六話

「次第に話は逸れていった。生徒のことはあくまで、きっかけ、だったから。引き金っていうかさ。結局俺が、一番心に溜めてたのは、例の北大の女の子のことだった」

「ああ・・・。北海道大学に行ったっていう子ね」


 彼は、色々と心の内を私に明かしてくれていたのだと思う。この、不安に関する話も、普段はここまでは詳しく語らなかったけれども、時折その片鱗を私に披露してくれていた。

 ところが、彼の、私以前の恋愛の思い出については、あまり語られる事はなかった。私のことを気遣ってくれていたのかも知れないし、私の方も特別彼に訊くこともしなかった。

 

 きっと、彼にとって恋愛とは、とてもデリケートなものを多く含むのだろう。とても複雑なんだろう。だから、その北大の女の子について、私はその多くを知らなかったし、彼がその女の子のことをずっと好きだったというのは、この時初めて、彼自身の口から詳しく語られたのだった。


「室長には洗いざらい話しちゃったよ。そしたら室長は、あなたはその子のことが好きなんでしょ?って。俺が、頑なに否定し続けてきた事だったのに。好きじゃない、ってね。

 でも、そうだって認めちゃうとさ、好きだって認めちゃうとさ、メッチャ楽なんだよ。それに、人に話せた、聞いてもらえたってことで、ものすごい安心感を得られたんだ」



 私の左手の温度は少しずつ上がってきたけれど、彼の右手は依然として冷たいままだ。それにしても、室長が彼の、心の内を少なからずも聞いていたとは。私は全く知らなかったし、気づきもしなかった。



「室長のおかげで、その日はとても安心して眠ることができたんだ。朝までグッスリと。もう不安になることもないだろうと思った。翌日、俺が塾のバイトから帰ってくるまでは全然普通だったしね」


ところが、と彼はここでまた一呼吸を入れた。


「家に帰ったのがちょうど午後四時だったんだけど、夕飯までまだ時間があったし、昼寝をすることにしたんだ。まあ、正しくは夕寝、か。

 その日は朝からの授業で、ちょっと疲れちまって・・・。それで起きたのが七時半頃だったかな。自分の部屋で寝ていて、外はもう既に暗かった。最初はぼんやりとしてたんだけど、次第に意識がはっきりしてきた。

 そして、気づいたんだ。また、得体の知れない不安に襲われていることに。この時は震えてはいなかった。でも、どういうわけか緊張してた。心臓の鼓動がいつもより速い気がした」


 私は、隣の彼と見つめ合う。

 

「何でだろう? って思ったよ。きっかけは例の二人の生徒で、本当の理由は北大の女の子。昨夜室長に打ち明けたことで、全て解決したと思ってたから。でも、俺の不安は晴れてなかった。夜が更ければ更けるほど、不安感は増していく一方だった。夕飯を食ってる時、親に自分の様子を不審がられてはいないか、気になって仕方なかった。

 緊張しているせいで、食欲も全然なかったし。マジで何も喉を通らなかった。俺はこの時も、両親にどういう訳か不安になって緊張している、って言えなかったんだ。・・・知られたくなかったんだろうな」

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