第25話

「……いやはや、魔力に耐性のある人間は使い勝手がいいものですね。普通の人間だったら即死して使い物にならなくなるところですが、この身体のように魔術教育を施された人間は魔力を魔力として認知できますから。ニューロンを弄るだけでなくその心──精神を支配するだけの魔力量を許容することができる。結果、この肉体を余すことなく我が物として操作することが可能になるわけですよ。……ご覧の通り、私の力までもがこの肉体から放出できる。不意打ちに適した着ぐるみの完成です」

 ビリビリビリと、ともすればマジックテープをゆっくりと剥がす時と同じような耳に痛い音を発しながら、藤沢の身体から電気の幽体が抜け出てくる。カルドの魂をめがけて放たれた電気の手刀は、その胸を貫く寸前で止まっていた。

 藤沢の肉体ごと、その腕には鎖が巻きついている。……もう片方の先端に繋がれているのは、俺の右手だ。今この瞬間も、全身全霊を込めて手綱を引いている。

「それにしても貴方──私の邪魔をするのが本当にお好きなようですね。要りません? 不老不死。人間は皆等しく、自らの身に迫り来る死を恐れて生きているものとばかり思っていましたが」

「今さら白々しい質問してんじゃねぇよ。俺が欲しいのは終わりのない人生なんかじゃなくて大事な奴が傍にいる生活だ。お前も悪魔なら、人間様の要望を履き違えないよう努力するこったな」

 口で挑発の文言を吐き出す傍ら、精神の全てを自分の力に集中させる。少しでも気を緩めたら、それこそ集中の糸がぷっつりと切れるように、鎖の一つひとつが砕け散ってしまうに違いない。

 俺がこの力を発動させたのはまだ二回目で、しかも最初の一回は暴走状態だった。上手く扱える方がおかしい。

 それでも、この瞬間に成功させなければ意味がなかった。俺は指先の神経の一本一本に魔力を浸透させるイメージを働かせながら、鎖の輪郭を常に頭の中に思い描いている。

「はッ、」

 リクリスが鼻で笑う。藤沢の肉体と完全に分離し悪魔としての実体を得たところで、左右から銀と炎が肉薄した。リクリスは片方の腕の電力を瞬時に増幅させ銀の銃口を掴み溶かすと、今度は反対の手で気絶した藤沢の身体を盾に取り、ルーラの拳にブレーキをかけさせる。そして、一瞬の隙を突いて包囲網を光の速さで駆け抜けると──俺の背後にあった窓が割れた。遅れて振り返ると、リクリスの姿は既に夜空の中にあった。

「残念ですね真渕響──貴方は私の願望の一端を完全に理解していたように見えたのですが。私の志に共感を示し、共鳴するまでには至らなかった、ということなのでしょう」

「っ、どういう意味だ──」

 弾かれたように窓枠に取りつくも、夜空の向こう側にもその階下にも、闇を切り裂く直線的な光はもう見えない。……また逃がしてしまった。

「響君……」

 未だ窓枠から手を離さず歯噛みしていた俺の背中に、声がかかる。その声音はいかにも気まずげで、心身に負ったダメージのせいか少し掠れていた。

「どうして、こんな……」

「どうしてって……まあ俺も一回あいつに身体乗っ取られかけたことあるし。金縛りみたいな。ニューロンっつってたから電気信号か? 微弱な魔力でも人間を操れるってことなんだろうな。じゃないと俺みたいな普通の人間は死んでるだろうし」

 自然と早口になっていた。俺自身にそのつもりはなかったが、客観的に見れば当てつけじみた態度の悪さだったかもしれない。自嘲気味に薄く笑いながら振り向くと、カルドは本当に疲れきった様子で下を向いていた。どうしたもんかなと内心で後頭部を掻き、「それに、後輩の様子がいつもと違うかどうか察するぐらいできなきゃ、先輩失格だろ」と二の句を継ぐ。

「そうかもしれないけど、そうじゃなくて──」

「それよかお前、これからどうするつもり?」

 ヒステリックな反論が飛び出す気配を察知した俺は、意地悪にも言葉を遮り強い口調で言った。カルドが何を追及したがっているかはわかっていた。敢えてはぐらかしたのだから、根掘り葉掘りそればかり質問されては困る。

