第19話 甲駿同盟 続

 信虎さんの高笑いは、冷え固まった空気の中で不気味に木霊した。静寂は彼を心から満足させたようで、誰からの返答も聞かずに身を翻して屋敷へと姿を消し、それに伴って雪斎さんも後を追いかけた。信虎さんの残した重たい沈黙は、僕らに喋る機会を与えず、まるで水に溶け込んだ油のようにその場に鎮座し続けるのだった。

 信虎さんの背中を見送りながら、彼の口から伝えられた事実をもう一度頭の中で租借してみる。一つ目は武田さんとの同盟についてだ。ただまぁこれに関しては後継者争いの時、武田さんとは一旦休戦をした経緯もあり直ぐに納得できた。強そうな武田さんと仲良くすれば心強いだろうし、攻められる心配が無くなるのも大きい。ただ一つ懸念点を挙げるとすれば、あの信虎さんが中々に小意地の悪い人物なところだ。何だか素直に仲良くしてくれるとは到底思えない。逆に戦国時代で素直に仲良くする方が珍しいのかもしれない。まぁ何にせよ、おおよそお互いの利害が一致しての同盟なのだろうから、僕が口を出す事ではないかな。

 同盟の事なんてこの際どうでもよい。青天の霹靂とはまさにこの事で、なんと承芳さんが結婚するというのだ! これが僕にとって一番の衝撃だ。結婚、男性と女性が結ばれ家庭を築くことで、誰だって一度は憧れるキラキラした理想的な未来像だろう。ただし、それは戦国時代でなければの話で、歴史の得意でない僕でも流石に言葉くらいは聞いたことがある。

 そうこれは政略結婚というやつだ。僕の知識が間違ってなければ、確かお市って人があさいって人の所に嫁いだはずだ。そういう家を守るために女性を他家に嫁がせるやり方の事を政略結婚というのだけど、僕はそれを好きになれそうにはなかった。別に戦国時代で女性の権利がと声高々に叫ぶつもりも無いが、それにしても女性の扱いが酷すぎると思う。まるで将棋だ。主たる人物が自分の好きなところに駒を置き、その駒は盤上に描かれたシナリオ通りの人生を歩む事しか出来ないのだ。それはなんて閉塞的で悲劇的な運命なのだろう。

 

 「結婚するって話本当なんですか、承芳さん」


 「ああ本当……らしいな」


 なんだその曖昧な態度は。らしいって、当事者も知らない結婚とか聞いたことが無いぞ。承芳さんでは埒が明かないと感じ、多恵さんの方を向くが、眉間に皺を寄せ不愉快そうな表情でそっぽを向いてしまった。


 「いやすまないな関介。結婚の話も今聞いたばかりでな、相手の顔を見るのも今日が初めてなんだ」


 そう言いながら承芳さんは僕ではなく、結婚相手である多恵さんの方をちらちらと横目で視線を送っていた。しもやけみたいに頬を赤く染め、見つめる瞳が徐々に熱を帯びていくのが僕にも分かった。ただその視線を向けらた彼女は、気持ちの悪い虫を見るかのような目で答えた。その表情には嫌悪感や不信感などの色が張り付いていて、承芳さんと多恵さんとの間に何重にもなる透明な分厚い壁が見えた。僕には今後この人たちの結婚する未来が、全く見えないんだけけど。

 見事に撃沈し泣きそうな表情でこちらを向く承芳さん。まぁ確かに横目でアピールしていた承芳さん、ちょっときもかったから仕方ないといえば仕方ない。ただこのまま結婚しましょうはあまりにも可哀そうだし、今後の生活にも支障をきたしてしまいかねない。早めに誤解を解いておくのが吉だろう。


 「あのしょうほ、じゃなくて義元さんなんですけど、本当に悪い人じゃないですから。ちょっと軽いというか子どもじみたところもありますけど、一緒にいて楽しいですしなにより優しいですよ」


 「関介……お前というやつは……」


 瞳を潤ませ感極まる承芳さんは、嬉々とした様子で抱き着いてきた。何故に僕が貴方のフォローを貴方の奥さんとなる人にしなきゃならんのだ。自分で売り込みなさいよ。でもまぁ承芳さんがいい人なのは本当の事だし、誤解されたままなのはやっぱり嫌だった。

 

 「興味ない。どうせ政略結婚だし、相手が誰だろうがどうでもいい」


 ただやはりと言うべきか、多恵さんは溜まっているストレスを吐き出すようにピシャリと言った。彼女の吹雪のような冷酷な一言に、勝手に盛り上がっていた僕らの気分は急転直下した。僕らとの気温差で風邪を引きそうなほどだ。

