海を夢見た蛙(かわず)

黒須 南

第1話

 1


北海(ほっかい)若(じゃく)曰(いわ)く、井蛙(せいあ)には以(もっ)て海を語るべからざるは、虚に拘(かかわ)ればなり。夏(か)虫(ちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束らるればなり。今 爾(なんじ)は崖涘(がいし)を出でて、大海を観、及ち爾の醜を知れり。爾将(まさ)に与(とも)に大理を語るべし。


黄河の神・河(か)伯(はく)が初めて海を見た時、その大きさに驚いた。河伯に対し、北海の神・若(じゃく)は言った。

井戸の中の蛙に海の広さを語っても、彼は理解できない。夏の虫に氷の冷たさを言ってもわかってもらえない、なぜなら彼らは夏しか知らないからだ。己の世界が狭い者に対して真理を解いても、伝わるわけがない。彼らには、乏しい知識や経験しかないからだ。

しかし今、あなたは海の広さを知り、己の愚かさを知った。今、あなたは、真理が理解できるようになったのだ。


                   *


 世間の理想通りに生きていける人間なんて、きっとほんの一握りしかいない。きっと、子供の頃の俺が今のこの有り様を見たら、大いに失望することだろう。

「お買い上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 斜め三十度の会釈、手は臍の前、左手が上。マニュアル通りの、機械的な所作。返事がないのは当たり前、蔑みの眼差しと舌打ちならまだいい方。絡まれて罵詈雑言を浴びせられた時は、申し訳ございません、申し訳ございませんと平謝り。ただひたすら、相手が満足して帰って行くまで。

「お先に失礼します……」

「お疲れ様でーす」

 レジ金の確認を終え、制服を脱いで裏口から去って行く。雨は上がっていたが、空はまだ厚い雲に覆われていて、今日も朝日は拝めそうにない。時折肌を撫でる湿った生温い風が、不機嫌な俺の神経を逆撫でする。

「ただいまー……」

「お帰り、春(しゅん)夜(や)! 行ってきます、お母さん!」

「行ってらっしゃい、夕(ゆう)夏(か)。お帰り、春夜」

 帰宅すると、大抵出勤していく姉と入れ違いになる。長いストレートの黒髪を額で左右に分け、メイクのみならずファッションやアクセサリーにも気合が入っていて堂々としている姉は、今日もハイヒールの音を高く響かせて家を後にした。俺は、欠伸をしながら冷めた朝食を電子レンジで温め直して食べ、ベッドへ倒れ込み、泥のように眠った。

 清掃、品出し、レジ、清掃、品出し、レジ……毎晩ずっと、同じことの繰り返し。決して難しい仕事ではないのに、愛想も要領も物覚えも悪い俺は昼の面子に嘲笑され続け、耐え難くなった結果深夜の固定スタッフとなってしまった。一人は気楽だし、時給も昼よりは高い。けれど、こんな生活を送っていて、心身にいい影響なんてあるわけがない。俺はいつまでこうしていなければいけないのだろう、といつも考えながら、一日の始まりと共に深い深い意識の底へと沈んでいく。

 天川(あまかわ)春夜、二十八歳。資格なし、友人なし、彼女なし。幼稚園の頃から一人でいることが多く、学生時代の休み時間はずっと図書館で借りた本を読んでいた。今の言葉を使って言えば、俺はまさに「陰(いん)キャ」そのものであった。

最終学歴は四年制大学であるものの、フリーターのままもう六年以上という時を過ごしてしまっている。いいなと思う職業がないわけではなかったが、父に認めてもらえるとは思えず早々に選択肢から除外し、俺は気乗りしないまま就職活動に臨んだ。

けれど、あの頃もまだ景気が悪く、予想以上の苦戦を強いられてしまった。今となってはもう、履歴書を書いた枚数も応募した会社の数も名前も全く覚えていない。それでも今なお鮮明に甦るのは、説明会や面接の予定ばかりで埋まっていくスケジュール帳、溜め息を吐きながら腕を通したリクルートスーツ、面接官との無味乾燥なやり取り、遂には開封する気すら失せてしまった大量のお祈りメールたちの幻影。

 新卒という最強のカードを失った瞬間、俺は全てを諦めて、以来ずっと近所のコンビニで働き続けている。根気よく続ければいつかきっといいご縁がある、と母は何度も俺を説得したが、同じ歳の頃に異常なほどの好景気を経験していた母からの言葉が俺の心に響くことはなかった。お前なんか要らない、と繰り返し言われることの辛さは、同じ立場の人間にしかわからない。

