第23話

「──お目覚めのようね」

 枕元には人がいた。個人的に、目覚めた瞬間に女性に覗き込まれているというのは心地のいいものではない。だがまあ、誰もいないよりはマシだったし、トラウマを彷彿とさせるような顔はされていなかったので、精神的な負担は割合少ない。……それはそれで悲しいような気もするが、面識自体そこまでないのに看病してくれていたのだからそれだけで充分だ。

「…………え、と、俺は……」

「あなたの名前は真渕響。二十五歳、職業はフリーター。勤務先は──」

「いや記憶は喪失してないから」

「あらそう。あれだけ精神破壊されておいて、案外ちゃんとしてるのね」

 ルーラはあくまでも淡々と、炎よりも冷気が似合う無感動さで話を続ける。

「ちなみにここは私の弟子の家よ」

「その情報こそ先に言うべきだったのでは……?」

 思わず苦笑する。とはいえ、言われてみれば確かに知らない部屋だ。知らない高い天井。ちょっと洒落た照明。背中に触れているベッドは俺の自宅の布団より柔らかくて厚みを感じる。いい部屋だ。いい部屋……学生で……

 胸にジンとくる切なさを噛み締めていると、ルーラが「じゃあどこまで覚えているか、教えてもらえるかしら」と事務的な態度で看護師のようなことを言った。

「どこまでって……」

「あなたがここに運ばれることになった理由は? 何があって意識を失ったの?」

 覚醒しきらない頭を少し捻らせると、悪夢のような映像が高速でフラッシュバックした。吐き気すら催しそうな、間違いの数々。

「…………!」弾かれたように上体を起こした。どこも痛くないのが逆に気味悪かった。「あいつは⁉︎ カルドは無事なのか……⁉︎」

 言っている最中にも馬鹿馬鹿しさを感じていた。無事でいられるはずがない。死んでるだろ、普通。

 だが、ルーラは特段悲しそうな顔はしなかった。薄情だからではない。それを理解していたからこそ、俺は驚くほどの幸運を悟った。

「無事とは言い難いけれど、死んではいないわ。今は眠っているけど、安定はしているから安心して。……正直、そっちの方が気持ち悪いけれどね。化け物じみたしぶとさだわ」

 ルーラはわずかに顔を歪める。だが、目には安堵の色が宿っていた。

「…………本当、なんだな」

「信じてない?」

「いや、信じられないだけだよ。本当だっていうのは顔見ればわかる。安心してるんだろ? ルーラも」

「安心……ね」ルーラは少し悔しそうな顔をして、それでもすぐに首肯した。「そうかもしれないわね」

「……ありがとう、助けてくれて」

 感謝を口にするのは今でも遅すぎるぐらいだったし、月並みな言葉ではあまりにも足りなかった。感謝の気持ちとともに、情けなさで重たくなった頭を深々と下げる。二度と顔を上げられないような気さえした。

「こんなこと言ったらあれかもしれないけど……組織の立場だってあっただろうし、あいつとめちゃくちゃ仲いいわけでもなさそうなのに、こんな風にしてくれるなんて、思わなかったっていうか。ほんと、ありがたくて」

 地獄の只中でさえ流れなかった涙が、いとも簡単に溢れ出す。声も肩も、情けないほどに震えていた。もっと大人らしくしろよと思っても、逆効果だ。自分ではどうしようもない精神の不安定さが、余計に未熟さを際立たせてしまう。

 いつも感情を表に出さない彼女も、これでは流石に引くなり困惑を見せるなりするだろう。そう思って「ごめん」とか「すまん」とかを繰り返しながらぺこぺこと頭を下げていると、ふいに俺の涙声の息遣いに混じって、くすりと違う種類の吐息が聞こえた。

 俺の視線に気づいたルーラが、ほんの少しだけ気まずげに肩を竦める。

「……いいえ、なんでもないの。あなたが泣いてるところを見て、なんだかすっきりした」

「…………それは……」ざまあ見ろとでも言われているような気分になって、何か彼女に悪いことをしただろうかと己を顧みる羽目になる。「どういう意味合い……?」

「あなたはあの男のためにそんなにもまっすぐに泣けるのね、って。そういう意味合いよ」

「……?」

 ルーラの言い方には、若干の棘というか、含みがあるように感じられた。俺に対してではなく、彼女が言うところの「あの男」──つまりカルドに対してだ。

「あなたも感じたとは思うけれどね、キョウ。カルド・レーベンという悪魔に一個人として関わった相手は、人間も悪魔も問わず、人生狂わされるわよ」

 自分の経験だけに関して言えば、否定の余地はなかった。良くも悪くも、俺はあいつと出会ったことで人生が一変してしまった。出会っていなかったら死んでいたかもしれないし、自分自身の願いや重荷をこれでもかと自覚することはなかっただろう。……そして、あんな暴挙を強いられることも。

