月面少女と重力訓練

「じ、地獄だ」

 私――ヨヱイラ・インタネルトは床に這いつくばり、ぴくりとも動くことが出来なかった。ミシミシ、と何かが軋む音がする。

 ゆっくり、だが確実に死が近づいてくるのを感じた。

「ストップストップ! マイトレーナー! 1LnGにして!」

≪了解<ラジャー>。重力制御システムオフ、1ルナジーに移行します≫

 システムAIの報告と共にあれほど重くなっていた肉体がスッと軽くなる。

「ほら見ろ、3LnGですら無理だっただろ」

 重力が戻ったもののぐったりとして立つことすらままならない私に呆れた声が被さる。

「ぐぎぃっ」

 気力を振り絞り、身体を転がしてうつ伏せからあお向けになる。

 視界に入るのは呆れた顔をした無精ひげのジャージおじさんの姿。私の下僕兼おにーちゃんことアニート・アウタランズ刑事だ。28歳なのでまだおじさんではないと主張するが私から見ればどう見てもおじさんだ。

 ここは月面都市にあるトレーニングジムの一室。ビルの最上階にあり、月面都市を見下ろしながらトレーニングが出来るのが売りだ。地球からの出向組の刑事である下僕義兄は低重力での体力維持のために無料で借りることができ、私もついてきた。

 しかし、結果は見ての通り惨敗である。

「重力三倍まで耐えたあたしを褒めるべきでしょ」

「いや、二倍の2LnG時点で倒れてたからな」

 LnG(ルナジー)とは月標準重力のことであり、単位としても用いられる。

 地球標準重力を1Gとし、1G=約6LnGとされる。

「もしかして、地球って拷問地獄?」

「……月生まれにとってはそうかもな」

 ため息をつく下僕義兄はなんとも渋い顔をしていた。

「月の低重力下で生まれたお前は地球人類と比べると生まれつき骨粗しょう症みたいなもんだ。骨の密度が地球人の6割を切ってるし、筋肉も言わずもがな。

 今のままだと立ち上がることすら出来ないし、立ち上がったとしてもちょっと何かに当たっただけで簡単に骨がポキンポキン折れる。

 そんなキミの肉体で地球を目指すことは、かなりの苦行だよ」

 仰向けのまま視線を下僕義兄から天井へ視線をずらす。透明な天井の先には昼の暗天に浮かぶ銀環の蒼星――地球が見えた。

 生まれた時からずっとこの月面都市から見上げ続けた星、地球。

 なんと遠いことだろうか。

「どうする? 諦めるか?」

 生意気にも試すようなことを言う下僕義兄。

「まさか。俄然燃えてきたよ」

 そう言って私は身体を起こそうとした。

 残念ながら疲弊した私は上半身を起き上がらせることすら出来なかった。




月面少女と重力訓練




 両親の仇であるマフィアを虐殺した後、私はそこに居合わせたアニート・アウタランズ刑事に引き取られ、表向きはこのアニート刑事の妹みたいなものになった。しかし、私の下僕こそが彼の真の立場である。

 様々な事務処理などを終わらせ、日常の戻った私は下僕義兄を引き連れ初めての地球重力下トレーニングに来た訳だが――早くも重力に負けそうな私だった。




「しかし、体重42kgのあたしが地球行ったら6倍の252kgになる訳でしょ。252kgの体重に耐える筋肉を地球の人類はみんな持ってる訳?」

 なんだか色々と地球人類が怖くなってくる。

「いや、全然違うぞ」

 下僕義兄の呆れた声。

「キミの体重、質量としては42kgかもしれないが1LnG下なら体感重量は7kgだ」

「へ?」

 思わず間抜けな声を出す。

「月面都市で暮らしてたら気づかないかもしれないが、キミの身体ステータスは身長2mちょいで、体重7kgなんだよ。だから7kgの体重を動かす用に最適化した筋肉しか備わってない」

 下僕義兄の言葉に愕然とした。今までどのシステムでも体重42kgとしてデータ表示されてたので気づかなかったが、地球人の基準で言うと7kgしかなかったらしい。

「いや、確かに1/6の重力ならそうなる計算だけど、でも流石にそれは軽すぎるというか」

 にわかには信じられない私に下僕義兄がトレーナールームの一室を指差す。

「そこにアナログ体重計がある。乗ってみるといい」

 部屋の隅っこを見ると平べったい箱が置いてあった。どうやらあの箱が体重計らしい。

 私はおそるおそるその箱に乗ってみると箱の表面にあるガラスの中の針が8kgを指し示した。

「どうだ?」

「確かに7kgみたいねっ!」

「うおっ、声でかっ」

 近づいて体重計の針を覗き込もうとする下僕義兄を大声で追い払う。

「どうしたら? 汗びっしょりだぞ? 大丈夫か?」

「ハハハ、ゼンゼンダイジョウブダヨ、オニーチャン」

「全然大丈夫じゃなさそうだが!?」

 眉をひそめる下僕義兄に私はしっしっ、と手を払う。

「いいから! あっち向いてて」

 もう一度体重計を見るとやはり8kgだった。

 体重計からさっと降りて、スマートリングを操作し、自分のパーソナルステータスを参照する。中空に浮かび上がる私の個人情報のうち、普段は非表示にしている体重の欄を表示にした。そこにははっきりと48kgと表示されている。自分の身長体重のステータスはAIがリアルタイムに自動計測・自動更新していくので間違いない。