 けれど、姉は違った。四つ年上の彼女は、自由奔放で、自信満々で、就職活動を始めてすぐに大手化粧品メーカーの内定を獲得してしまったのだ。友人は勿論のこと、恋人にだって恵まれている。本当に同じ血を分けた姉弟なのかと、俺はずっと疑ってきた。

 母は俺を気遣って何も言わなかったが、日本で知らぬ者はいない、泣く子も黙る大手通信会社に勤める父は容赦なく俺を侮蔑した。高校受験の時も大学受験の時も、常に姉の結果と比べられて惨めな思いをさせられてきたが、就職活動を止めた時、遂に父は俺に言ったのだ。

お前は失敗作だ、と。

 父とは滅多に揉めない温厚な母も、その発言に怒り、涙を流しながら俺を擁護してくれた。姉も、俺を傷つけるようなことを言ったことはない。家庭から居場所をなくさなかっただけマシなのだと、俺は何度も己に言い聞かせた。

 それでもやはり、俺は父のことが苦手だった。何の取り柄もない自分のことを受け入れて欲しい、愛して欲しいと思ったことはないけれど、父は出来損ないの俺だけでなく、俺の好きな世界のことすらも根本から否定し続けているのだ。その態度だけは、どうしても許せなかった。

「ただいまぁ! しゅんやぁ、おねえさまのお帰りよぉー!」

 日が暮れる頃に起き上がり、パソコンをつけて小説の執筆作業に没頭していると、飲み会帰りの姉がノックもせず急にドアを開け、俺の部屋に侵入してきた。肩に手を置き、背後から画面を覗き込む。

「うわっ、酒臭ぇ!!」

「あんたってぇ、ぶんしょぉだけはホント上手いよねぇー。それさぁ、次のオンリーイベントのしんかぁん?」

「ああそうだよ、つーかとっとと風呂入れよ!」

「ねーえー、いつになったら麒(キ)×白(シロ)のやつ描いてくれんのぉー? 七夕(たなばた)祈(いのり)せんせぇー!!」

 青(アオ)×白(シロ)と青×朱(アカ)はたくさん書く癖にぃ、と言いながら俺の頭頂部に顎を乗せ、穴を掘るようにぐりぐりと動かす。これ以上酔っ払いの相手をしたくなかったので、俺は彼女を廊下に突き出しすぐさま鍵を閉めた。

 そう、俺と姉は、いわゆる「オタク」と呼ばれる部類の人間である。更に分類するのであれば俺は「萌(もえ)豚(ぶた)」及び「腐(ふ)男(だん)子(し)」というもので、彼女は「腐(ふ)女子(じょし)」及び「コスプレイヤー」に該当する。「萌豚」とは萌え系美少女アニメを、「腐男子」と「腐女子」は男性同士の恋愛を描いた作品を好む者たちの総称である。「コスプレイヤー」は、文字通りキャラクターなどのコスプレを嗜む人々のことだ。

 そして現在俺たちがハマっているのは、「陰陽(おんみょう)四(し)神(じん)戦(せん)勇(ゆう)記(き)」という名の、古代中国を舞台にしたソーシャルゲームのキャラクターたちだ。四神たる東の青(せい)龍(りゅう)・南の朱雀(すざく)・西の白(びゃっ)虎(こ)・北の玄(げん)武(ぶ)、そして中央の麒(き)麟(りん)の加護を受けた選ばれし者たちが世に蔓延る悪、つまり妖怪たちを倒して「桃源郷」、即ち楽園を築いていくというストーリーが基盤となっていて、アニメ化までされている。課金すればするほどレベルが上がり易くなり、使える武器や技が増え、コスチュームも豪華になるという恐ろしいゲームであるが、これが中々面白くて止められない。

そして俺が推している、つまり夢中になっているのは「朱雀」という赤い髪にお団子頭のチャイナガールなのだが、それ以外のメンバーは全員美声を持ったイケメンたちであるため世の腐女子たちから絶大な支持を得ていて、二次創作も非常に盛んである。

 オンリーイベントとは、ある特定の作品の二次創作物を扱うオタクたちの祭典、即ち同人誌即売会のことだ。「七夕祈」は、俺のペンネーム。つまり父が否定している俺の趣味というのは、マンガ・アニメ・ゲームを嗜み、かつ同人活動に興じていることである。

