七話

 翌日からは鈴子もいつも通り、桜梅宮から巫術の基礎を教わったり、吉勝の講義も受けていた。二人の師から教えてもらうのは大変ではあるが充実した毎日を送る事ができていた。だが、そんな彼女にある日、一通の差出人不明の文が届いた。その文を見て伊勢の君や他の女房たちは不審な顔をした。鈴子も内容を読んでみる。

 こう書いてあった。

〈薄紅の姫君へ

 けふとては 逢う事もなく 過ぎ去りし 日々を数ふる 我が身なれば 〉

 自身の二つ名と歌が一首書かれてあるだけだった。

 意味としては(今日と合わせてあなたと会わなくなってから、幾日経ったことでしょう。それを数えるのを日課としている私です)というものだった。筆跡を見てみるとなかなかに力強い達筆な文字が並んでいる。優美さも兼ね備えたところから見ると若い男性からのものらしかった。

「…姫様。そのお文はどなたからのものなのでしょうか?」

 伊勢の君がおずおずといった感じで尋ねてくる。鈴子は文を折り畳みながら答えた。

「…どなたからのかはわからないけど。若い殿方からのものであることは確実ね。しかも、かなり身分の高い方のようだわ」

「まことでございますか。でしたら、宮様か吉勝殿にお見せした方がよいかもしれません」


「…その方がいいかもしれないわね。宮様には相談してみるわ」

 鈴子がそう返事をすると伊勢の君も頷いた。

「…ええ。宮様にだけでもお知らせしましょう。私からそれとなく、お伝えしておきます」

「じゃあ、お願いね」

 わかりましたと伊勢の君は言って部屋を出ていった。鈴子は文の返事をどうしたものかと考え込んだ。




 しばらくして、宮からこちらへ来てほしいと言伝てがあった。鈴子は手早く化粧を直し、正装に袖を通すと伊勢の君を先導にして宮のおられる寝殿に向かった。寝殿にたどり着くとすぐに宮付きの女房が通してくれる。

「…姫様。宮様が奥にいらしてほしいと仰せです」

「わかりました。奥へ行けばいいのね」

「ええ。宮様がお待ちになっています」

 女房が頷いたので奥の部屋へ続く方の御簾をくぐった。奥の部屋に着くと宮は脇息に寄りかかりながらも笑顔で迎えてくれた。「…まあ、姫。よく来てくれました」

「宮様。わたくしのお願いを聞いていただきありがとうございます。それでご相談したいことがありまして」

「…あら、私に相談したい事とは?」

 宮は不思議そうな表情で問い返してきた。鈴子は胸元に忍ばせておいた文を畳紙(たとうがみ)の中から取り出した。

 それを宮に差し出した。

「これは。薄桃色のご料紙ね。今の季節にはふさわしいものだけど。これに書かれた内容で相談があるのね?」

 宮はずばり、言い当てる。鈴子はその言葉に大きく頷いた。

「そうなんです。とりあえずはこの文をご覧ください」

 読んでほしいと訴えながら宮を見つめる。

 宮は黙って文を受け取り、広げた。中に書かれてある文章を読み進めていった。しばし経ってから、宮は大きなため息をつく。

「…なるほど。確かにこれはお返事に困る内容ね。歌だけしか書かれてないけど。受け取り方によっては恋歌にも読めるわ」

「わたくしもそう思います。伊勢の君や女房たちも差出人がわからないので扱いに困っているようでした」

「そうなの。だったら、姫。私から言わせてもらうけど。お返事はあなたからする必要はありませんよ」

「え。よいのですか?」

 鈴子が驚きながら問うと宮は頷いた。

「ええ。私、この文の差し出し主に心当たりがあって。伊勢の君に代筆でお返事を出すように言っておきますから。もし、心配だったら、兄君にでも文をお出しなさい。すぐにいらしてくださいましょう」

「…ありがとうございます。宮様にはご迷惑をおかけします」

 頭を下げると宮はよいのですよと笑った。



 それから、三日が過ぎた。吉勝や桜梅宮からの講義などを受けながらも鈴子は平和な日々を送っていた。あの日以来、文は届いていない。その代わりに兄や父の右大臣から文が届いていた。二人とも文面から、かなり心配しているのが読み取れた。やはり、信用のおける女房を同行させるのだったと二人とも後悔しており、鈴子はその通りだと思ってしまう。せめて、乳姉妹にあたる少納言あたりを連れて行っていた方が良かっただろうか。

