第18話 仇敵


 ――その場にいた誰もが彼女に見惚れた。


 黒曜石のような艶やかな黒い髪。深淵を見通しそうなほど聡明な黒い瞳。女神の如き端正な美貌。メリハリのある完全に左右対称の黄金比の体――

 着ている服は金属光沢のような淡い銀色で、艶めかしい体の曲線を官能的に浮き出させる見たことも無いデザインだ。


 畏怖の感情すら抱く人知を超えた究極の美貌の持ち主である。


 美しすぎて言葉が出てこない。

 彼女は固まったウィアードを射抜くように真っ直ぐ目を向ける。


「席をご一緒しても?」

「あ、ああ。もちろんだとも!」

「失礼します」


 座ったのはファンシフルの隣。自分の隣に座らせなかったことを激しく後悔するが、美女を真正面から拝むことができるのでウィアードはそれで良しとする。


「酒を飲むだろ? 奢りだ。飲め! 給仕! この麗しい女に酒を持ってこい!」


 欲深い彼は、彼女を酔わせて宿に連れ込むことを画策していた。いや、彼の中ではもう確定事項だった。


 この極上の美女を自分の女にして侍らせたらどれだけ気分がいいだろう? 艶めかしい体を味わい、徹底的に犯し尽くしてやりたい。彼女はどんな表情で喘ぎ、どんな声を上げるのか実に楽しみだ。


 ウィアードだけでなくファンシフルも舐め回すような邪な視線を美女に向けて、下賤な愉悦に顔を歪めて笑っている。


「お待たせしました」

「おや」


 酒を持ってきた給仕の女性に美女がふと興味を抱く。


「給仕エプロン様がよく似合っていますね。自分に似合うようにアレンジしているところが大変すばらしい! その努力と向上心をこれからも続けてください」

「あ、えっと、ありがとうございます」

「給仕エプロン様が似合う貴女には特別に助言を差し上げましょう。これから騒がしくなるので、奥に下がっておくことをオススメします」

「わ、わかりました……?」


 意味が分からず首を傾げながら給仕の女性が下がっていく。見えなくなるまで後ろ姿を見つめていた美女は、瞬きをしない目で急にウィアードに視線を戻す。


「では、話を聞かせてください」

「お、おう。いいぜェ!」


 そして、ウィアードは饒舌に語り出す。自分の自慢話を中心に、アダマンタイトの剣を手に入れた経緯を大げさに誇張して。


「――てなわけで、その魔物の心臓にオレの剣を突き立ててトドメを刺したんだぜ。アイツは強かったなァ。オレも一歩間違えたら死んでたぞ。ま、オレくらいの実力がありゃァ無傷で倒すくらい余裕だがな!」

「ツバキ……魔物の最期はどうでしたか?」

「あァん? 魔物の最期ねェ……そうだな、心臓を突き刺しても、持っていた剣を振り上げようとしていたなァ。最期までオレに歯向かうつもりだったぜ」

「さすがですね……」

「そうだろ、そうだろ! そんな最期まで足掻いた魔物を油断せず倒したオレはさすがだろう!」


 気分よく笑うウィアードとは対照的に、黒髪の美女は静かに目を閉じる。まるで誰かを誇りに思い、黙祷を捧げるように。

 次に彼女が目を開けた時、その黒い瞳は紫がかった黒い剣に向けられる。


「その後手に入れたのが……」

「ああ。このアダマンタイトの剣だ。良い剣だろう?」


 鞘から抜いた漆黒の剣をウィアードは得意げに美女に見せびらかす。


「知ってるか? ヤツは死んでもこの剣を手放そうとしなかったんだぜェ? 手に入れるには指の骨を折るしかなかったくらいだ。どんだけ執着してたんだか。アホだろ」


 ――グシャッ!


 突然、テーブルに置かれていた木製のジョッキが砕け散った。

 ジョッキを握り潰したのは黒髪の美女だ。彼女は目を見開いたまま表情を変えず、ポタポタとその細い手を酒で濡らしている。

 零れた酒はテーブルに広がり、端から零れて落ちていく。

 あまりに予想外の出来事に、ウィアードは思わず呆然と固まってしまった。


「失礼。つい力を入れ過ぎてしまいました」


 彼女の言葉に真っ先に我に返ったのは、隣に座るファンシフルだ。


「そりゃ仕方がねぇですねぇ。濡れちまってねぇですかい?」


 酒がポタポタと垂れるその先は、美女の太ももや付け根の際どいところだ。

 今なら心配するフリをして自然と覗き込むことができる。彼は体を寄せ、彼女の肩に左手を回そうとさりげなく伸ばし――


「ワタシに触れないでいただけますか」


 ――グシュッ!


 水っぽい何かが押し潰れるような気味の悪い音が耳に届いた。


「へ……? ぎゃあああああああっ!? 痛ぇっ! 痛ぇよぉ!」


 一瞬惚けたファンシフルだったが、遅れてやってきた激痛にわけもわからず絶叫する。


「んぎぎぎ……っ! う、腕が……腕がぁ……!」


 ファンシフルの左腕が肩口からごっそり消失している。斬り裂かれた感じではなく、突然消し飛んだかのようなありさまだ。今の水っぽい音は、腕が弾け飛んだ音だったのだ。


 あまりの激痛に彼は脂汗が浮かぶ顔を醜く歪め、歯を食いしばっている。必死で傷口を押さえて止血しようとするが、勢いよく溢れ出す鮮血は止まる気配がない。


「い、今、なにが……」


 対面で見ていたウィアードは、仲間の左腕が消し飛んでも、未だ呆然としていた。


 ファンシフルが黒髪の美女に手を伸ばしたのは覚えている。羨ましく、同時に猛烈に腹が立って、ファンシフルのことを殴り飛ばそうかと一瞬脳裏をよぎったのだ。そして、水っぽい音に反射的に瞬きして、再び瞼が開いたときにはもうファンシフルの片腕が失われていた。