 姉が推しているのは明るく破天荒なムードメーカー・白虎で、キラースマイルのリーダー格・麒麟がその彼氏設定になっている作品を好んでいる。しかし俺はクールでキザでツンデレな青龍と明るく無邪気な朱雀との愛の行方を追うのが特に好きなので、そこは決して譲れない……いや、譲ってはいけないのだ。

 イベントが開催されるのは海の日、そして印刷会社への入稿締め切りはその三日前である。残された時間は、約三週間。メインの青(アオ)×(かける)朱(アカ)本(ぼん)は完成しているものの、もう一冊の青(アオ)×白(シロ)本の進捗状況は芳しくない。それまでに何としてでも仕上げなければ、と俺は闘志を漲らせた。


                   *


「春夜。届いてたわよ、お手紙」

 ある日の夕方。目が覚めてからいつも通り原稿作業に取り掛かると、母がドアをノックして一通の封筒を俺に差し出した。明るい茶色に染めた短いパーマの髪故か、実年齢より若く見られがちな母も、間もなく還暦を迎えようとしている。

「ああ、ありがとう」

「結構続いてるじゃないの。いいわねぇ、若いって」

 口元を指先で隠しながら、意味深な笑みを浮かべる母。

「だから、そんなんじゃねぇんだって」

 しっし、と手を振って母を追い払う。なぜ彼女がそんなコメントをするのかというと、これは文通相手からのもので、しかも差出人が女の子だからである。

 逸る心を抑えながら、鋏で慎重に封筒の端を切る。中から出てきたのは、和紙でできた花柄の便箋。そこには、可愛らしく美しい字で丁寧なメッセージが綴られていた。


 七夕祈先生

 こんにちは、お元気ですか。いつもお返事が遅くて申し訳ございません。お手紙、いつもありが

とうございます。楽しく拝読しています。

そういえば、最近よく青×白の作品を描いてくださいますね。先生の推しカプは青×朱

なのに、どうしてでしょうか。でも、とても嬉しいです。だって、それは私の推しカプですから。

もうすぐ七夕ですね。天の川が見えるといいですね。先生のペンネームとサークル名はとても素

敵ですが、それは本名が天川さんだからでしょうか。

七夕が過ぎたら、梅雨も終わりますね。暑い日が続くと思いますが、どうぞお気をつけてお過ご

しください。作品の更新も、楽しみにしています。

                                       モモカ


「モモカさん……どんな人なんだろうな……」

 読み終わり、溜め息を吐きながらその名を呟く。

 彼女とは、「ドローイングポスト」略して「ドロポス」というオタク向けのSNSで知り合った。自作のイラストや漫画、または小説を投稿し、閲覧者からいいねをしてもらったりコメントを書いてもらったりする機能や、自分の好きなマンガ・アニメ・ゲームの二次創作作品を検索し、ファンになったユーザーをフォローする機能が備わっている。「モモカ」さんは俺のフォロワーで、しかも全作品に嬉しいコメントを書き込んでくれる、言わば俺のファンになってくれた人だ。

 最初はドロポス上でやり取りをするだけだったが、いつからかモモカさんが手紙を出してもいいかと聞いてきて、特に断る理由がなかったので了承し、文通が始まったのだった。

手紙を書き合うようになってからかれこれ半年は経過しているが、彼女は千葉県に住んでいる女子大生で、本名は織(おり)田(た)明(あ)姫(き)。推しキャラ、つまり一番好きなキャラクターが青龍、推しカプ、つまり最も好んでいるカップリングが青(アオ)×白(シロ)であることしかわかっていない。

彼女は相当レベルの高い絵師で、俺よりも断然フォロワーの多いユーザーだ。しかし、漫画がうまく描けないことが悩みらしく、同人誌を出したくても出せないという。

だったらイラスト本を出せばいいのではないか、と俺含め多くのフォロワーがコメントしているが、自信がないしどうしても漫画がいいのだと意地になっていて、やはりイベントに参加する気はないらしい。

ところで俺はというと、文通が始まったのはいいものの、もっと彼女のことが知りたい、でもどこまで踏み込んでいいのかわからない、というジレンマに悩まされ、未だにオンラインでもオフラインでもオタトークしかできていないのであった。

「あれ、もう一枚ある」

 二枚目の便箋に気付き、目を通すと、そこにはビッグニュースが記されてあった。


 追伸

 そういえば、今度のオンリーイベント「桃源郷で会いましょう14」で、初めて先生が同人誌を

出されるそうですね!

とっても嬉しいです!! 必ず買いに行きます!!


