エピローグ

『え? 何? もう一回言って!』

「いや……だから……心配ばっかりかけてごめんって……」

 言ってるんだけど。その言葉は、きっと尻すぼみになりすぎてマイクに届いていない。

 それでも姉は愉快そうに、かつ豪快に、かつムカつく高笑いをあげる。

『何それめっちゃウケるんだけど! どうした? 死ぬん?』

 死にそうになってたのは一ヶ月前だし、なんなら自殺しそうだったのはもっと前だ。……とは口が裂けても言えない──こともないのだが、悪魔だなんだと初歩の初歩から説明するのが面倒なので言わない。というか死にそうになった話は前にしたはずなのだが。「死なんし」

 それから再び息を吸い、声にしようと試みる。が、上手く言葉が出てこないのには変わりなかった。

「……だから、いや……姉貴がいっつも俺ん家来んのもさ、やっぱ体調とか気ぃ遣ってくれてんだと思うし……なんか、俺だけ逃げるように家出て行ったみたいだしさ、実際。だからなんか……申し訳ないというかありがたいというかごめんというか……」

『いやどれだよ』低い声でツッコまれる。男勝りというかモテなさそうというか……

 しかし、姉はすぐにおせっかいな女子モードに入る。高めで間延びした声。

『わかった、浅見くんでしょ〜』

「…………」うざい感じで当ててくんなよ。反応に困る。「……ですけど」

『やっぱり〜! 浅見くんいい人だよね〜、弟想いなとこが何よりいい! あれはイケメンだわマジで。……お前手放してないだろうな?』

「言いつけ通り一緒ですけど」

『ならよし!』ふふーんと得意げな息遣いがスピーカー越しに聞こえる。『これからも弟をよろしくって言っといてな』

「それ弟本人に伝えさせる言葉じゃねぇだろ……」

『ちゃんと言えよ、テストすんぞ』

「嘘でしょ……?」

『まあとにかくさ、それ今度父さんと母さんにも言ってあげなよ? お盆の時とか』

「ああ……」脳内でカレンダーをめくる。まだ先のようにも思えるが、気を抜いているとすぐにやってきそうだ。あいつはどうするのだろうか。……ついてくる? いやまさか。「まあ腹は決めとくわ」

『おっけ〜おっけ〜頑張れ〜』

「……」

 電話を切って、昼下がりの青い空を見上げる。

 あれからもう一ヶ月だ。



 火樹駅前の例のベンチで通話を終えた俺は、ちょっと感傷的な気持ちを引きずりながら家路についた。若干の緊張と憂鬱が入り混じるのは、今日が特別な日だからに違いない。

「ただいまー」

 ドアを開けた瞬間から人の気配のある明るい部屋からは、いつもはない甘い香りが漂ってきた。芳ばしくもあるその匂いは、慣れ親しんでいたわけでもないのにどこか懐かしさを感じる。

「おかえり響君」

 キッチンに立つ白い後ろ姿が振り返り、ちょうど終わったとばかりに手袋を外した。いつものフォーマルな白手袋ではなく、それよりもずっと一般的で家庭的なゴム製の手袋だ。

「お、完成したのか」

「焼きあがったのはもっと前。みんなが来る前に冷ましておかないといけないからね。……で、洗い物が今終わったところ」

 なるほどと言ってキッチンに歩み寄ると、確かに美しく焼きあがったシフォンケーキが鎮座していた。間近で嗅いだ香りに刺激され、無意識に口の中が潤う。

「それにしてもなんでもできるな、お前は」

 正式に契約を結んだ後も、俺は特に何も願わなかった。あれだけの騒動があって望むことなど一つしかないし、そのたった一つを叶えるために死力を尽くしたのだから、もう残りの時間は満ち足りていて当然だ。問題は水銀を飲み込んだ俺の健康及び寿命の件だが、一ヶ月経った今も体調に異常はない。俺の魔力にも聖性が宿っていたことを鑑みると、俺がカルドの鍵ゆえに魔力にも適合できたと考えるのが妥当な落とし所らしい。諸々の検査にかこつけて病院でレントゲンを撮ってもらったりもしたが、俺が飲み込んだ指輪の影も映らなかった。

 ひとまずは安心ということで片がついたその後の日常だったが、なんだかんだ真面目なカルドは「家事ぐらいやる」と言って聞かず、日々の炊事洗濯エトセトラを完璧にこなしてくれている。悪魔たるもの契約者の役に立たねばとのことらしいが、こと料理に関しては格段の熱を持って向き合っている。