 だが、ルーラに関しては、その法則に上手く当てはめることができない。リクリスは……あるいはといったところだろう。元からああだったというビジョンは鮮明に描くことができるが、あの悪魔の固執の仕方はやはり、異常だと思った。……まあ、ブーメランになるからあまり言及しないでおくが。

 ともかく、ルーラとカルドの間に何があったかを想像することは、手がかりのない状態で殺人犯を推理するレベルの無理があるように思えた。ソリが合わないことは明確だが、それゆえ接点も持ちにくいはずだ。

「……あいつに、何かされたのか?」

 半信半疑だった。少なくとも悪意を持って「何か」をする人格ではないと、俺は信じていた。だから自分にばかり刃を向けようとするのだ、あいつは。

 そんな風に彼の人格を盲信していたからこそ、次に放たれたルーラの言葉を、俺はすぐに飲み込むことができなかった。

「友達をね、殺されたことがあるのよ。……銃で撃たれて。昔の話だけれどね」

「…………え?」

 よく考えれば、頷ける話ではあった。人間と悪魔の生き方は違う。置かれた状況もそうなら、法律だって、たぶんそうだ。悪魔は他者を簡単に殺してしまえるだけの力を持っていて、それを振るうことは人間以上に容易く、抵抗なく──日常に組み込まれているはずだ。

 ……そして、カルドの力は悪魔の中でもそれに特化していて、コントロールが難しい。

 だが同時に、彼はその力を──生きるために与えられた才能を、これでもかと憎んでいる。自分自身を死の際に追い詰めるほどに。

 だからこそ「殺す」という言葉が似合わない。銃を持ち出すならなおさらに。彼が自分の力について全く知らなかった頃、事故で殺してしまった悪魔がいたとは聞いていたが、「銃」という言葉がルーラの口から出てしまった以上、ただ触れただけの事故でないことは明白だった。

「別に恨んではいないわ。その友達には酷い話に聞こえるかもしれないけれど」ルーラはいつしかのカルドのようにどこか遠くを見ることはせず、その代わり、ゆっくりと瞼を閉じた。見えるものを遮断して、見えない何かと正面から向き合っている。「正当防衛だったし……何より、彼がそうしていなかったら今の私はないもの」

「それは、その……今の立場があるかどうかってことか? それとも……」

 俺と同じように、か。その命、その存在すら、あの悪魔はいとも簡単に救ってしまう。

「どちらもよ」ルーラの言葉に迷いはなかった。「彼が殺さなければ私は死んでいたし、もっとたくさんの悪魔が私と同じ道を辿っていた。……彼はあの時、確かに英雄だった」

「英、雄……」あまりにも似合わない言葉だった。なぜかはわからない。その心根も、器も、立ち振る舞いも、確かに彼はその勲章に見合う存在だ。けれど、英雄になった彼の姿を想像すると、どうにも嘘っぽく感じてしまう。磔刑や生贄のように、その背後には悲劇の舞台が透けて見える。

「なんか……っぽくないな」

 俺が苦笑混じりにそう言ってみると、ルーラも同じように肯定した。

「そうね。っぽくはないわね」笑った吐息の波は静かに訪れ、すぐに消える。「……でも、私には確かにそう見えたのよ。友達を殺されたっていうのに、私は薄情にも、あの男の背中に頼もしさを覚えてしまったの」

 その顔を見て、思う。彼女はきっと、その尊ぶべき感情を押し殺して生きてきた。罪の意識すら感じているのかもしれない。友を殺されたという事実もそうかもしれないし、それ以外にも──例えば「死の鍵」の話とか。

 だって、悪魔一人ひとりに出会うべき人間が用意されているとするなら、悪魔にとっての最高の理解者は、同じ種族である「悪魔」ではないことになってしまう。他の悪魔が皆諦めている「死の鍵」をカルドが探し求めているというならなおさらで、そして、彼女にとって、もしかしたら俺は……

「……あの、ルーラ──」

「私の友達は……悪魔の中で初めて、魔物堕ちになった子だった」

 ルーラはおそらく意図的に、重い話題を演出した。俺は案の定、言葉を継げない。

「……とは言ってもね、死んだ悪魔は過去にもたくさんいた。だから、死んだ悪魔が魔物になるっていう常識は既に存在していたの。ただ……人間の魂を食べないことで──魔力を得ないことで、自我すら保てなくなって暴走するケースは、彼女が初めてだった」

 優しい子だったの、と、彼女は息継ぎするように続ける。

「自分の力が誰かのためになることに誇りを持っていて、困っている人を見たら放っておけないような子だった。誰かのために働くことが好きだったから、人間とも積極的に関わっていたわ。……でも、決して気が強いわけではなくて、むしろ精神的には弱かったかもしれない。誰に対しても献身的で、慈愛に満ちていて、人の喜びも悲しみも、自分のことのように共感できる。そんな人柄。だからこそ、人に仇なす人の加担をしたことがショックだったのね。力はあったけれど、契約者を殺してまで解放されようとも思えなかったでしょうから……そのうち、その契約者が死んでからも、彼女は塞ぎ込むようになってしまった。いい人間だって世の中にはたくさんいる。彼女もそのことは理解していたと思う。でも、そうでない人間がいるという事実もまた変わらない。その子は人間に関わることをやめて、力を使うことも怖がるようになって……」