「う、嘘だろ……!?」

 何ということだろう。生まれて初めて同人誌を発行し販売するという記念すべきその日に、モモカさんがわざわざ会いに来てくれるなんて。夢じゃないだろうかと勘繰って思いきり頬を抓ったが、途轍もなく痛い。どうやら、これは現実のようだ。

 余りの嬉しさに、高揚が止まらない。興奮がそのまま体の震えとなって現れ、便箋を封筒に戻す手つきさえたどたどしくなってしまう。

 この調子じゃ、当日は失神してしまいそうだな――そう思いながら俺は眼鏡を外しベッドの上で何度も何度も寝返りを打って己を落ち着かせようとしたが、結局その晩は作業をすることも碌に眠ることもできなかった。


                   *


「すみません、青×白本を一部ください!」

 オンリーイベント当日。合同企業説明会などでも使われるだだっ広いその会場には所狭しと長机が並べられ、その上にはファンたちによる同人誌やグッズが陳列されている。スピーカーからは陰陽四神戦勇記のアニメ主題歌が流れているが、参加者たちの歓喜の声もその音声に負けじと響き渡っている。パイプ椅子に座って行き交う人々を眺めていると、高校生らしき女の子がこちらへ歩み寄り、一冊くださいと言って五百円玉を差し出してきた。

「あ、ありがとうございます。二百円のお返しです」

「あの……祈先生は?」

「あ、今コスプレ撮影会の方に行ってまして……」

「そうですか、じゃあ、これからも頑張ってくださいって伝えておいてください!」

 俺の初めての同人誌を抱きしめながら、笑顔で会釈して去っていく。その背中が見えなくなってからじわじわと喜びの波が押し寄せてきて、長机の下でこっそりと拳を握った。

 陰陽四神戦勇記の登場人物はイケメンばかりであるが故に、ファンの九割以上は腐女子で占められている。右も左も前も後ろも、どこを見ても女子ばかり。数少ない男性作家として出陣する度胸は勿論なかったので、この日のために「七夕祈」という女性らしくも安直なペンネームを作り、そして本人ではなく売り子と偽って参加しているのだ。

 しかし、唯一「七夕祈」が男であることを知っている人がいる――そう、モモカさんだ。彼女が俺の個人サークル「ベガとアルタイル」のスペースに来てくれたら、きっと一目で俺が本人であることに気づいてくれるだろう。残念ながら本の売れ行きはあまり良くないけれど、念のため彼女のために一部残しておいてある。早く来ないかな、まだかな、あの人かな、いやあの人かな、とびっきりの美人だったらどうしよう、アイドル並みの可愛い子だったらどうしよう、何を話そう、それ以前にうまく話せるのだろうか――そんなことばかり考えながら、落ち着きなく周囲を見渡し続ける。

「何ニヤニヤしてんのよ、みっともないわね!」

 ドカッ、と音を立てて隣の椅子に姉が座った。ライオンの鬣のように立派な金色の長髪を靡かせた麒麟のコスプレが、腹立たしいほど様になっている。一体誰が作ったのか、麒麟の刺繍が施された黄金のチャイナ服は最早商品レベルのクオリティだ。姉の面影は、もはや右目にある泣き黒子しかない。

「ニ、ニヤニヤなんかしてねぇよ!」

 反射的に言い返すと、姉は鏡を開いて俺に向けてきた。そこには、頬を紅潮させ顔の筋肉を緩めまくった、わかりやすい表情の俺がいた。

「そんなに気色悪い顔されたら、買いたくても買えないじゃないの。私がここにいてあげるから、トイレで顔洗ってシャキッとしてきなさい!」

「うっ……」

 悔しいが反論の余地はなく、俺はすぐに席を立った。人込みを掻き分け、少し離れたところから振り返ってスペースを見遣ると、信じ難いことに姉の周りには一瞬で人だかりができていた。やっぱり気色悪かったのかと反省し、トイレで顔を洗ってから無表情をキープする練習を五分ほど続ける。

 姉は今こそ大手化粧品メーカーに就職しているものの、将来はプロのメイクアップアーティストとして独立することを目指して平日の夜間に美容の専門学校へ通っている。大企業に就職して安定した収入源を確保しつつ、いい相手を見つけて結婚するのが望ましいとする両親の意向に沿いつつも自らの夢を決して諦めないその姿勢を貫ける彼女が眩しすぎて、俺は劣等感に圧し潰されてしまいそうだった。