 宮からは伊勢の君に言って代筆の返事を出したと言伝てがあった。それ以降、向こうから文は来なくなったらしい。それに一安心はしたが。今日は兄が宮のお邸を訪問するということも聞いた。鈴子は朝方から兄に会うため、身支度に精を出していた。髪に櫛を通し、お化粧もする。袿の上に打ち衣、小袿を重ねて略装の格好にした。

 伊勢の君などに助けられながら、廂の間に向かう。

 兄はまだ、来ていないようだった。兄こと昌義は蔵人頭と右近衛府中将を兼任しているので世間では頭中将と呼ばれている。蔵人頭(くろうどのとう)は主上の身の回りの事や政務などの時刻など多岐に渡る事柄を司どる役所、蔵人所の長官である。かなり、忙しいらしく昌義が実家の二条邸に戻ってくるのは日付が変わる頃が多いらしい。そんなことを思い出しながらも御簾の前に座る。脇には伊勢の君や相模、右大臣家からやってきた周防が控えていた。

 他の女房たちは奥で待っていて今この場にいるのは鈴子たち四人だけだ。

 しばらくして、先導の女房がやってきた。

「…二条の姫様にお伝えします。これより、頭の君がお越しになります」

「…わかりました。お通しして」

「かしこまりました。では、失礼いたします」

 女房は礼儀正しく手をつくと静かに退出した。横にいた周防はそわそわと落ち着かない様子でいる。

「どうしたの、周防。何だか、緊張しているみたいだけど」

「…いえ。中将様がおいでになるのは久方ぶりですから。つい、気分が落ち着かないといいますか。姫様は落ち着いていらっしゃいますね」

「まあね。わたくしにとっては兄弟だし。どこのお邸にいようと兄様は兄様だわ」

 そうでございますねと周防は笑顔で頷いた。




 そうして、小半刻ほどしてから頭の君こと兄の昌義がやってきた。改めて見ると鈴子と似ているためか、昌義も美男子といえる顔立ちをしている。が、吉勝やかの公達ほどではない。

 胸中で比べてしまう鈴子だったが。

「…いやあ、本当に久方ぶりだね。大君、元気にしていたか?」

「ええ。元気にしています。兄様もお忙しい中、いらしてくださりありがとうございます」

「丁寧な挨拶をありがとう。でも、私にはそこまで気を使わなくていいよ。それより、文を読んだのだが。差出人不明の文が届いたのだって?」

 昌義は挨拶もそこそこに早速、尋ねてきた。鈴子は頷きながら伊勢の君に目配せをした。代わりに御簾の前までいざりよって、懐から例の薄桃色の文を出した。それを外へと差し出した。昌義は膝を使ってにじりより、御簾のすぐ前まで来る。伊勢の君が差し出した文を受け取ると元いた場所に戻った。

 文を開き、内容に目を通した。一通り、読むと昌義は頭を抱えて黙りこんでしまう。

「…あの方は何をやっているんだか。うちの妹に恋文を送りつけるとは」

 低い声で唸るように呟いている。鈴子は首を傾げた。もしや、兄は文の差出主を知っているのだろうか。

「…兄様。その文の差出主の方がどなたなのかご存知なの?」

 つい、気になって尋ねてしまっていた。すると、昌義は勢いよく、顔を上げる。

「…えっ。この文の差出主を知っているかだって?」

「…ええ。そのような事をおっしゃっていたから。もしかして、そうなのかなと思ったのだけど」

 頷いて答えると昌義は大きくため息をついた。

「…そうか。すまない、大君には教えておこうかな。あなたに恋文を送ってきたのは桜梅の宮様の甥にあたる今上帝のご子息だよ」

「…ええっ。もしや、ご子息ということは。幾子様のお生みになられた二宮様辺りかしら?」

「…違うな。その、もっと高貴な方だよ。今上の一宮、今東宮様だ」

 昌義は言いにくそうにしながらも文の送り主の名を告げた。それを聞いて鈴子は扇を手から落としてしまう。がたっと床に落ちる音が響いた。昌義はだから、言いたくなかったんだとぼやく。

「…も、もしかして。東宮様だと兄様や桜梅宮様は気づいていらしたということ?」

「…生憎、そういう事になるな」


 昌義は渋々、頷いた。鈴子は呆気にとられてしまう。だが、何で東宮ともあろう方が自分に文、しかも恋文を送ってくるのだろう。

 あの文に書かれた歌から察するに自分は東宮と昔に会った事があるらしい。そこまでを思い出した鈴子は昌義に詰め寄りたくなる。

(兄様はわたくしの事を東宮様が知っておられる事を教えてはくれなかった。しかも、文の内容からするとお会いした事すらあるらしいのに)