「人知れず、誰の手にかかるでもなく死ねないお前が、一人で生き続けたとしてなんになるよ。追っ手のことは? 俺が言うのもなんだけど、先送りにした問題が勝手に解決することなんてそうそうないぞ」

「それは……っ」

 わかりやすく狼狽える。そういえば、俺が優勢で何かを言うのは初めてだったかもしれない。……そう思いながらも、俺は追撃の手を緩めない。

「それから、これは本当のことだから言うけどなカルド──お前、俺がいなかったら今死んでたからな」

 別に、言葉の通りに恩を売りたいわけではなかった。ありがとうなんて今更なくていい。ただ、その感謝の言葉を口にするより先に、俺が先刻の地獄を経て彼を嫌いになったことを前提に──関係がもはや修復不可能になったことを前提に──俺が彼を助けた理由を問われるのだけは釈然としなかった。「なんで助けた」と。それを言われてしまったら最後、彼がもう本当に死にたくて死にたくてしょうがなくて、あの手刀を向けられた瞬間にようやく解放されると思っていたみたいに感じてしまいそうだった。そんな嫌な想像だけが、俺の苛立ちの水嵩を底上げしていた。

 今の俺の気持ちを正直に言葉にするなら、彼がそんな風な死に方で満足すると言うのなら、俺がこの手で殺してやりたかった。だが、俺はその権利を一度放棄している。愛するひとの心からの要望に狂気を感じて、恐怖を覚えて、心を折られている。

 それは偏に、希望を持っていたからだ。俺の中に明確なイメージとして存在している、理想の幸福があるからだ。それ以外はいらなかった。

「…………お前、そんなに死にたい?」

 取り繕いようもないぐらい、声が震えた。心に負った傷など少しも隠せていなかった。

「……俺さあ、お前がいなくなったら、割と本気で……本気でこれから先どうやって生きていけばいいかわかんないんだよ。それだけお前と一緒にいる時間が好きだったし、満ち足りた時間をくれたお前には感謝してるんだよ。だから……俺は絶対にお前には生きていてもらいたいし、俺の近くにいてほしいし………………ああ、クソ……!」

 俺の心は今どうしようもなく傷ついていて、怒りにも満ち満ちている。なのに、それ以外の衝動が俺を衝き動かして仕方がない。

 もう全面的に自覚せざるを得ない。俺はこいつのことが本当に好きなのだ。彼が求めようと求めまいと俺の全てを捧げてしまいたいし、彼が外に向ける愛情の多くが俺に向いていればいいと思う。たとえそれが恒久のものでなくとも、それこそ破滅的で破壊的な刹那の時間だったとしても、最初から最後まで、この悪魔と共にありたいと願ってしまう。

 そんな思いで俺は今、間違いかもしれない一歩をまた踏み出す。

「もう今はなんでもいいよ。先のことも今までのことも全部、今だけはなんも気にしないから、だから……これだけ言わせてくれ」

 それから俺は魂の赴くままに、茫然とそこに立ち竦む悪魔の身体を抱きしめた。強く、指先が震えるほどに、ただ感情を体現するように強く触れ、顔を埋める。

「お前が無事でよかった。本ッ当によかった………………」

 それだけでは俺はもう生きてはいけないけれど、たったそれだけの事実が俺をこんなにも安心させる。

「俺に力を与えてくれてありがとう。俺にお前を守らせてくれて本当にありがとう」

「なんで…………?」

 もう誰かを壊してしまう恐怖に身体を震わせもしなかった彼は、抜け殻のような声でそう言った。

「なんで僕のこと嫌いになってくれないの? なんで見捨ててくれないの? なんで…………響君のことたくさん傷つけたのは僕だよ。なのに、なんで、怖いよ…………」

 たぶん、その答えは「お前のことが好きだから」でも「大事だから」でも、なんなら「愛しているから」でも事足りた。でも、その程度じゃ満足できなかった。言葉だけなら誰にでも言える。それは所詮は形のない、時間によって薄れゆく記憶でしかない。愛を証明するまで徹底するなら、もっと──トラウマになるまでに深く傷をつけておかないと成り立たない。俺に与えられた鎖がそうであったように。

