13 妖精

「ア、アッセルって……先月遺体で発見された方ですか……?」

 アドリアンが震えた声でヴァン・ヘルシングと伯爵に尋ねた。

「ああ。私が検死を行った……。何故気づかなかったのだろう……。クララさんが、アッセル邸のところでルスヴン卿に襲われたと話した時に気づくべきだった……」

 ヴァン・ヘルシングはやるせなさそうに深いため息をついた。

「エイブラハム、今は悲観しているよりも、先ずはあの吸血鬼をどうにかせねば」

 伯爵が頭上から言ってきた。

「それはもちろん、忘れてないさ。おまけに吸血鬼になってしまったであろうアメリア・アッセルも何とかしなければ、あそこにいるご令嬢たちが――」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵を見つめて少し考えると、よし、と一言。

「ヴラド」

「何だね?」

「ルスヴン卿はどうやら美人な女性には目がない御人のようだからな? 隠れ家を割り出すためだ。女に変身して“誘惑”してこい」

 話の内容とは裏腹にヴァン・ヘルシングは深刻な表情で伯爵に言った。そんなことを言われた伯爵は嫌嫌そうに眉間にシワを寄せ、ヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「え、嫌だ。何故俺があんなのに付け入らなければならんの――」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の言葉を遮るように、会場内の、女性たちの中心にいる若者をズバリ指差し、“ご丁寧”にルーマニア語で言い放った。

「Merge!【羅語:行け!】Vlad!」

 伯爵は、ヴァン・ヘルシングに指を差された女性たちやルスヴン卿を不満そうに見つめた――が、その目に留まったのはルスヴン卿でも、吸血鬼の毒牙に掛かってしまった女性たちでもなく、その女性たちが身に着けている髪飾りや耳飾り、ブローチにネックレス、チョーカー、指輪やブレスレット。

 そこにいる女性たちが裕福なのがすぐに見て取れる。

「……それなら――」

 伯爵は不満げな表情を一変させ、何かをひらめいたように含み笑いを浮かべると姿を女――カタリーナに変えた。

「分かった。君の言う通りに行ってあげよう。ただし――」

 カタリーナはヴァン・ヘルシングを上目遣いで見上げると、からかうように言ってきた。

「わたしに何をくれる?」

 カタリーナの言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、少し考えて答えた。

「……分かった。今夜は少し多めに血を――」

「却下」

 カタリーナは毅然とした佇まいで即答した。ヴァン・ヘルシングは困惑した様子で、少々煩わしそうにカタリーナに問い掛けた。

「なら、何が欲し――」

 突然、ヴァン・ヘルシングは口をつぐむと息をのんだ。

……“ヨカナーンの首”なんて言われたらどうする……?

【オスカー・ワイルド氏作『サロメ』参照】

 ヴァン・ヘルシングは恐る恐るカタリーナに視線を向けると、カタリーナと目が合った。

 カタリーナは自身の髪の毛先を弄びながら伏し目がちにヴァン・ヘルシングを見上げており、彼の言葉を待っている様子だった。

 ヴァン・ヘルシングは目を泳がせ、“彼女”のお気に召すものが何かをじっくり考えた。

……ヴラドの欲しい物……?

 ふと、会場にいる女性たちが目に入った。女性たちはご令嬢ともあり、流行りのドレスや飾りを身に着けている。

 ヴァン・ヘルシングはカタリーナを盗み見た。未だにカタリーナは自分の髪の毛を弄んでいる。その傍らではアドリアンとクララが固唾をのみ、ヴァン・ヘルシングが何と答えるのか、と見守っていた。

