第13話

その日僕が泊まった旅館は、こぢんまりとして趣のある旅館だった。長旅でびっしょりと汗を搔いていたので、部屋に荷物を置いたあとすぐに大浴場へと向かった。

大浴場は広さは普通の家の風呂3個分くらいのものだったが、ひのきで出来た浴槽に綺麗なお湯が常に流れ込んでいて、宿の古さの割にとても清潔感があった。


僕が入った時には、男湯には他に誰も入っていなかった。シャワーで汗を流した後熱い湯船の中に入ると、全身に一気に血が巡るのが分かった。

「あー、気持ちいい!」と僕は思わずつぶやいて、両手でごしごしと顔をこすって髪をかき上げた。

どうやら慣れない車を1日中運転していたせいで、僕の血液はこれでもかと言うくらい両脚に溜まりこんでいたようだった。その血液が熱いお湯のおかげで全身を駆け巡ったものだから、気持ちの良さは格別だった。


僕が湯船に浸かったまましばらくボーっとしていると、30代後半くらいの色黒の男性がガラス戸を開けてガラガラと入ってきた。長い髪を束ねてポニーテールにしているのだが、横の毛はツーブロックで完全に剃られていた。何となくだが、フランス料理の隠れた名店の凄腕シェフのような雰囲気があった。シェフはかけ湯をした後、僕の隣にざぶんと腰を下ろした。湯船に大きな波が出来て、ひのきの浴槽からじゃばじゃばと流れ落ちた。

「いやー、風呂はいいですなあ。長旅の疲れが吹っ飛びますね。」とシェフは自分の肩を揉みながら大きな声で言った。一見すると大浴場の目の前の空間に向かって叫んでいるようだったが、状況的に考えるとどうやら僕に向かって話しているらしかった。


「あ、はいそうですねえ。」と僕は軽く会釈をしながらぎこちなく答えた。

シェフは湯船の上でタオルを豪快に絞って頭の上に乗せると、僕の方を見て言った。

「今嫁と娘と3人で来てるんだけどね、やっぱり一人でのんびり出来るのがいいよねえ。お兄さんは彼女と来てるの?」

どうやらデリカシーという概念にあまり興味がない人らしい。

「いや、自分は一人旅なんですよ。」と僕は少し恥ずかしくなって、タオルで顔を拭くふりをしながら答えた。

「そうかそうか。お兄さんくらいの歳だと、一人旅もいいよねえ。」と言ってシェフはあははと豪快に笑った。


その時、旅館の支配人が徳利とお猪口を盆に乗せて入ってきた。どうやらシェフが頼んでおいたもののようだった。

シェフは支配人に人差し指を立てながら、

「このお兄さんも飲むから、お猪口もう一つ。」と言った。

えええ、聞いてないよ、と僕は心の中で思ったが、まあ風呂に入りながら酒を飲んだことがなかったのでこれも経験だと思うことにした。


「じゃあ、今宵に乾杯!」と言ってお猪口をカチンと鳴らすと、シェフは冷酒をぐいとあおった。僕もつられて飲み干すと、今までにあまり感じたことのないような高揚感を感じた。ああ、何だろう、この気持ちは。風呂に浸かりながらアイスを食べた時と同じような背徳感である。

その後もシェフに勧められるまま冷酒をぐびぐびと飲んで、僕はすっかり気持ち良くなってしまった。部屋に帰ると、敷いてあった布団に倒れこんだ。ただ、まだ寝てしまう訳にはいかない。何せ夕食すら食べていないのだ。

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