 だから、今度は俺が刻みつける。恐怖も衝撃も。その狂気じみた言動は全て当てつけであり報復であり、きっと開き直りだった。

 相手を傷つける覚悟をもって、今度は俺が甘言を囁く番だった。

「……そうだな。お前にはたくさん傷つけられたよ。これでもかってぐらい。もう腹いっぱいだよ」

 俺は自分で搔き抱いた悪魔を一度引き剥がし、鎖ではなくその首に巻かれたネクタイを掴んで軽く引き寄せた。身長差がそこそこあるせいで頭がぶつかりそうになるが、顔が近づいたのは好都合だった。驚きと困惑に満ちた表情がよく見える。輪郭のくっきりした赤い瞳が俺だけを映している。それだけでこんなにも満足感に浸れるのはどうしてなのだろう。

「なあ、お前、俺にあの時なんて言ったかわかるか? ……わかんないよな。だってお前は自我も意識も全部捨ててたんだから。……ひどい話だよ。お前みたいな奴にあんなこと言われたら、誰だってその気になるに決まってるのに。なのにお前だけは忘れてるんだ。無自覚よりもタチが悪い」

「……響…………君…………?」

 いつしかの俺のような反応をする。思わず少し笑った。

 俺たちはたぶん根本の部分でよく似ていて、それゆえに最大の理解者たり得る。愛情の受け取り方なんて少しも知らなくて、愛情表現の正しい作法も、素直になる方法すらわからない。お互いにそのことを理解しているから、地雷原を避けることだけは容易だった。だが、そのままでは一生かけても交われない。だから踏み荒らす。覚悟はもう決まっている。

「覚えてねぇなら教えてやるよ。お前の魂が俺に何を吹き込んだのか」

 俺はいつか彼にされたのと同じように耳元に口を近づけ、多少の悪意に口元を歪めながら、あの時の言葉を口にした。


「──キミがどれだけ失望しようが、僕のことを嫌いになろうが、僕の気持ちは一生変わらない。僕はキミのことが一番好きだよ、響君」


 言ってまあまあ長台詞だ。一言一句違わず覚えているという事実だけで、普段のカルドなら揚げ足を取って笑うことだろう。逆を言うなら、そういう精神状態じゃないから今の俺が言葉にできるのだ。こいつの代わりに。

 耳元で絶句するその反応に充足感を覚えながら、俺はカルドに笑いかける。心に直接触れている手ごたえが、心地いい。もっと触れたい、と思う。傷も、潤いも、全部この手で与えたい。

「な? もう充分だろ? どう頑張ったって俺はお前を捨てられないし、お前も俺を捨てられない。それでもお前が俺から離れようって少しでも思ってるんなら──」

 俺は手品でも披露するかのように、ポケットの中から一つの小道具を取り出し、たった一人の観客に向けてまざまざと見せつける。それはなんの変哲もない銀製のリングでありながら、俺とこの悪魔とを結びつける最大にして唯一の実体ある証拠品だった。

「その心、俺が折ってやるから覚悟しろ」

「っ、待って、響君それは──」

 察しのいい悪魔が、俺の次の動作を予見し阻もうと手を伸ばしてくる。だから俺は、先に彼の肩を軽く突き飛ばし、自分も一歩飛び退いた。その瞬間の脳の処理速度がやけに速く、景色がスローモーションにすら見えるので、俺はゆっくりと、噛んで含めるようにこう言ってやる。

「今更逃げられるとでも思うなよ……?」

 そして、間違いなく彼の魔力で生成されたそれを、口に放った。錠剤と同じ要領で飲み下す。病弱でよかった、なんてくだらない報われ方をする。

「…………な………………」

 小さく呻くような声を発した後、カルドはもの凄い勢いで俺を叩いた。背中を。

「ばかばかばかばか! 早く出せ! 死にたいのか!」

「痛い痛い! 痛ぇっつってんだろやめろ!」

「っ、でも、だって」背中を叩いただけでは効果がないとわかったカルドは、容赦なく俺の口に手を突っ込もうとしていた。手袋をしているとはいえ、随分慣れたものだなと思う。あまりの緊急事態に己を省みている暇がなかったのかもしれないが。

