第6話

「どうぞ、座ってください。」と言って弓木先生はソファーを指さし、コーヒーメーカーのボタンを押して2人分のカプチーノを入れてくれた。座ってみると、見た目は古いが座り心地の良いソファーだった。

僕が財布から名刺を出して渡すと、弓木先生は目を丸くした。

「安田さん・・・証券会社の方?」


先生の反応も無理のない話だった。証券会社の社員が美大の教授に会いに来る理由なんて、普通は思いつかない。そこで僕は、一応用意して来た話をすることにした。

「実はですね、私先生が以前教えられていた緑川麗さんと高校の同級生なんです。それで今度担任だった先生が退職されることになりまして、同級生のビデオメッセージを撮って回ってるんです。彼女が弓木先生の教室にいたと聞きまして、先生なら彼女が何をしているかをご存知なんじゃないかと思ったんです。緑川さんのことは覚えてらっしゃいますか?」

自分でも話していて、ビデオメッセージを撮るためだけにわざわざ人を捜し回ったりしないような気がしたが、他に上手い理由を思いつかなかったのでまあ仕方がない。


弓木先生はうなずいて、

「もちろん覚えていますよ、彼女は私が教えた中でもずば抜けた才能の持ち主でしたから。」と言った。そして外の景色をちらりと見て、

「ただ、彼女が今何をしているのかは私にも分かりません。むしろ私が聞きたいくらいですよ。」とぽつりと言った。


「それは・・・どういうことですか?」と僕は尋ねた。

先生はコーヒーカップを手に取って立ち上がり、窓際に立ってゆっくりとひと口カプチーノを飲んだ。窓の外では、雨がその勢いを少し強めているようだった。

先生はやがてため息をついて、

「彼女は大学3年生の時に、突然姿を消してしまったんです。」と言った。


その時、突然空が明るく光り、遠くで雷鳴がとどろいた。僕はごくりとつばを飲み込み、

「姿を消した?」と尋ねた。

先生は僕の方を振り返り、

「はい。ある日突然大学に来なくなって、それきり。私も連絡を試みたんですが、下宿先はすでに引き払っていて、携帯の方も解約されていました。」と言った。


僕は少しの間言葉を失っていたが、

「何か、思い当たる原因みたいなのは無いんですか?」と尋ねてみた。

先生はソファーに戻ってコーヒーカップを置くと、

「考えられる原因はあります。」と言った。

「と、言いますと?」


「彼女が突然居なくなる3か月前、つまり彼女が2年生の冬だった時ですが、彼女のお母様が亡くなったんです。彼女のお母さん、緑川真紀子さんは世界的にも有名な画家でしたから、我々の業界ではすぐにそのニュースは広まりました。しかしその後の3か月の間、彼女はふさぎ込むこともなく作品に打ち込んでいたので、私も特に心配することもなかったんです。」

「それが、突然姿を消したと?」

「はい。ある日大学に来なくなって、それきり。私としても彼女のような才能が突然消えてしまうのは苦しいことだったんですが、どうすることも出来ませんでした。」


僕は少し口を開けて弓木先生の顔を見ていたが、どうやらそれ以上の情報は先生も持っていない様だった。

「なるほど、そうなんですね。」と言って僕もひと口カプチーノを飲んだ。カプチーノの味は、何故だか普段よりもずっと苦く感じた。


弓木先生は僕の肩を軽くたたいて、

「申し訳ないがそろそろ午後の授業に行かなければ。」と言ってにっこりと笑った。

「分かりました、お忙しい所ありがとうございました。」と僕は答えた。


先生はドアを開けて出て行こうとした時に立ち止まり、僕の方を振り返って、

「安田さん、ひとつお願いがあるのですが良いでしょうか?」と言った。

僕は顔を上げて、

「なんでしょうか?」と尋ねた。

「もし彼女の消息が分かったら、私にも教えて欲しいんです。彼女のことは、私の中でもずっと心残りになってしまっているので。」と弓木先生は言った。

「分かりました。」と僕が言うと、先生はうなずいてドアを閉めた。


僕は一人応接室に残り、雨の落ちてくる分厚い曇り空を見上げた。そして、

「これで、手がかりは無くなってしまったのかな。」とつぶやいた。

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