第2話 予兆

 令和五年と題しながら、いきなり令和四年の話から始めるが、それは春頃のこと。右下の奥歯にかぶせてあったブリッジが取れてしまった。と言ってもブリッジが取れたのは初めてのことではない。もう何十年も前に施したものだからな、歯も変形しているし、接着剤でポンと着けても数ヶ月で外れてしまう。


 それまではブリッジが取れた場合、最寄りの駅前にある小さなA歯科医院でくっつけていた。ここは決して腕がいいと言う訳ではないのだが、安いし余計なことをしない。それが気に入って贔屓にしていたものの、この歯科医院がいつの間にやら廃業していたようだ。潰れて別の店になっている。困った虫けらは、A医院より距離的には家に近いB歯科医院を訪れた。


 ところがこのB歯科医院、余計なことをする歯科だった。ブリッジをかぶせる前に歯垢を全部除去しなくてはならないという。面倒くせえなあ、と思いはしたのだが、まあ長い間歯垢を取らずに放置していたのも事実だ、たまには取るかと考え直し、この歯科にブリッジの再装着を任せることにした。


 そんな訳で歯垢の除去だけに二度の回数をかけ、三度目は右下の奥歯にブリッジを装着するだけだ、となったときである。突然虫けらの左上の奥歯が割れた。この歯は子供の頃虫歯になって神経を抜いてしまった歯で、こういう歯は突然割れることが多いらしい。ブリッジ装着のために歯科医を訪れた際、その左上奥歯が割れた件も話したのだが、歯科医は適当な詰め物をかぶせただけで放置した。


 虫けらとしてもこれ以上治療が長引くことを望んではいなかったし、治療費が上がるのも困る。普段食事をしたりする上でその奥歯が支障になることもなかったので、いつの間にかそんな歯のことはすっかり忘れてしまった。B歯科医院の歯科衛生士の態度の悪さの方が強く印象に残っていたほどだ。なお、このときかぶせられたブリッジはいまだに外れていない。「一番強力な接着剤を使う」と言っていたのは事実だったのだろう。


 そして季節は冬に跳ぶ。虫けらは口内の違和感に気付いた。左上の奥歯周りの歯茎が腫れているのである。虫けらは思った。「はっはーん。歯槽膿漏か何かになったな?」。歯磨きを始めとする口腔ケアにはまったく力を入れていないこの虫けら、歯槽膿漏くらいいつなってもおかしくはない。しかし痛みを感じるようになると放置もできない。ちょっと奮発して生薬の含有された歯茎用の塗り薬を購入、せっせと歯茎に塗り始めた。


 しかしこの薬は効果を発揮せず、腫れは酷くなって行くばかり。やがて出血が止まらなくなってきたし、歯茎の表面に何かできているような気配もする。


「歯槽膿漏で歯が抜けるとか洒落にならんぞ」


 そう思った虫けらは、この段に至りようやく医療機関の受診を決めた。ただ決めたと言ってもどこを受診すればいいのだ。歯槽膿漏で診てもらう病院がイメージできない。そこでネットで調べたところ、歯槽膿漏は歯科医か口腔外科で診てもらうのが普通らしい。


 ならばB歯科医院を受診するのが筋なような気がしたものの、イマイチここは信用できない。そこで他にないかよく調べたところ、かつて通っていたA歯科医院より少し遠いところにあるC歯科医院が口腔外科の看板も上げているようなのだ。だったらここに頼んでみるか、虫けらはC歯科医院を予約した。


 訪れたC歯科医院はB歯科医院より広くて雰囲気も明るく、そこそこちゃんとした医療機関といったイメージ。ここでまずは口内の写真を撮り、レントゲンを撮り、ついでに歯垢も取って歯科医師を待っていると、やってきた歯科医師は写真を見て虫けらの口内を確認、あっさりとこう言ってのけた。


「これはうちでは対応できません。大手の病院に紹介状を書きますので、そちらを受診してください」


 何がどうなっているという説明は特になかったものの、「あれ、これはヤバいか?」と虫けらが察したのは当然と言えよう。




 翌週、訪れた大病院の口腔外科。改めてレントゲンを撮影し、長い時間待ってさあ診察。線の細い担当医は私を椅子に座らせたままでしばらくPCと向かい合っていたが、やがてこう述べた。


「病名の確定までにはいくつか検査をする必要があるが、あまりよろしくないモノがあるのは間違いない」


 このときの正直な感想を言えば、「あっちゃー、やってもた」である。こんなもの、前後の文脈から察すれば、ガンに決まっている。望むらくはその程度、悪性が小さいことか。


 そしてこの後一ヶ月ほどに渡って、虫けらはCTスキャン、MRI、PETーCTなどなどの検査を次々に受け、出て来た診断が「左上顎歯肉ガン、種類は扁平上皮ガンでステージ4a」。


 ここで説明しておくと、ガンのステージ4とはよく聞くものの、どういう意味か知らない人もいるだろう。ざっくり簡単に言えば、ガンが他に転移していればステージ4である。虫けらの場合は首のリンパ節に転移していた。


 リンパ節への転移は厄介なのだ。リンパ節は全身につながっているから、ガンが一気に全身に転移する可能性もある。ただ幸いと言っていいのだろう、虫けらの場合は他に転移が見つからなかった。ここまでが令和四年の出来事である。




 さて、これより本編が開始されるのだがその前に、明確な証拠も何にもない虫けらの思い込みを一つ書いておこう。


 今回発生した口腔ガンの原因は何か。おそらくはB歯科医院に通っているときに割れた左上の奥歯である。この奥歯の歯茎と接する部分がギザギザになっており、これが歯茎を継続的に刺激し続け、ガンの発生を招いたのではないか。


 もちろん物的証拠がある訳でもない。ガンの発生メカニズムなど現代でも明確にはされていないだろう。よって虫けらがこのB歯科医院を訴えたりすることはないだろうが、虫けらの心の内の印象としては最悪にならざるを得ない。たとえ金を積まれても二度とB歯科医院に足を向けることはあるまい。ここを読んでいる皆様も、歯の治療跡を放置したりしてはいけない。必ず最後までキチンと治そう。ガンになって地獄の責め苦を味わいたくないのならば。

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