「魔物に堕ちた……か」

「怖いの、って、言われたことが忘れられないのよ。自分が自分じゃなくなるような気がするって。ふと意識が途切れたり、自分じゃないような自分の声が頭の中で響いたり……。信じていなかったわけじゃない。でも、どうすることもできなかった」

 それは仕方のないことだ。彼女は医者でもなければ、研究者でもない。正体のわからない悩みや問題に、明確な解決策を見出すことは難しい。まして最初の事例など。

「結局魔物の姿になって、凶暴化して……私たちの住む世界にも、街中というか都会というか、大人数が集まる場所があるのだけど、彼女はそこで次々に同胞を襲った。その場にいた悪魔がまとめてかかっても、倒せなかった。周囲もパニック状態だったし、統率なんてあったものじゃなかったっていうのもあるでしょうね。てんでバラバラ、逃げるも立ち向かうも入り乱れて、大変な騒ぎだった。私もその中の一人で、彼女を正気に戻そうと必死に呼びかけていた」

 でも、彼女はもう、彼女ではなかったのね。

 ルーラはやっぱり淡白に、自身の昔を語る。

「彼女に縋りついた私が、真っ先に魔物の標的になった。突き飛ばされて体勢を崩したところで、もう目の前に大きな魔力が迫っていて。殺されるって思ったわ。でも、逃げることを選べる精神状態でもなかったの。私もパニックだったから」

「……それで、あいつが?」

「銃声がひときわ大きく鳴った。気づいたら私の前には一人の悪魔が立っていて……『大丈夫かい』って。そう声をかけられたの。それが全てのはじまり」

 ああ、と心の内で嘆息する。彼女はきっと、その瞬間に人生を変えられた。

「──綺麗だった」

 嘆くように、彼女は言う。

「氷の花が開くみたいに、銀色の結晶が彼女の身体を覆っていった。元の形すら留めなくなった彼女の最期は、たぶんそれだけで幸せだったと思う。本当に、綺麗だったの」

 そしてルーラは、大きく息を吐いた。一拍の間を置いて、またエピローグを語り始める。

「それから私はあの男が『銀の悪魔』と呼ばれていることを知った。例の事件以来姿を見なかったのだけど、しばらくして天界に寝返ったという噂を聞いた。天界は悪魔を疎んでいたけれど、彼は悪魔の敵みたいなところもあったから、妥当な噂ではあったわね。でもその実、彼は天界と交渉していた──と、私は勝手に推測している。……噂を聞いた後にね、天界から使者が来たのよ。私の友達が陥った状態の悪魔を『魔物堕ち』と定義して、これを狩る部隊を作ること、それに悪魔を動員すること。報酬として魔力を込めた魔力結晶を支給すること──それが『悪魔狩り』のはじまり」

 言葉が出なかった。それが本当だとするなら、カルドはまさしく「英雄」だ。それも、影の立役者としての。自分の立場をフルに利用し、他者のために尽力した影の英雄。

 だが、英雄の伝記は美談では終わらない。ルーラはエピローグから新たな物語のプロローグを繋げていった。

「『悪魔狩り』の存在は思っていたよりも早く浸透したわ。報酬も悪くないし、人員は着実に集まっていった。けれどそれと反対に、力を失いつつある悪魔が一人いた。悪魔の脅威たりうる悪魔。それも一時期天界に魂を売ったとまで言われていた『悪魔の敵』が、実は人間と契約できないんじゃないかという情報がどこからか出てきたの。悪魔たちは色めき立った。悪魔を容易く殺すことのできる最恐の悪魔も、遠からずこの世から消えると。でも同時に懸念もあった。人間と契約できないなら、確かに『銀の悪魔』は徐々に力を失うけれど、死ぬ前には必ず魔物と化す。暴走状態に入れば誰も太刀打ちできないから、悪魔たちは彼が弱りきるのを待った。力を失い、でも暴走されないタイミングを計って、彼らは『銀の悪魔』を自分たちの住む世界から追放した。有志を募って総攻撃を仕掛けたの。『銀の悪魔』は手傷を負いながらも、一切の反撃をしなかった。それから先は、本人しか知らない人間界での隠遁生活。……これで私の知っている彼の話はおしまい。ハッピーエンドでもなくバッドエンドでもなく、彼の物語はまだ、続いている」

 それから静かに、名前を呼ばれた。柔らかい声だった。

「ねぇ、キョウ。あなたなら彼を幸せに導いてあげられるの? どんなに善行を重ねても報われない、かわいそうな彼のお話を、あなたなら終わらせてあげられるの?」

「…………俺は──、」

 何を言えるのかもわからないまま口を開きかけたその瞬間、ドアが開け放たれた。

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