 しかし、今の多恵さんの言葉には感情の起伏が見えた。常人と比べたら平坦な起伏だが、それでも明らかに怒りや苛立ちの色が見て取れたのだ。感情が籠るのはそこに何かしらの思い入れがあるからで、彼女にとっての結婚が本当にどうでもよかったのなら、今みたいな感情の浮き沈みが見えるはずはない。きっと何かしら感情が揺れるほどの原因があるはずだ。

 

 「多恵さんは、お父さの言いなりになるのが嫌なんですか? それとも、誰か離れたくない人がいるとか」


 「貴方には関係ないでしょ。それに私はそんな童じゃないし、自らの意志だけで命令に背いたりはしない」


 彼女はまるで反抗期の娘のように、首を横に振りながら声を荒げた。彼女、感情が薄いせいで勘違いしていたけど、意外と分かりやすい性格をしているかも。


 「晴信は! 晴信は、お姉と離れるのは寂しいです……」


 さっきまで俯いて一言も喋る事の無かった晴信くんは、唐突に声を上げると多恵さんの元へ駆け寄った。これには僕だけでなく彼女もたじろぎ、とっさに言葉を返すことが出来なかった。僕らが呆気にとられる中、彼は身振り手振りで自身の感情を伝えようとしていた。その姿は親鳥に追い縋る雛のように儚く、今にも巣から落ちてしまいそうな危うさがあった。


 「たとえお父上の命だとしても、お姉のいない暮らしは嫌なのです!」


 幼い顔をくしゃっと歪ませ必死に訴える晴信くんを前に、多恵さんは苦そうに唇を噛んだ。戦国時代の人は皆、政略結婚を当たり前だと受け入れているに違いないと思っていた。承芳さんもそれを変だと言わなかったし。だけどやっぱり、肉親から離れたくないと思う気持ちは、どの時代でも同じなんだと目の前の晴信くんを見て思う。それが兄弟となれば尚更だ。

 承芳さんも、恵探さんとの争いの時に大いに苦しみ悩んだ。当主の息子という立場であっても、情が勝るほどの何かが兄弟の間にはあるのだろう。同じく当主の息子である晴信くんであっても同じで、敬愛するお姉さんとの別れは、身体が割かれるような痛みや苦しみが襲うのだろうと容易に想像できた。

 嗚咽を溢しながら抱きつく晴信くんを、多恵さんは優しく抱擁した。さっきまでの冷淡さは無く、子どもを守る母親のような慈愛に満ちた微笑みで彼の頭を撫でる。


 「たろ坊よく聞いて。私は武田の為に今川の家に行くの。だからたろ坊は、武田の為に生きなさい。あのクソ親父でも私の為でもなく、そして貴方の為でもなく、武田の為に生きなさい。そしたらもう泣かなくなるわ」


 「分かりました……晴信、もう泣きません。お姉との約束したから、もう……ひぐっ、泣きません」


 彼女の白く美しい指で、晴信くんの頭をそっと胸に寄せた。兄弟の美しい光景を、目の前で溺れそうなほど見せられてしまい、僕らはお互いバツが悪そうに見つめる事しか出来なかった。

 僕らの視線にやっと気が付いた多恵さんは、白い頬を薄いピンク色に染めた。恥ずかしさを誤魔化すように一気に立ち上がり、僕らの方を指さして言った。


 「そ、そういう事だから。別に貴方の為に今川家へ行くわけじゃないから。そ、それだけよ」


 やっぱり、彼女は分かりやすい性格をしている。それに、結構感情が顔に出るようだ。僕がクスッと笑うと、彼女は赤面してきっと睨んできた。


 「分かった、ならば私は今川と武田の両家の為に其方の手を取ろう」


 承芳さんは多恵さんの目の前まで歩み寄り、その目前に跪いた。その後彼女の手を取ろうという考えだったんだろう。承芳さんが優しく手を伸ばすと、彼女は明らかに嫌悪感を露わにした表情で一歩後ずさった。


 「いやっ、そういうのいいから。ほんと気持ち悪い」


 深い沈黙が訪れた。流石の晴信くんでさえ、承芳さんへ同情の視線を送っている。因みに僕は承芳さんの背後で噴き出すのを必死に堪えていた。ぷくくっ、それにしても面白すぎるでしょこの展開。

 跪いた状態のままの承芳さんの肩が小刻みに震えだし、がばっと顔を上げた。茹でだこのように顔を真っ赤に染め、泣き出すのを必死に堪えるような表情で僕へ抱き着いてきた。


 「うわぁ~ん! 私はあ奴が大嫌いだぁ~!」


 この人たち、夫婦として上手くやっていけるのだろうか。とんでもなく不安になってきた。その時不意に冷たい風が吹きあがり、僕は思わず目を瞑った。暫くして目をゆっくりと開け柔らかな日の光が差す方を見上げると、そこには雲一つない澄み渡った冬空が開けていた。僕は思わずにはいられなかった。彼らが、あの澄んだ青空のように純粋で晴れ晴れとした夫婦になれる事を。

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