「……とにかく、絶対出さねぇからな」俺は背後から腕を回して口内に割り入ろうとしてくる悪魔の手を掴んで応戦しながら、言った。喋っている間に入ってきたら指を噛み切ってやろうと思う。「元々全部が賭けなんだよ。これでお前の血液の判定が出るのかもわかんねぇし、近いうちにお前の毒で死ぬかもしれねぇし……でもまあ、俺の中ではお前はもう俺のものだから」

「………………」

「……おい、嫌そうな顔すんな」

 背後で黙りこくったカルドの腕の中で、首だけを巡らせて彼の顔色を窺った。もう口に手は伸びてこなかった。

「嫌じゃないよ、じゃないけど……」カルドは赤い目を下の方で彷徨わせる。「前に僕が言ったこと、忘れたわけじゃないでしょ? その指輪が銀であっても、体内に残ってる以上は魔力を流せば毒になる。キミだってもう魔力を自分の力として扱えるんだから、体内の魔力を意識すればするほど水銀に変化するリスクが高くなるのは当然のことだ。それに──」

「お前を近くに置くだけで俺の頭がおかしくなるって?」

 一瞬の逡巡ののち、カルドは無言で頷く。だが、俺の腹を掻っ捌いてまで指輪を取り出そうという気概は感じなかった。

 俺はただ俺の身体を抱きとめるだけになったカルドの腕を解き、一歩だけ距離を取った。ゆっくりと身体ごと向き直る。

 俺の頭のつくりは最初から人とは違うから、と言おうか迷った。それは他人に滅多に見せない俺の弱みだ。何かが決定的にほかの人と違うと肌で感じているのに、その「何か」を明確に言語化できないから、「助けて」とも言えなかった俺の欠落部分。生きる才能が俺にないことを示すただ一つの証拠で、俺が天から賜った負のギフト。

 こいつにだったら言えるとは思った。たどたどしくても、こいつならいつまでも待ってくれるし、頷いてくれるし、噛み砕いて飲み込んでくれる。そう思いはした。

 でも、俺の身の上話だけでは、彼は完全には納得してくれないだろうとも思っていた。俺は確かに生きる才能がなくて、そのおかげでカルドの魂と噛み合うことのできる、ただ一つの特別な魂を持つことができたのかもしれない。でも、俺に与えられたこの最悪な才能だけを理由にしてしまったら、俺の人生そのものに価値がなくなってしまうと思うから。

 それは彼が愛してくれる俺の全てではない。才能と人生と人格が一続きだとしても、才能だけが俺じゃない。

 だからせめて、理由だけは俺の辿ってきた道筋で。

「……俺はお前以上に魅力的な誰かを知らないし、お前から受けた以上の苦痛も想像できないよ。だから幻覚を見ようが内蔵が痛みを訴えようが一人で何もできなくなろうが、俺はお前を前にした以上の衝撃を絶対に受けない。それだけは確実だ。……そういう意味じゃ、お前と出会った時点で俺はもう致命的に何かを踏み外してるし、あの瞬間から狂ってる」

「……」

「もしも俺がお前の毒で苦しむようなら、醜態晒す前にお前が俺を殺してくれよ。で、お前も俺の魂喰ってちゃんと死ね」

「でも……!」

「でもじゃねぇよ往生際の悪い!」部屋の空気がビリリと震えた。自分でもビビった。「……第一に死にたいとか言っておいてお前はぁ! それだって嘘だろ! お前だって生きたいに決まってんだよ! 死にたい奴なんてこの世界にいやしねぇよ! 不幸とか痛みが怖いからそうなるんだ! 飽きがくるような生き方してるから嫌になるんだ! 俺がいるから心配すんな! お前は黙って俺がいつ死ぬかビクビクしながら生きてりゃいいんだよ! だからさあ……」

 流石に息が切れた。肺が痛い。鼻はツンとしてくるし目は霞む。

「……だから、もうやめようぜ、独りになろうとすんの。俺にもお前を助けさせてくれよ、お前はずっと傍にいて、時々俺を助けてくれるだけでいいんだよ。あとは一緒に笑ってようぜ。……な?」

