昔を思い出しておりました。
    おそらく真留女さんは私の一回り下くらいでしょうか。でも同じようなことをしてきたようですね。(もっと若かったらスミマセン)
    今では子供達に話しても信じられないようなことを、我々は沢山経験してきました。
    当時の様子を話してやりたいと思うのですが、もういい歳ですので忘却の彼方へ、と行ってしまっておりました。
    それがこのエッセーのお蔭で蘇りました。

    今回の電話の件ですが、私もよく呼び出し係りに使われておりました。
    けっこう遠くまで呼びに行きましたし、お願いする方もそれをずいぶん気長に待っていましたね。
    時々、石鹸やマッチなどのちょっとしたお礼をもらったりしたものです。

    作者からの返信

    いつもありがとうございます
    〝一回り…〟イエイエほんの少しお姉さまを見つけて
    しゃあしゃあと妹面しているだけです

    そうですね 電話かけた時ずっと待ってましたね
    下駄の駆け込む音がして「来た」なんて思って
    懐かしいです