「なんでもこなすのはプロとして当然のことだけれどね。でも僕としてはまだまだ未熟というか、満足はできないって感じだよ」

 というのも、俺がこれからもカルドと対等になれるよう努力するのを決意したのと同じように、彼は彼で「自分の力を理解する」という目標を掲げたらしいのである。人間と関わる時は銀の素手でも理論上は問題ないのだから、悪魔と接する時以外は手袋を外してもいいし、なんなら料理を作ったっていいだろうという心算らしかった。要は心の問題だということなのだろう。今は練習としてゴム手袋をつけて料理を作ってくれている。ちなみに、なんで今までやってくれなかったのかというぐらい美味い。食生活が充実しまくりだ。

「だったらもう手袋取ろうぜ。食器と同じ食器と同じ」

「今日はダメだよ! よりにもよって悪魔が二人来る日に!」

「別に異物混入するわけじゃあるまいし……まあいいけどな。ゆっくりやってくれないと俺ばっかり取り残されるし、悪魔が二人来るのもマジだし」

 今日は、天界の管理下に置かれていたリクリスが解放される日だ。

 リクリスは藤沢との契約によって一命を取り留めたどころか、俺が一刀のもとに両断した右腕まで再生した。本来なら大罪人として天界の管轄に半永久的に拘束、あるいは処分されてもおかしくないところらしかったのだが、既に契約した人間がいるという事実と関係者の口利きによって、諸々の面倒な手続きが終わり次第自由の身になることが決定していたのだ。とはいえ、当然ながら完全な自由というわけでもない。まず藤沢という契約者がいるし、それ以外にも明確な規則として、契約者か特定の悪魔の目の届く場所でしか行動できないと決められている。魔力の使用すら許可制だ。

 そうは言っても、何事もなく戻ってくるのは普通に喜ばしいことだし、一連の騒動の区切りになるので、この日にみんなで集まって謝罪なり水に流すなり色々やろうということになったのだ。ルーラももちろん参加する。今日はそのために非番を取っているはずだ。

「そういえばこの前ルーラが店来て言ってたぞ。『あのお固い天界がこの程度の罰で終わらせるはずがない』って。たぶんルーラ自身のこともだし、リクリスのことも。二人ともほぼ無罪だろ? お前もついこの間まで天界にしょっちゅう顔出してたからさ、お前がどんな恩の売り方したのかって、結構三人で盛り上がってたんだけど」

「別に大したことは言ってないよ。それより、戻ってきたリクリスに最初にどんな嫌がらせをするかを存分に話し合いたい気分なんだよね、僕は」

「お前なら何しても許されるんだろうけど、心砕くのそっちかよ。スケール小さいな」そう言いつつも、俺はポケットに手を突っ込みながら即答する。「まあとりあえずこの日のために携帯のバッテリーはギリギリにしてあるから、まずは充電してもらうわ。ちょっとでも節約したいし」

「キミの方がよっぽどスケール小さいと思うんだけどなあ」

「家庭的って言え家庭的って」

 もはや慣れきった平坦な言葉のラリーを続けていると、いつもの白い手袋を装備したカルドが、食器をしまいながらぼそりと呟く。

「……響君、もしかしてあっちの方がよかったとか思ってる?」

「はあ?」なんだその急な嫉妬心。「ねぇよ」

 俺が短く否定しても、カルドは特に安心したようにも喜んだようにも聞こえない淡白な声色で、「だよねー」と流すだけだ。

「美人は三日で飽きるって言うけど、一目惚れの熱っていうのは案外冷めにくいものなんだよねぇ。僕レベルにもなると特に」

「ああ……?」

 なんだ、その。

 なんだその……自画自賛のような自嘲のような。つーか俺が短絡的みたいに聞こえるんだが。

 複雑……と思うばかりで何も言えないでいると、ふいに俺とケーキとの間に包丁が差し出された。急に刃物が出てきてちょっと驚く。

「手袋、普通のに戻しちゃったから切ってくんない?」

「……おー、了解」

 なんだかなあと思いつつも、与えられた仕事はしっかりやらねばと気持ちを切り替える。等分を意識して……まずは半分に。……した後。

「ん……? 待って、何人だ? 俺とお前とあと……五人じゃん!」

 五等分するのに初手が真っ二つとか、詰んでる。

「ははっ、やると思ったー」

 にゅっと後ろから覗き込んできたカルドが案の定といった感じで嘲笑って、ようやく嵌められたことに気づく。もしかしてさっきの思わせぶりな言動って、俺にミスさせるためだけにやった……?