「そ、その……」

 ヴァン・ヘルシングは言葉を吃らせながら、慎重に言った。

「か、髪……飾り……は……?」

 するとカタリーナは、ふふっと嫣然の笑みを浮かべた。

「楽しみにしてるわ、エイブラハム」

 そう言いながらヴァン・ヘルシングの肩をポンポンと叩き、会場の中へと行ってしまった。

 ヴァン・ヘルシングたちはカタリーナの動向を見守った。

 カタリーナは人混みを縫ってオーケストラへと近づいていく。

 丁度その時オーケストラが演奏を終え、次の曲を奏でようとしていた。

 指揮棒を構えた指揮者に、カタリーナが声を掛けた――。


「もし、指揮者殿」

 カタリーナは指揮者の男性の背に向って声を掛けた。指揮者は驚いた様子で振り向いた。演奏者たちは不審そうにカタリーナに注目する。

「貴殿らは何か、アリアの曲を演奏出来るかね?」

 カタリーナの問いに指揮者は少し考え、答えた。

「少し前にドイツのソプラノ歌手のリサイタルで『ヴィリアの歌』を演奏しましたが……」

「ほう。レハールのオペレッタ『陽気な未亡人』かね?」

「はい。……それが何か?」

 指揮者は不審そうにカタリーナを見つめた。

「では、ファンファーレの部分から演奏してもらえるかしら?」

 カタリーナの言葉に指揮者は苦笑いを浮かべた。

「演奏は出来ますが……どなたが歌うんです? まさかとは思いますが――」

「もちろんわたしだが?」

 カタリーナの自信のこもった返事に指揮者は思わず失笑した。

「あなた様がですか?」

 どうやら指揮者は、カタリーナは、声は綺麗だが音楽などの教養はないご令嬢だろう、と高を括っていたらしい。

 カタリーナは腕を組むと、白い目で指揮者を見つめた。

 指揮者はカタリーナの様子に恐縮し、コンサートマスターに何か耳打ちをした。するとコンサートマスターが他の演奏者たちに、伝言ゲームのように指揮者の言葉を伝えた。

 指揮者の言葉を聞いた演奏者たちは渋々と楽器のつば抜きや軽いメンテナンスを行い、オーボエ奏者が“A”の音を吹いた。その音に続いて他の奏者たちも吹き始め、チューニングをし直す。

 チューニングが終わり、指揮者がカタリーナにおずおずと合図をした。カタリーナがうなずく。

 指揮者が指揮棒を構えると演奏者たちが楽器を構えた。そして指揮棒が振られ、トランペット奏者が高らかにファンファーレを奏で、カタリーナが歌い始めた――。


“Nun laßt uns aber, wie daheim, jetzt singen unsern Ringelreim von einer Fee, die - wie bekannt - daheim die Vilja wird genannt.”

『今は、私たちの故郷で語り継がれている、とある妖精の歌を歌いましょう。

その妖精は、故郷ではヴィリアと呼ばれていることで有名なのです』


 木管楽器が軽快なメロディを奏でた。それに次いでカタリーナは甘く切なげな声で歌う。


“Es lebt' eine Vilja, ein Waldmägdelein,

Ein Jäger er schaut' sie im Felsengestein.

Dem Burschen, dem wurde so eigen zu Sinn, Er schaute und schaut' auf das Waldmägdelein hin.

Und ein nie gekannter Schauer faßt den jungen Jägersmann;

Sehnsuchtsvoll fing er still zu seufzen an:”

『ヴィリアという森の少女がいました。

狩人は岩山で彼女を見つけました。

少年は不思議に感じながら森の少女を見つめていました。

そして未だかつてない戦慄に捕われた若い狩人は、静かにため息をつき、切望しました』


“Vilja, o Vilja, du Waldmägdelein,

Faß' mich und laß mich dein Trautliebster sein.

Vilja, o Vilja, was tust du mir an?

Bang fleht ein liebkranker Mann!:”

『ヴィリア、ああヴィリア、森の乙女よ、僕を捕らえて君の愛する人にしておくれ。

ヴィリア、ああヴィリア、君は僕に何をしたの?

恋に落ちた男は強く願う!』


 カタリーナの歌声に来賓者たちはたちまちカタリーナに注目し始めた。

 ヴァン・ヘルシングは心打たれたように呆然とし、無意識に会場へと入っていく。

……やはり、あいつは“妖精”なのかもしれない。

 アドリアンとクララもヴァン・ヘルシングを引き止めるのを忘れ、会場の、アーチ状の入り口の影から聴き入っていた。


“Das Waldmägdlein streckte die Hand nach ihm aus

Und zog ihn hinein in ihr felsiges Haus; Dem Burschen die Sinne vergangen fast sind,

So liebt und so küßt gar kein irdisches Kind.

Als sie sich dann sattgeküßt verschwand sie zu derselben Frist!

Einmal noch hat der Arme sie gegrüßt:”

『森の少女は彼に手を差し伸べると、岩の家の中へと引いて行きます。

少女の接吻に少年の感覚はほとんどなくなってしまいます。

この世の子供はこのように愛したり接吻はしないのです。

彼女は接吻に満足したかと思えば消えてしまいました!

可哀想な少年はもう一度彼女に呼び掛けました』


“Vilja, o Vilja, du Waldmägdelein,

Faß' mich und laß mich dein Trautliebster sein.