しかも、そのスキルをコスプレに活かせるのだから尚更である。幸い俺は長年にわたる読書歴の甲斐あって文章力に恵まれ、言葉によって推しへの愛を表現することはできるものの、推しそのものになれる快感を知っている姉が羨ましくて仕方がなかった。

過去に一度そのような愚痴を零したところ、じゃあアンタもやればいいじゃない、メイクもしてあげるし衣装だって用意してやるわよ、と二つ返事で言われた。しかし俺が成れるキャラクターは、堅物で恋愛に疎い眼鏡キャラ・玄武しかいないような気がして断ってしまった。首筋まで伸びた黒髪を切って七三分けにするだけで大幅に玄武に近づくことができるのは確かだが、推しキャラでもなければ推しカプの片割れでもないため、どうしても気乗りしなかったのである。

顔を洗い、深呼吸をしてからスペースへ戻ろうとすると、なんとテーブルの上には本が一冊も残っていなかった。腐女子向けの青×白本のみならず、ノマカプ――ノーマルカップリング、つまり男女の組み合わせ――の青×朱本すらも完売していたのだ。俺の作品が予想外に評価されたからなのか、それとも姉の神々しい麒麟コスプレのお陰なのかはわからず、嬉しさと悔しさの入り混じった複雑な心境になったが、それよりも注目すべきだったのは、本がなくなってしまったスペースの前で悲しそうに俯いている一人の女性の姿だった。

毛先を軽く巻いた長い茶髪に銀縁の丸眼鏡、そして袖口とスカートの裾がフリルのレースで可愛らしくなっている花柄のベージュのワンピースがよく似合っていて、胸元の赤いリボンも映えている。

「あっ、やっと帰って来た!! モモカさん、アイツです! アイツが七夕祈です!!」

 アイツとは何だ人聞きの悪い、という苛立ちと、遂にこの時が、という興奮が綯い交ぜになる。彼女が、モモカさん。可愛らしく美しい字で俺と文通をしてくれた、あのモモカさん。

 姉が俺を指し、彼女が振り向く。幼い顔立ちをしていた彼女は、一重瞼の瞳からポロポロと涙を流していて、白く細い指先でそれを拭っていた。

「あ、アナタが……イノリ先生?」

「そ、そうです、貴女が、モモカさん……あ、本、まだあります! モモカさんのために、一部ずつ、とっといてあります……!」

「何よ、あるんだったらとっとと出しなさいよ! 彼女、完売したショックで泣いちゃったのよ!?」

 喧しい姉は無視して、段ボールの中の最後の一部ずつを彼女に手渡す。

「あの、お代は結構です。貴女のお陰で、俺、頑張って描けたようなものなので……」

「…………」

「……えっと、モモカさん? だ、大丈夫ですか?」

 受け取った同人誌を凝視したまま、彼女は指を微かに震わせ、しばし立ち尽くしていた。俺が顔を覗き込むように彼女を見ると、我に返ったのか、急に勢いよく顔を上げ、そして、大声で言い放った。

「イノリ先生……いえ、シュンヤサン! ワタシと、結婚してくだサイ!!」

「はっ……!?」

 何を思ったのか、彼女はイベント会場の中心で愛を叫び出した。周囲が一斉にこちらに視線を向けてきて、傍らの姉も放心している。どうやら、聞き間違いではないらしい。

「ちょ、ちょっとこっち来て!!」

 とにかくその場から離れたくて、俺は彼女の腕を掴んで会場の外へ連れ出した。開けっ放しのシャッターの向こうには、貨物船の行き交う東京湾が広がっている。梅雨明けの強い日差しと、蒸し暑い潮風が夏の訪れを俺たちに告げている。

「け、結婚してくださいって……あの、深い意味はないですよね? ほら、俺たちオタクって、すぐ推しカプに向かって結婚!! とか言うし……!」

「す、スミマセン……でも、私、アナタに会えたこト、トテモ嬉しいだかラ。アナタに会いたいだかラ、私、日本に来ましタ。アマカワ、シュンヤサン」

 運動不足が祟って、少し走っただけで肩で息をしている自身の情けなさを痛感しつつ両膝に手を置いた俺。すると、頭上から少々たどたどしい日本語が聞こえてきて、耳を疑った。