「お前マジでさあ……どうすんだよこれ」

「ん? いいよそのまま六等分で。それから一切れだけもう半分に切って。今小皿出すから」

「は?」

「まだみんな来ないんでしょ? つまみ食いだよつまみ食い。背徳感があっていいじゃん。こういうのを幸せって言うんだよ」

「歪んでる割に小っせぇ幸せだな全く」

「歪んでるのはお互い様だけどね」

 俺の前に小皿を二枚滑り込ませたカルドが、自分の首を指先で真一文字になぞった。悪夢の象徴たる鎖の痣は、契約を結んでから割とすぐに消えた。今や繋がりは見えない形でしか残されていない。少し寂しい気もするが、痕にならなくて本当によかったと思う。今度改めて、あの時と同じ指輪でも作ってもらおうか。

「俺が歪んだのはお前に毒されたからだろ。あの痕だってお前が俺を唆してつけたんだし、普通に考えて全部お前の自業自得──っ、」

 言われた通りに作った小さな二切れを皿に乗せて振り返ると、待ち構えていた銀の手が頰に触れた。冷たくないのに身体の内側から寒気にも似た妙な空気が巡って、呼吸ごと言葉が止まる。

 ……久しく得ていなかった感覚だった。

 独りではなくなっても、幸せになってやると決意を表明しても、やっぱり悪魔は悪魔で。

「──本当にそう思ってる?」

 底のない目をしなくなっても底は知れない。

 飴玉のように甘い瞳と挑戦的なその微笑みで、心も魂も全部奪ってしまおうとする。

「僕はキミに『殺せ』とは言っても『絞め殺せ』とは言ってないはずだよ? それに、僕の首を最初に絞めたのは他でもない響君自身じゃないか」

 頰にかかった右手が俺の首筋をなぞり、やがて心臓の真ん中に指先がつき立てられた。肘を折り曲げ、まるで言い寄るように上体ごと距離を詰められる。口から零れた微笑みの吐息が、体温よりもわずかに熱く耳の縁を撫でた。

「最初に僕がキミの前に悪魔として現れたあの日。キミの魔物が──キミの魂がそうさせたんだよ? だから言ったのに。『僕のこと好きなの?』ってさ」

 まるで甘言でも囁くかのように耳の奥へと吹き込まれた言葉が、過去の記憶を鮮やかに蘇らせた。確かにそんなことを言っていたし、その細い首がへし折れそうになっていたのも覚えている。……ついでに言えば、「一目惚れ」のワードが最初に出てきたのもその時だった。

 生唾を飲み込む音が、心臓の鼓動のように脳内に響き渡った。

 俺の魔物が俺を襲わず、去りゆくカルドを追いかけ壁際へ追い込んでいたこと。……首を絞め上げ殺そうとしていたこと。

 それすらもこいつは、俺の魂からの欲望だと宣う。

 ただの一人の自殺志願者が抱える自己否定の衝動が、一目惚れの熱に──目を開いたばかりの加虐趣味に敗北を喫した瞬間だと。

 そう悪魔は嘯いて、今更ながらに俺のことを試してみせる。

 ……全く、なんなんだよ。

 自分に自信があるのか、嫌いなのか。その魔性を武器だと思っているのか、自分と自分に関わった他者全ての自由を奪う足枷だと思っているのか。

 器用なくせに自己表現下手すぎか。

「……あーうるさいうるさい!」

 俺はわざとらしく大声を出して、近づきすぎたその肩を軽く押し返した。

 正しい距離をとってようやく見えたその表情は、予想通り。意外そうな仮面を被った期待の眼差しだった。試し方が尋常ではないハードモードなんだが。普通に流されそうになる。純粋ではない部分の愛を、認めてしまいそうになる。

「お前の引力なんか俺には効かねぇんだよ。能力が『魅了』でもないくせに背伸びすんじゃねぇっての! 全部好きだし全部嫌いだわ。特にそうやってすぐけしかけてくるとこな!」

 まっすぐに伸ばした腕と指先を、今度は相手の心臓に向ける。この距離感は俺のものだし、俺が決めるし、絶対、二度と、昏い影には呑まれない。

 ……とはいえ啖呵を切ったのが結構恥ずかしくなってきて、つと視線を逸らした。逃げた先に切り分けたケーキの小皿があって、蜘蛛の糸のごときささやかな威光を放っている。

 俺はしめたとばかりに皿を両手に引き寄せて、颯爽とテーブルの方に向かった。

「さっさとしねぇとみんな来ちゃうだろ! ほら、早くこっち来い!」

 振り向くだけでも足を掬われそうで、ひたすら前だけ向いている。

 だから、後ろに置いてきた悪魔の嬉しそうな顔とか知らないし、「見つけてくれてありがとう」なんて見当違いの感謝の言葉も聞こえない。

 でもなんとなく、ちょっとした気まぐれで、「それはこっちの台詞だ!」なんて返してみたりする。

 ……もちろん、まともに顔なんか見せられないわけだけど。

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