Vilja, o Vilja, was tust du mir an?

Bang fleht ein liebkranker Mann!”

『ヴィリア、ああヴィリア、森の乙女よ、僕を捕らえて君の愛する人にしておくれ。

ヴィリア、ああヴィリア、君は僕に何をしたの?

恋に落ちた男は強く願う!』


【フランツ・レハール氏作曲オペレッタ『メリー・ウィドウ』より『ヴィリアの歌』】


 演奏が終わると、会場内は拍手の音であふれ返った。

 会場の来賓者の男性たちだけでなく、ルスヴン卿に夢中になっていた女性たちもいつの間にかカタリーナの歌声の方に注目しており、ルスヴン卿の周りには誰もいなかった。そのルスヴン卿ですらカタリーナに熱い視線を向けていた。

 カタリーナは一礼し、歩き出すと、その周りに来賓者たちが集った。

 来賓者たちはカタリーナに夢中で、“彼女”の名前を聞き出そうと躍起になるが、カタリーナはそれを上品にかわし、歩みを止めない。その先にはヴァン・ヘルシングが立っていた。

 ヴァン・ヘルシングは人混みの中、優雅に立ち振る舞うカタリーナの姿を捉えたとたん、体中に熱が駆け抜けたようにカッと熱くなった。

「ヴラド……」

 ヴァン・ヘルシングはにこりと笑顔を浮かべ、カタリーナに歩み寄ろうとした時だった。

 突然目の前に男が入り込み、カタリーナとの再会を邪魔してきたのだ。

 ヴァン・ヘルシングは驚きに目を見開き、横入りしてきた男を見上げた。

……あっ……。

 ヴァン・ヘルシングは言葉を失った。

 その男はなんと、ルスヴン卿だったのだ!

 ルスヴン卿はヴァン・ヘルシングの存在などお構いなしに、我先にとカタリーナの目の前にしゃしゃり出ると、カタリーナに上品ぶったお辞儀をした。

「Good evening, my lady.」

 ルスヴン卿は何かを含んだ笑みを浮かべると、カタリーナの手を取り、手の甲に唇を落とした。

「あら、積極的ですこと?」

 カタリーナは嫣然の笑みでルスヴン卿を見上げつつ、口付けされた手をスッと引き抜くと、手の甲をそっとドレスでゴシゴシと――ルスヴン卿に見えないようにして――拭った。

 カタリーナに集っていた来賓者は、目の前の“美男美女同士”のやり取りに入り込む隙がないと思い知らさせられたのか、少しずつ散り散りになり、会場内はようやく最初の頃の賑わいとなった。

 ヴァン・ヘルシングはしばらくカタリーナとルスヴン卿を見つめていたが、カタリーナがこちらに来る様子はなく、それどころかルスヴン卿との話に花を咲かせているように見えた。

 二人のその様子に何故か、言葉に出来ない、よく分からない感情があふれ、胸が押し潰されそうになった。

……あんなこと、言わなければ……。

 ヴァン・ヘルシングはうつむくと、きびすを返してとぼとぼとアドリアンとクララの元へ戻って行った。 

「先生、作戦、上手くいきましたね」

 アドリアンが笑顔で言った。

「そう、だな……」

 ヴァン・ヘルシングは少し落ち込み気味に答えると、先ほどの長椅子に力なく腰掛けた。

 ヴァン・ヘルシングの様子に首をかしげるアドリアンだったが、その隣でクララが小声で耳打ちする。

「……ヴァン・ヘルシングさんはきっと、ドラキュラさんに、“誘惑してこい”って言ったことを後悔してるのよ! これぞ“恋の駆け引き”っ!」

 クララは眉間にシワを寄せ、まるで力んだようにグッと拳を構え、震わせた。

 アドリアンはそんなクララの言葉に呆れ、あ、はい……と受け流すのであった。






※ドイツ人の両親を持つ、オーストリア=ハンガリー帝国出身フランツ・レハール氏作曲、オペレッタ『陽気な未亡人【独語:Die Lustige Witwe】』は1905年にウィーンで初演されたドイツ語のオペレッタ。

 主人公の、老資産家の夫を亡くした未亡人ハンナと、その元恋人ダニロの、莫大な財産をめぐる、焦れったい恋愛劇。

 日本では英語名の『メリー・ウィドウ【The Merry Widow】』で知られている。

 因みに本文中で引用させていただきました『ヴィリアの歌』の日本語訳は私です。悪しからず。

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