「え、ちょっと待って……モモカさん、ですよね?」

「ハイ、そうでス」

「し、失礼ですけど……証拠って、あります?」

「ショウコ……? スミマセン、わかりませんでス」

 首を傾げる彼女の反応からすると、証拠として相応しいものが何なのかがわからないのではなく、証拠という言葉の意味そのものがわからないということらしい。

「え、あれ……?」

 混乱のあまり、遂に言葉が出て来なくなってしまった。俺が視線を泳がせていると、彼女は恐る恐る、申し訳なさそうに告げる。

「ゴメンナサイ。私、モモカですけド、ホントは、モモカじゃありませんでス」

 脳内がショートしかかっている俺にその言葉の真意を処理する余裕などなかったが、彼女が差し出した俺からの手紙と、隣国のパスポートが全てを物語っていた。

「私ノ名前、李(リ)桃(タオ)華(ファ)でス。中国人でス。上海から来ましタ。タオファは、日本語デ、モモカ読みまス」

「え、でも、住所は千葉県だったじゃないですか……? 名前も、織田明姫って……」

「アキサンは、私のトモダチ。私が、彼女に手紙送りまス。それかラ、彼女がいい日本語にしテ、アナタに手紙、送るしましタ」

 つまり、今目の前にいる彼女が千葉に住む織田明姫さんに手紙を出し、明姫さんがその文面をより自然な日本語に直してから俺に送っていたということだろうか。

「私、ウソつきでス。私、中国人であルのに、日本人の振りしタ。本当に、申し訳ございませン」

 彼女を責めるつもりなど毛頭なかったが、深々と頭を下げられてしまい、より一層どうしたらいいのかわからなくなってしまった。そこへ、スペースから引き上げてきた麒麟の姿のままの姉が救世主の如く現れる。

「ちょっと春夜、どうゆうこと!? どうしてモモカさんがアンタに謝ってんのよ!!」

「いや、その……」

 少しずつ冷静になってきた頭で、事の顛末を姉に説明する。姉はさほど驚いた様子もなく、頷きながら俺の話を聞いてくれた。

「へぇ、そうなんだ。中国でも人気なの? 陰陽四神戦勇記って」

「ハイ、トテモ!!」

 悲しげな表情を浮かべていた彼女が瞳を輝かせ、声を張り上げて答えた。

「中国ノ学生、ミンナ、日本のマンガとアニメ大好きでス! オンミョウシジンセンユウキは、中国の話であルから、私タチ、トテモ嬉しい!!」

「私たちも、わざわざ中国から来てもらって嬉しいわ。ね、春夜?」

 腕を組みながら俺の方に視線を寄越し、同意を求める姉。素直に従って、コクリと頷く俺。

「私は夕夏。春夜の姉で、推しは麒×白よ。よろしくね、タオファさん」

「ハイ、よろしくお願いしまス、ユウカサン。キリンのコスプレ、かこいいでス!」

「ホント? ありがと!」

 話しながら、笑顔で握手する二人。姉の対応力と順応力の高さを見せつけられ、俺は敗北感に打ちのめされた。

「ところで、日本へは旅行で来たの? 東京にはいつまでいるの? 良かったらホテルまで送ってってあげましょうか?」

 矢継ぎ早に問う姉についていけず、モモカさん――もとい、タオファさんは口を噤んでしまった。代わりに、今度は俺がたどたどしい中国語で通訳する。

「凄いでス! シュンヤサン、中国語、できるでスね!!」

「あ、いや……大学で、少し勉強しただけだから」

 中国の文化や歴史には前から興味があって、学生時代は文学部中国文学科に所属していた。まさか、その頃単位を取得するためだけに学んでいたことがこんな形で役に立つとは。

「今、私は夏休みでスから、日本に来ましタ。旅行でス。でモ……」

「でも?」

 姉と俺が声を揃えて尋ねると、彼女は再び泣きそうな顔になってしまった。

「ココに来る前、私、財布ありませんなりましタ。財布、credit cardありまス。今、私、passportと、mobile phoneしかありませんでス。suit caseも、飛行機が、なくすしましタ。ホテルの予約も、できてる思った、でも、できてない言われたでス」

「ええっ!?」

 再び声が重なってしまいバツが悪くなったが、それどころではない。財布もスーツケースもなく、ホテルの予約すら取れていなかった彼女は一体、これからどうするつもりなのだろうか。そして俺は、彼女のために何をすべきだろうか。