「いつの間に」

 どうやら私の身体は思ったより成長期だったらしい。

「言っておくが」

「?」

「身長2mの標準体重は90kgくらいだ」

「うそん」

 背を向けたまま呟く下僕義兄の言葉に私は愕然とする。

「後50kgも太らないといけないの?」

「太ったらダメだぞ。筋肉を後50kg分増やさないと」

「そんなの化け物では?」

 私は中空に浮かぶパーソナルデータの表示を消し、ため息をつく。

「やはり地球は魔境ね」

「まあ、そんな感じだから10kgて表示されてても気にしたらダメだぞ」

「そんなに重くなってないっての!!」

 的外れなことを言う下僕義兄を叱る。まあでも今後のことを考えると60kgあった方がよかったのかもしれないが。

「よし、じゃあ再開だ。倒れるなよ。マイトレーナー、2LnGで」

≪了解<ラジャー>。重力制御オン。室内重力を2ルナジーへ移行します≫

「わっ」

 下僕義兄にさらなる文句を言ってやろうとした私の身体がズンッと重くなる。

「ひとまず今日は重力2倍で運動だ。俺にとっては1/3倍の重力だが」

 やや中腰になったが二度目だからか、今度は倒れなかった。

 ――立てる。今の私は身長2mで体重16kgの女。余裕、のはず。

 そう思うと不思議と倒れることはなかった。

 思わず笑みを浮かべ、重くなった身体をぐいっと引き起こす。

 まっすぐと背筋が伸びた。とても晴れやかな気分だ。

「ふふふ、見てみなさい。私は今二倍の重力すら克服した」

「結構足ガクガクに見えるが?」

「目の錯覚ね。重力で視覚が歪んでるんじゃない?」

「こんな低重力で歪む訳ないだろ」

 まあ視覚が歪むくらい重力が重かったら私達は死んでるのだけど。

「で、重力2倍で何すればいい? カラテでおにーちゃんを叩きのめせばいいの?」

「低重力で骨密度の低くなってるキミがいきなりそんなことをしても骨折するだけだ。

 というか、蹴りとかうてるのか?」

「馬鹿にしないでよね」

 反射的に片足を上げようとした瞬間、全身が地面に吸い寄せられる感覚に襲われ、即座に元に戻した。

 ――片足で立つことすら危ない。

 背中にびっしりと汗が噴き出るのを自覚する。足をあと1cmでも上げたら床に激突しているところだった。

「…………蹴りはまた今度にしてあげる」

「ありがとさん」

 下僕義兄はささやかな配慮を見せた。

「歩くことは?」

 私は無言で片足を数cmだけ浮かせてちょこんと前に足をスライドさせた。後ろ足もするりと足を滑らせ、着地する。すり足のようにも見えるが、一応、ぎりぎり、ちゃんと、なんとか、歩けては居る。一応。

「どう?」

「すごいな。まさか歩けるとは思ってなかったのでとても褒めてるし驚いてるよ」

「馬鹿にしてる?」

 とはいえ、さっきは立つことすら出来なかったのでそう思われるのも当然かも知れない。

「じゃ、今日は1km歩こう」

「短っ」

 月面都市で1kmの距離なんてあっという間の感覚だ。移動床経由だけど。

「重力二倍なんだぞ? 今のキミが1km歩くのに一時間はかかるよ」

「……三十分でクリアしたげる」

 舐められるのも甘やかされるのもあまり好きじゃない。

「……初日なのに無茶はするなよ。マイトレーナー、VRステージ:草原をセット」

≪了解<ラジャー>。VRステージ:草原をセットいたします≫

 途端、ビルの最上階のガラス張りのトレーニングルームが草原のまっただ中に書き換わる。空が青く、周囲には草木が生え、鳥が飛びかうというとても非現実的な風景。

「嘘っぽい青空」

「どこが? めちゃくちゃリアルだろ。本物と見分けがつかないくらいだぞ」

「そう? 地球ってホントに空が青いんだ。あたしからすれば空が黒くないだけで嘘っぽいんだけど」

 草が揺らめいているのすら違和感がある。草は何もないのに何故こうもゆらゆらと揺れているのか。VR空間に来る度にいつも訳が分からないと思う。

「あそこに大きな木が見えるだろう? あそこに辿り着いたら今日は終わりだ」

「部屋の壁にぶつからない?」

「床が自動で動くから安心するといい。キミが歩く度に景色の方が自動で動いてくれる」

 もう一度歩くと確かに遠くにある木がちょっと近づくのを感じた。と、同時に動いてないはずの下僕義兄はすると直立不動のままぬるりと横に動いたので違和感を覚える。

「……それじゃ、私は自分で歩いておくからおにーちゃんは隣の部屋でトレーニングしておいてくれない?」

「見られると気が散るタイプか」

「そういうこと」

 どうせトレーニングの状況はシステムを通して隣の部屋でも確認出来るので問題ないだろう。

「分かった。何かあればすぐに来るからな。マイトレーナー、ドアを!」

 下僕義兄が呼びかけると草原の中にガラスの自動ドアが浮かび上がる。

「じゃあ、俺はこれで」

 そう言って下僕義兄はドアの向こうに消え去り、自動ドアも閉まると同時に草原から消失した。

「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」

 息を吸う。

 いつも通りの月面都市らしい空気清浄システムによる空気。地球だと草原の空気は格別に美味いらしいけれど、空気の味が変わることなどあるのだろうか。

 ――ま、それを確かめるためにも。

 びしっ、と遙か遠くに見える大木を指差す。

「まずはあの木に辿り着いてみますか」

 なに、地球への距離に比べればほんの僅かだ。

 改めて私は前へと一歩踏み出す。

 長い長い道のりの、ほんの僅かな一歩を。




つづく

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