第15話

翌日は朝から細かい霧のような雨が降りしきっていた。空にはどんよりとした厚い雲がかかり、昨日まで降り注いでいた太陽の温かい光はどこにも見当たらなかった。僕はぐっすりと眠り込んでしまっていたせいで、宿を出発する時にはもうお昼を過ぎていた。僕が傘を持ってきていないことを知ると、女将さんはまだ新しい折り畳み傘を渡してくれた。

「いや、悪いですよ。きっともう返しに来れないから。」と僕は言ったのだが、女将さんは

「いいのよ。それあげるから。」と言ってくれた。

「探してる人に会えるといいね。」と言って、女将さんはニコッと笑った。

それから僕は女将さんに描いてもらった地図を見ながら、姉の車を走らせてもう一度霧ヶ峰高原へと向かった。生い茂る草もニッコウキスゲも、今日は細かい雨に降られて心なしか少し俯いているように見えた。


霧ヶ峰高原の横を走る道は、まるでどこまでも続いているようだった。今日は名前の通り霧がかかっていて、先の方が良く見えないのだ。しかもクネクネと曲がっていたので、普段運転に慣れていない僕は対向車にぶつかってしまうのではないかと肝を冷やしていた。


やがて女将さんが印を付けてくれた場所にたどり着き、僕は車から出て折り畳み傘を開いた。天気が悪いせいもあってか、周りを見渡してみても僕の他には誰も見当たらなかった。僕は草原の奥にじっと目を凝らした。霧の向こうにぼんやりとではあるが、木造りの小さな家が見えた。

僕は草やニッコウキスゲの間を踏みしめながら、緑川さんの住む家へと向かった。僕の履いているスニーカーが、雨に濡れた土を踏むギュッギュッという音だけが続いた。


緑川さんの家は、想像していた通りのこぢんまりとしたログハウスだった。家の前には、手作りの可愛いポストが置いてあった。僕は呼び鈴を鳴らそうとドアの辺りを探してみたのだけれど、どこにも見当たらなかった。きっとそんなに人が訪ねて来る事がないから、呼び鈴を必要としないのだろう。


僕は恐る恐るドアをノックしてみた。

コンコン。しかし誰も出てくる気配はない。

今度はもう少し力を込めて3回ノックしてみた。でも相変わらず、誰も出てくる気配はなかった。


「なーんだ、居ないのか」と言って帰るのが普通なんだろうな、と僕は思った。

でもその時の僕は長野まで一人で来てしまった手前、そのまま引き返すことが出来なくなってしまっていた。

僕はドアノブを回してみた。鍵はかかっておらず、ドアはギイッという乾いた音を立てて内側に開いた。僕は片足を踏み入れて「もしもーし」と言ってみたが、やはり返事はなかった。


中に入ると、そこはとても落ち着いた雰囲気のするリビングだった。奥には暖炉が置かれ、天井には3枚の羽根がついた大きなファンが取り付けてあった。キッチンの流しには洗ってから間もないお皿とマグカップが置かれ、微かにコーヒーの匂いがした。


リビングから通じる隣の部屋のドアは少し開いていて、覗いてみると黒髪の女性がキャンバスに向かって油絵を描いていた。その後ろ姿を見ただけで、緑川さんだとはっきり分かった。彼女は自分が描いている絵に集中しきっているように見えた。

僕はドアを開けて、

「緑川さん、」と呼びかけた。

彼女は一瞬固まった後、絵筆を持ったままゆっくりと振り返った。そして目を細めて少しの間僕を凝視した後、半信半疑といった感じで

「安田…くん?」とつぶやいた。

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