「じゃあ、ウチに泊まりに来る?」

「はっ……ちょ、何言ってんだよ姉貴!!」

 俺が思い悩んでいる最中に、姉は堂々と言ってのけた。流石にタオファさんも困り顔である。

「で、でも、私、お金ありませんでスから……」

「いいのよ、困った時はお互い様なんだから! 口うるさいガンコ親父は単身赴任中だし、お客さん用のお布団もあるし!」

 日本で三本の指に入る大手通信会社・ハードウェアワークスに勤めている父・龍彦は、現在上海で暮らしている。なぜなら、中国最大手の通信会社・棗紅(ツァオフォン)との次世代AI共同開発のために本社から派遣されているからだ。

「エッ、ト……」

 姉の口から難しい日本語が次々と飛び出してきて戸惑いを隠せないようだったが、俺にもそれらを全て中国語に訳せるほどの能力はなかったので、とにかくうちに来て、とだけ彼女に伝えた。


                   *


「あらあらあら、まぁまぁまぁ! あなたが、タオファさんなのねぇ!?」

 日が傾き出した頃に帰宅した俺たちを出迎えた母の顔が、彼女の姿を捉えた途端に輝き出した。事情は、既に電話で説明済みである。

「ハイ、初めましテ。私、李桃華でス。突然、スミマセン」

「あらまぁ、日本語お上手ねぇ! さ、どうぞ入って入って!」

 息子の文通相手との対面が、余程嬉しいらしい。こんなに上機嫌な母を見るのは久方振りである。客人用の真新しいスリッパをいそいそと取り出して、母は笑顔のままリビングへ彼女を促した。

 滅多に使わない上等な陶器にジャスミンティーを淹れて、ソファーに座った彼女の前に置く。最後に母が腰を下ろしてから、俺たちは彼女の現状を説明した。

「それは大変だったわねぇ!! うちで良かったら、どうぞ泊まっていって!」

「え……でも、私、お金が、払えませんでス」

「そんなのいいのよぉ、うちの春夜と文通してくれてたってだけで十分有難いんだから!!」

 笑って話しながら手を払うという中年女性特有の謎めいた仕草をしながら、母は調子よく答えた。

「私は、夕夏と春夜の母親で、星(ほし)恵(え)っていうの。よろしくね、タオファさん!」

「ハイ、よろしくお願いしまス、ホシエサン。お世話になりますでス」

 ぺこり、と遠慮がちに頭を下げる。表情はまだ硬い。

「そうだ、今夜はタオファさんの歓迎パーティーにしましょ! ちょうどね、餃子の材料を買ってきたところなのよ!! ビールと梅酒もあるわよ!」

「ぎょーざ……?」

「チャオズ、だよ」

 また首を傾げていたので横から中国語の発音を伝えると、彼女はすぐに納得した。

「嬉しいでス、私、ぎょーざ大好き! ありがとうございまス、ホシエサン!!」

 この家に来てから、初めて彼女が笑顔になった。それを見て、ほっと胸を撫で下ろす俺。

「まだ夕飯まで時間あるわよね、お母さん。タオファちゃん、それまでに必要なもの買いに行きましょ。お金はなくても、アプリで買い物はできるもんね」

 確かにその通りだ。最近は観光客のために中国のキャッシュレス決済アプリ対応を始めた店舗を多く見かけるので、きっと近場のデパートやスーパー、コンビニでもできるだろう。便利な時代になったものだ。

「着るものは私ので良ければ貸してあげるから、歯ブラシとか下着とか、そういうものを買えばいいと思うの。春夜、アンタは残ってお母さんと餃子作ってて」

 じゃあ早速行きましょ、と言ってタオファさんの手を取る姉。彼女は不安げな表情で俺の方を見たが、大丈夫だから、と言い返して二人を見送った。

「可愛い子ねぇ、タオファさん! やるじゃない、春夜」

「だから、そういうんじゃないって言ってるだろ」

 揶揄う母をあしらうことにはもう慣れていて、反射的に決まり文句を返す。しかし、その直後にイベント会場での彼女の爆弾発言を思い出し、不覚にも頬を紅潮させてしまった。

「ほらぁ、やっぱりあんただって可愛いって思ってるんでしょ!」

「いや……とにかく、餃子作るならもう始めないと」

「そうね、始めましょ。それにしても、良かったわねぇ。お父さんがいなくて」

「ああ……」

 父――天川龍彦(たつひこ)は、とにかく寡黙で気難しく、常に眉間に皺を寄せているような人物である。もし家にいたら間違いなく彼女に余計なストレスを与えていたことだろう。そんな父が上海に単身赴任中で、彼女はある意味ラッキーだった。かく言う俺も、そんな父が留守だからこそようやく同人誌を発行し、イベントに参加できたようなものだ。

