第7話 横川博子(岡平市職員)[2]

 電話対応をせずにすんでいた男の職員が顔を上げた。

 このまえ、異動で来たばかりの若い職員で、博子ひろこはまだ名まえも覚えていない。

 役所内の通称「マルたま」プロジェクトのために教養文化事業課に転属してきた職員、というより、その名目で人手不足のこの課が補充してもらった新人さんだ。

 その職員と博子と目が合う。それで、博子はその職員に

「あ、いま、メールが来てさ、建築現場で陥没かんぼつがあって、真っ黒なほこりがすごく舞い上がった、ということなんだけど」

とささやくような早口で説明する。

 男子職員は、うん、とうなずく。博子が続ける。

 「いまのあの煙は、たぶん、それじゃないかと思うんだけど」

 その若い男子職員は、博子の顔をしばらく見つめてから、いきなり立ち上がって反対側へと大きい声を上げた。

 「あの、すみません! すみません! あの黒煙こくえんは建設現場の事故だそうです」

 男の人の声のほうがやっぱり通りはいいらしい。何人かがこっちを振り向いた。

 遠くで電話を取っていた、少し歳上の職員がきき返す。

 「えー? なんだって?」

 「だから、建設現場の事故だそうです。それであの黒い煙が上がったって!」

 その声は部屋全体に行き渡ったらしい。

 ほっとした雰囲気が流れた。電話に向かってのあかないやり取りをしていた職員も、すっかり声を落ち着かせて

「いま、確認が取れました。建築現場の事故だそうです。はい。いえ。もちろん核爆発ではございません」

などと答えている。

 確認が取れたわけではない。でも、いいか、と思った。

 それより、その陥没した穴に落ちたブルドーザーか何かを運転していた人は無事なのだろうか。

 この万年まんねん事務所というところには前に文化会館の耐震補強工事で世話になった。現地に何度も来て、できるだけ安上がりな設計案で見積もりを出してくれた。仕事もていねいだったし、工事中も来館者にできるだけ影響が及ばないようにいろいろと工夫してくれた。

 ブルドーザーに乗っていたのは事務所の人ではないだろうけど、でも、この事務所の関係の人には無事息災そくさいでいてほしい。

 でも、救出に行った人が、壁が切石きりいしで古墳みたいだと気づく余裕があったぐらいだから、たいしたことはないのだろうと思った。

 古墳……?

 博子は自分の仕事に関係のあるほうに頭を切り換える。

 残念ながら、岡平おかだいら市でいままでに確認されているいちばん古い遺物は平安時代後期のものだ。それも、どうして岡平市にあるのかよくわからない石仏が一体だけだ。

 もっとも、いままで発掘調査の手をつけていない岡平城址じょうしのほとんどの部分や、ずっと調査されないままほうっておかれている唐子からこはまみなみ遺跡を発掘すれば、何か出るかも知れないけれど。

 たぶん古墳ではない。あの本松さんという建築士の人が予想したように、前に住んでいた人が残した地下倉庫か何かだろう、と思った。

 でも、調べておかなくてはいけない。

 自分で行こう、と思った。

 出勤早々、窓の外できのこ雲が上がるというサプライズはあったが、こんな夏の日に空調の効いた部屋で単調にデスクワーク、というのは、博子は好きではない。中学生や高校生だったころ、夏休みの宿題が嫌いだったのと同じように。

 課長が戻って来た。脚を悪くしたということで杖をついている。

 朝から会議に出ていたのだが、黒いきのこ雲発生といういまの事態でとりあえず自分の部署に戻ることになったのだろうか。

 博子はほかの職員が報告する前に課長を出迎えた。

 「ああ、課長。あれは建築現場の事故だそうで」

 言ってから、あいだにひとこと挨拶あいさつがあったほうがよかったかな、と気づく。もう遅い。

 でも、役職定年間近のこの課長は、そういうのを気にするひとではない。軽くしわがれた声できいてくる。

 「何のこと?」

 「あ、えっと、あの、黒煙が上がった件ですけど……」

 「え? そんな事件、あったの? どこで?」

 「はあ……」

 会議に出ていた部課長レベルにはそんな事故の話は伝わっていなかったらしい。博子はすぐに頭を切り換えた。

 「えっと、つまり、ですね」

 博子は課長にいま起こった事故と問い合わせ電話の嵐について、落ち着いて説明を始めた。

 電話は、いまも鳴り続けている。

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