 一人で悶々と考えていたが昌義や周防達はなかなか、鈴子がしゃべらない事をかなり気にしているらしかった。

「…あの、大君。どうかしたのか?」

 昌義が心配そうに尋ねてくる。鈴子はため息をつくと答えた。

「…兄様。東宮様がわたくしの事をご存知だということはわかっていたみたいね。何故、文なりで知らせてくださらなかったの?」

 低い声で問い詰めると昌義はあさっての方向に視線を逸らした。

「…い、いや。わかってはいたんだ。その、東宮は幼い頃に大君と宮中でお会いしたことが何度かおありで。あなたがまだ六歳かそこらだったからな。覚えていないかもしれないが」

「…ちょっと待って。宮中といったら、幾子様のおられる常寧殿辺りかしら。そちらには行った事はあるわ」

 鈴子が思い出すと昌義は我が意を得たとばかりに頷いた。

「そう、その常寧殿で東宮が幾子様にご機嫌伺いでいらした事があったんだ。大君はまだ小さかったから、幾子様が遊び相手にと宮に紹介なさったんだよ。その折からだったかな。大君が月に三回くらいは宮中に参内していたろう。その時に宮と遊んでいただいた事が何度かあったはずなんだがな」

 兄の話を聞いて鈴子の脳裏に一人の少年の面影が浮かびあがる。

「…もしかして、あの楓の君かしら。本来の名は知らなかったから、秋にお会いしたのになぞらえて楓の君と呼んでいた男の子はいたわね」

「…そうだよ。君が楓の君とお呼びしていたのが東宮様なんだ。思い出したようだな」

 昌義はほっとしたように表情を和らげた。鈴子はやっと、恋文の差出主の正体がわかったのだが奇妙な気持ちになっていた。何で、今になって文を送ってきたのだろうか。東宮こと楓の君には聞かなければならない事がたくさんありそうだ。

 鈴子は扇で顔を覆い、深く息をついた。



 その後、昌義は用事があるからと二条邸に帰っていった。鈴子は正装から普段着に着替えて奥の部屋で寛いでいた。

 側には周防など右大臣家から付いてきた三人の女房たちが控えている。

「…姫様。今日はお疲れになられたでしょう。もう、お休みになりますか?」

 周防が尋ねてきた。鈴子は頷いて返事をする。

「そうね。もう、休もうかしら」

「その方がようございます。宮様のご講義やら吉勝様との修行やらで毎日、大変ですものね」

「まあ、確かにその通りだけど。でも、弱音は言ってられないわ」

 鈴子が力んで言うと周防は苦笑いした。

「…やる気を出されるのは良いことですけど。あまり、無理はなされませぬよう」

「…わかったわ。無理はしない程度に頑張る事にする」

「そうなさいませ」

 周防とそんなやりとりをした後、鈴子は寝所の用意を女房たちにやらせたのであった。




 寝所に入ると鈴子は寝転がった。目を閉じようとしたら、ふと桜の香りがする。

「…鈴子姫。ちょっといいかしら」

 密やかな声がして鈴子は目を開けた。御帳台の中に薄紅の瞳をした桜の精の桜花がいた。

「…お休みのところごめんなさいね。どうしても、姫に話したい事があって」

「…あ、桜花。いきなり、どうしたの?」

 鈴子が驚きながらも問うと桜花は真剣な表情で言った。

「…都の北側、内裏といったかな。そこから、妙な気配がするの。姫、近い内にそこへ行く事になるだろうけど。気を付けて」

「…内裏から妙な気配ね。わかったわ、覚えておくわね」

「うん。吉勝にも伝えておいて。姫の事を守ってくれるはずだから」

 桜花はそう言うと花びらと香りを残して姿を消した。鈴子は内裏かと呟きながら御帳台の寝具にくるまる。瞼を閉じて眠りについた。だが、その夜はなかなか寝付けずに鈴子は困った。東宮の幼き日の面影と以前、見かけた美しい公達の面影がふと重なったのであった。鈴子はかの公達が楓の君と気づいて驚きのあまり、声をあげそうになる。

 それを何とかこらえながら、やり過ごした鈴子だった。

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