 一時間半ほどで、二人は街から戻って来た。餃子パーティーの準備も整っていて、あとは焼くだけである。

「お帰り、タオファさん! ちゃんとお買い物できた?」

「ハイ、ダイジョブでス。ありがとうございましタ、ユウカサン」

「いいのよ、気にしないで! じゃ、荷物置きに行きましょ」

 そう言って、彼女たちは二階にある姉の部屋へ向かった。一階に下りてリビングに入ると、台所でフライパンに油を注ぎ、ガス台の火をつける俺のことを不思議そうな顔で見つめるタオファさん。

「シュンヤサン、何しているでスか?」

「何って……焼くんだよ。餃子を」

「ぎょーざを、焼きます、でスか!?」

 何故か驚く彼女を他所に、飛沫を飛ばし始めた油の池に餃子を置いて豪快な音を立たせる。

「あ、ア……哎(アイ)呀(ヤ)ーーーー!!」

 直後、断末魔の叫びに慄いた姉と母が、険しい表情で台所へ駆けつけた。

「大丈夫、タオファさん!?」

「ちょっと何、どうしたの!? 春夜、アンタ何か変なことしたんじゃないでしょーね!?」

「んなわけねぇだろ、そんな目で見るんじゃねぇよ!!」

「じゃあ何でまたタオファちゃんを泣かせてんのよ!?」

「知らねぇよ、俺はただ餃子を焼こうと……」

 そこで、俺はようやく気づいた。餃子を焼くのは日本人にとっては至極当然のことだが、中国では基本的に水餃子として食べるので、そもそも焼くという発想がないのだ。

「ぎょ、ぎょーざが……焼かれているでス……」

「ぎょ、餃子が焼かれています?」

 瞳を潤ませながら震える彼女の呟きの意味が理解できないらしく、訂正しつつオウム返しをする姉。彼女の背中を撫でながらあやす母も同じような表情を浮かべていたので、どうやら彼女がいきなりカルチャーショックを受けたことを悟ったのは俺だけらしい。

「あー……ごめん、タオファさん。日本人は、餃子を焼いて食べるんだよ」

「え、中国では焼かないの!?」

 姉と母の声が重なり、リビング中に響く。恐らく、さっきの叫び声も近所に聞こえていたに違いない。後で事情を説明しに行かなくては。

「ハイ……でも、ゴメンナサイ。私が悪いでス。せかく作てもらてるのに、私、失礼でありましタ」

「いや、いいよ、謝らなくて……」

 俺たちだって、テレビで見たような海外のキテレツ日本料理を食べさせられる時は、きっと同じようなリアクションをするだろう。要するに、そんなのはお互い様なのだ。

「ぎょーざを焼くこと、知りませんでしタから、驚くしましタ。でも、キット美味しい。ですから、焼いてくだサイ。シュンヤサン」

「お、おう……」

 やりづらいこと極まりないが、もうそうする他ない。無心になって、俺はひたすら餃子を焼き続けた。

 焼きたてのそれを大皿に盛り付け、恐る恐るテーブルに置く俺。変わり果てた姿の餃子を、黙って凝視する彼女。さながら、得体の知れない餌を前に警戒する野生動物のようだった。

「じゃ、じゃあ、食べましょうか!」

 母が言い出して、俺たち三人は揃っていただきます、と唱える。すると、彼女は急に硬かった表情を綻ばせて笑った。

「え、何、どうしたの?」

 俺が横から尋ねると、彼女は愉快そうに言った。

「日本の人タチ、ミンナ、いただきます、言いまス。アニメで見ましタ。面白いでス」

「そうねぇ。こういう習慣って、たぶん日本だけだもんねぇ」

「アニメと一緒、か。そりゃ面白いわ!」

 母と姉の顔も和らぎ、リビングの雰囲気が明るくなる。

「私も言いまス。いただきまス!」

 きちんと手を合わせて、彼女は高らかに唱えた。そして勢い良く餃子を取り、醤油をつけて頬張り、咀嚼する。

「……ど、どう? 美味しい?」

 母に倣って前のめりになり、瞬きも忘れて彼女の返答を待つ俺たち。

「ハイ、美味しいでス! 私、コレ、好きなりましタ!!」

「ホント!? 良かったぁ!!」

 三人揃って心底安堵し、背もたれに寄り掛かる。気を取り直して、俺たちも箸を進めた。

 一時はどうなることかと思ったが、そこまで心配することはないかもしれない。会話の弾む食卓を眺めながら、俺は一人、心の内でそう呟いた。



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