学び舎1

 人生というのは尽きる事のない悩みに苛まれながら終えるものかもしれない。

 何の因果か異世界に転生した俺は数年を赤子として過ごす事となるわけだが、まずこれが大変な苦行であった。母親役の女の突っ張った胸から出る乳の不味い事不味い事。その味は筆舌に尽くし難く、地獄の如く。世の赤子はよくもこんなものを貪るものだ。だいいち、俺は赤子だというのになぜ味蕾は成人男性のそれなのか。重大な欠陥ではないか。クレームものだ。また味だけではない。毎度毎度脂肪の塊を目にしなくてはならないのも視覚的な拷問であった。俺は女の身体が嫌いなのだ。人類が二足歩行するにあたり、尻の代替として乳房が発達したという話を聞いた事があるが、実に余計な進化をしたものだ。気色悪いったらない。


 別段こんな世界に未練もないしコアだとかいう輩の言う事を聞く必要もないのだから授乳を拒否して死んでもよかった。例の、「ここで死んじまうかぁ」という悪癖は新たなる人生においても治る事なく幾度となく生じたわけだが結局今までと同じように死ねず仕舞。特に無力な赤子の期間では生殺与奪の権が他者にあり、餓死せぬよう無理やり乳を飲まされるのだ。

 また、この母親、初産のせいか窒息しそうになるまで自身の体液を口に含ませてくる。俺でなかったら二回は死んでいた。そのまま死ねばそれで終いではあったものの、「我が子に乳を飲ませている途中に溺死させてしまった」なんていう寓話めいた風俗資料の登場人物になるのも癪なので、生きる道を選んだ。



「オリバー。こっち、こっち」




 母親役の女が呼ぶオリバーというのは俺の名前である。元の名前は……いや、いい。この世界の俺の名前はオリバーであるわけだから、それ以外のアイデンティティは不要だ。俺はエニスのオリバー。この時、エニスのオリバーだった。



「あぁ」



 愛想代わりに呂律回らぬ状態で返事をして、起立。




「あ、立った! ねぇちょっと! オリバーが立ったよ!」


「本当? 早すぎやしないか?」


「本当だって! ほら!」


「あ、こりゃあ見事なもんだ。将来立派な大工になるぞ」


「もう跡を継がせる気でいるの?」


「当然だろ? 親子で家を建てるのが俺の夢なんだ」




 能天気に将来の夢などを宣言するのが父親役の人間だ。俺は母親以上にこいつが好きではなかった。ガサツでデリカシーがなく楽天的で怠惰。この人間の血が混ざっていると思うと喉元を搔っ切って一度血を抜き、すぐさま輸血して血液クレンジングをしたくなった。最大の屈辱はこの男が稼いだ金でしばらくは飯を食っていかなくてはならないという事だ。乳といい父といい、どうにもこの世界では、俺は虐げられる傾向にあるようだった。


 それでも精神的な面では成人済みである俺にとってはその程度の艱難辛苦は堪え忍ぶ事容易であり取るに足らない不条理だった。例の悪癖で死に進もうとする日もない事はなかったがすぐさま心落ち着き一年が経ち二年が経ちと繰り返し、六年が経過する時ようやく学校へと通う事ができるようになった。



「オリバー。先生の言う事はちゃんと聞くように。女の子には優しく。あと、お友達と喧嘩などしちゃ駄目よ」


「あぁ」



 母親役の訓示に生返事で応える。もう十分に言葉を話す事ができるというのに、俺は赤子の頃の鳴き声が抜けなかった。


「授業中寝るんじゃないぞ」


「あぁ」


 父親役の軽口にも生返事だったが、そちらには侮蔑と嘲笑を混ぜておいた。六年間、家族のふりをして過ごしてみたが、奴には自身でも驚くくらい情が湧かなかった。私の中で父親役の人間は街で見るみっともない酔っ払いと同じ位置にいて、見るのも声を聞くのも不快で仕方がなく、唾棄を催すような人間だった。一方、向こうは私に対してちっとも嫌な思いを抱いている様子はなく、父親然とした姿を見せようとしてくるのだった。何度か嫌味を言ってみても「お前は面白い」と笑い飛ばすだけで怒る素振りもみせない。その底抜けの大らかさが、俺を惨めにさせ、更に奴を嫌いになっていった。自分でも分かっている。これはやっかみだ。俺にない明るさと器の大きさと、それから能天気さに羨望を抱いたのだ。どこかひねた俺と違ってあの男は真っ直ぐで素直だった。それが、それが妬ましく、鬱陶しく感じた。俺にとってあの男は自分の影を色濃くする存在だった。どうして俺はひねくれてしまったのだろう。環境のせいか、親のせいか、考えれば考えるだけ深みにはまり、泥沼。初登校の思い出は、終始陰鬱な物思いに耽り、風も草木も太陽の光も煩わしく感じたのだった。登校するだけで精神が摩耗していく……



「おはようございます。新入生の方ですね」



 

 もう帰ろうかと思った矢先、校舎に到着してしまっていて、教師と思わしき男に声をかけられた。


「はい。本日よりお世話になります。オリバー・ロルフです」


「よろしくオリバー。私が君達の担任になります、エッケハルト・フライホルツです。よろしくお願いします」



 仰々しい名前だった。

 俺は差し出された手を握り、「教室で待っていなさい」という指示に従い小さな木造校舎の中へと入っていった。コンクリートのビルとは随分と趣が違って少し新鮮だった。


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