 少しの沈黙が怖かった。俯いたその表情はよく見えなくて、覗き込んだとしても影しか見えないような気さえした。深淵よりも、今は豊かな想像力の方がよっぽど恐ろしい。

「…………本当に……」声帯の震えが手に取るように伝わる。「本当に、後悔しないかい……? 僕と関わるときっと、死ななくても不幸も面倒事も、痛みだって途端に増えるよ……? 絶対長生きしないし、いつ死ぬかもわからないし……僕はキミだけは不幸にしたくないんだよ? 苦しめたくはない……自分のせいでなんて、耐えられない」

 心の底から恐れているように言う中で失礼だが、その真剣さには苦笑してしまう。

「それはお前が正体明かす前に言うべきことだよ。最初の契約の交渉の時にな。ちょっとでも隙を見せられたらこっちは落ちるしかないんだから。お前はもう少し自分の引力を自覚した方がいい」

「それには私も同感だわ」眠る藤沢を介抱していたルーラでさえも、苦笑気味に口を挟んだ。「悩むところが初歩的すぎて私たちには話にならないわよね、キョウ?」

「仰る通りで」話の内容には頷く以外にないが、容赦のなさには舌を巻く。「……ま、そういうわけで、お前と関わってロクなことにならなかった奴はみんなお前のヤバさを知ってるんだよ。そういう覚悟はとっくにしてんの。人より苦労する覚悟も、命懸けなきゃやってられないって覚悟もな。全部わかってるから。わかった上で、俺たちはお前と一緒に生きていたいんだよ。理解者がいないなんて勝手に思うんじゃねーぞ?」

 改めて、手を差し出した。ずっと誰かに取ってほしいと、伸ばし続けていたこの右手。

 今はそれを、たった一人のために差し出している。この手でもっと触れていたいと思う「特別」に。この人生を、終わりまで隣で歩いていてほしいと願う「特別」に。

「苦しむのも楽しむのも、俺はお前と一緒がいい。それが俺にとっての一番の幸せだ。……だからこの願い、お前に叶えてもらってもいいか?」

「……っ……!」

 それ以上の反論は、どうやらないようだった。長らく氷漬けにしていたであろう心の柔らかいところを春の日差しに晒して、ようやく融解した涙が一筋、白磁の頬を伝う。

「──もちろん、喜んで。…………ありがとう、響君、本当に……ほんとうにありがとう……」

 そう言って俺の手を取ったカルドがすぐに跪こうとするので、俺は慌てて同じ高さに膝をついた。ばか、何してんだよと肩を抱き込み近づいた目元からは、銀色の雫がとめどなく流れ落ちていた。

 そういえば、ヒトの涙は赤い成分を抜いただけの血液だという。だとすれば、この涙を拭って舐め取るだけでも、契約の楔としては充分に機能するのかもしれない。

 ……もっとも、もう二人だけの閉じた世界には戻れないので、自粛せざるを得ないわけだが。

「そんな泣くなって。……いや待て。……やっぱもっと泣いていいぞ! 魚拓だ魚拓! いっぱい写真撮っといてやるから!」

「はぁ……⁉︎」

 俺が嬉々として携帯を取り出すと、カルドは焚かれてもいないフラッシュから身を守るように、慌てて顔の前に手を翳した。

「趣味が悪い!」

「先に悪趣味な仕打ちしてきたのはお前の方だぞ、拒否権はない」

 笑いながらカメラを起動しようとすると、その前に着信履歴に目が行った。間違いなく職場からだった。仕事に行こうとして、あらゆる精神的負荷を受けたのちに後輩の家にいる──なんて今の状況が、夢の中の出来事のように思えてくる。

 ともあれ、俺の意識は否が応にも「生活」という現実に引き戻されるわけで、一瞬息が止まった。

 死にたい、と思うのだけどそれはもちろん本心ではなく、でもやっぱり死にたかった。

「……」

 明日からめちゃくちゃ頑張ろう。そんなありきたりな現実逃避と実現されることのない決意を安易に掲げ、俺は改めて目の前の現実に視線を戻す。

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