 目の瞬きの一瞬。ほんの刹那の時間、目を閉じた間に彼の身に何かが起こったのだ。

 だが、状況があまりに理解不能で、ウィアードは動揺から立ち直れない。


「そ、そうだ! あの女は!?」


 隣でファンシフルの血を浴びているのかと思いきや、そこに美女は座っていない。忽然と姿を消している。

 逃すにはもったいない極上の女性だ。ファンシフルよりも彼女のほうが大事だ。

 どこに行った、と周囲を見渡して探す前に、彼女の声が意外と近くから聞こえる。


「――この刀は返してもらいますね。マスターとワタシが作り、ツバキに贈ったものですから。これはツバキのものです」

「お、おいっ!」


 何かを手に取って静かに背を向ける美女に手を伸ばし――そこでウィアードは己の右腕が妙に軽いことに気づいた。

 ふと視線を向けると、右腕から噴水の如く鮮血が噴き出している。


「な、なんだこれは……。肘先から出るこの赤い液体はなんだ……?」


 訝しむ彼の鼻にツンと広がる鉄が錆びたような異様な臭い。それは徐々に濃さを増し、吐き気を催すほど濃密に立ち込めていく。

 足にかかる赤い液体が生温かく、濡れた感触が酷く気持ち悪い。


「どうなってんだァ……?」


 あんぐりと口を開けて立ち尽くすウィアードの前で、黒髪の美女は彼の背後の席に座っていたフード姿の人物に、握っていたものを丁寧に手渡す。


「ツバキの刀の回収に成功しました」

「ああ。ご苦労だった」


 それが黒い剣を握ったままの己の右手だと気づいた瞬間、ウィアードは襲ってきた激痛に耐えられず、声を張り上げて絶叫する。



 ■■■



 男の太い腕ごとツバキの黒刀を受け取って、私は内心で猛烈に焦っていた。肉体があったら体中を冷や汗がダラダラと流れていたことだろう。


 目の前では、仇敵の男たちが腕から血を流して声の限り絶叫している。


 一人は肘先からもぎ取られ、もう一人は肩口から消失している。ショッキングでグロテスクな光景だが、今の私の心は凍るほど冷たく、何の感情も湧かない。むしろ当然の報いだ、とさえ思っているほどだ。


 いや、今は泣き叫ぶ男たちなんかよりもだ。


 私は、表では船長としての威厳をまき散らし、裏では急速に広がる焦燥感を押し隠しながら、恐る恐るルルイエの様子を窺う。



 ――今まで何度も気安くルルイエの体に触れてしまっていたんだが、大丈夫だろうか……?



 ついぶつかって背後から抱きしめる格好になったり、頭を撫でようとしたり、今思えばとても危険な行動だったのではないか!?


 ファンシフルという痩身の男は、ルルイエに触れようとしただけで片腕を消し飛ばされた。それがいつ私の身に起きてもおかしくなかったのだ。


 予想以上に危険な綱渡りだったんだな……。


 これからルルイエの体に触れないよう気をつけよう。触れる必要がある場合は、必ず事前に許可を得るとしよう。


 私が心に深く刻み込んでいると、ようやく周囲の人間も状況を理解し始めたようで、騒然とする冒険者ギルド内に悲鳴が飛び交っている。


「よく耐えたな、ルルイエ」

「はい。おかげでツバキの最期を知ることができました」


 いつものように無表情に近いルルイエの全身からは、不可視の揺らめく鬼気のようなものが放たれているようだった。深淵の如き黒い瞳も昏い炎で燃えている。


 ツバキを殺したことを自慢げに語る男の話は、正直私も何度衝動的に殺したくなったことか。存在しない腸が煮えくり返ってどうにかなるかと思った。それが自分に向けられていたルルイエは私の何倍も辛かっただろう。


 ツバキの最期を知り、刀も無事に取り戻すことができた今、もう我慢する必要はない。私たちはようやく我慢から解放され、煮え滾る激情にその身を委ねることができる。


 私はもがれた男の腕を本人に投げ返す。


「これは返そう。私たちには必要ないものだ」

「ア゛アアアアァ! テ、テメェら……どういうことだァ……!」


 ウィアードという男は、脂汗を浮かべる顔を歪めながら、憎々しげに私たちを睨む。

 彼の目を泰然と受け止め、


「単なる敵討ちだ。貴様たちが殺したゴブリナは、私たちが可愛がっていた子だったのだよ。形見を取り戻すついでに復讐に来ただけの話だ」


 男は火属性の魔法で己の傷口を焼いて止血し、ゼェゼェと荒い息を繰り返しながら、


「テ、テメェら……あの、ゴブリンの、テイマーかっ!? ぐっ! ハァ、ハァ! その剣はオレのもんだ! 返しやがれェ!」

「否定。この刀はツバキのものです。そして、ツバキはテイムしたのではありません。ワタシたちの仲間です」

「ケッ! そんなのはどうだっていい! 目を離したテメェらが悪いんだァ! ったく、ゴブリン如きにあんな馬鹿馬鹿しい服を着せやがって! ゴブリンもイカれてると思ったが、テメェらもイカれてんのかっ!?」


 次の瞬間、ウィアードの巨躯が視界から姿を消す。


「ツバキはイカれていなんかいません。優しくて頑張り屋さんでエプロン様が良く似合う可愛い子です――」


 激情のままウィアードを蹴り飛ばしたルルイエは、艶やかな黒髪をたなびかせ、タンッと振り上げた足を床に下ろした。


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