一秒違いの世界

月菜にと

第1話 通常の世界から一秒違いの世界へ

 まだ少し寒さの残る風が吹く中、雲は笑顔を誘うように様々な形に変化し、朝日は柔らかで温もりのある日差しで包み込もうとしている。そんな休日――


「朝早くから何処に行くんじゃ?」


 驚いたように大声を出したあやの父は、花壇の一部を大量の土で覆っている。駐車場を拡張しているのだ。父はDIYが趣味だ。だが、時折しでかして、母に叱られている。


 彩が水平に張ったリードを引き寄せた。赤色の首輪をつけている白色の雑種犬が、足を止められ、恨めしそうに振り向く。名前はポニーだ。


「友達のところ」


 彩が振り返りざま答えた直後、引き留めていたリードが弱まったのか、それを見逃さなかったポニーが駆け出した。ポニーは生まれて六ヶ月ほどだが、すでに体はかなり大きい。そして、好奇心は旺盛だ。


 ポニーに引っ張られて彩は走り出した。彼女の頭髪を赤色のゴムで留めたポニーテールが、ポニーの尻尾と同じようになびく。


 彩は引っ張られながらも、行きたい先へとリードを操り、ポニーを導く。そんな彼女は最近、同じクラスの萌美もえみから無視されるようになっていた。萌美は同級生の中でも、見た目も性格も大人びている。


 なぜ無視されるようになったのか、その理由を学級委員長の香奈恵かなえから聞いた彩は、その原因とされる同じクラスの男子、吉弘よしひろの元へ急いでいた。自称生物学者の吉弘は、早朝に野草などの観察をしていて、最近は満開のレンゲソウで埋め尽くされている田んぼにいると、SNSに投稿していたからだ。


 くねる狭い道路を駆け抜けた彩は、リードを引き寄せて停止した。目の前には、レンゲソウが田んぼ一面に咲き誇っている。


「きれい」


 見惚れる彩の足元に座ったポニーは、ぶんぶんと尻尾を振りまくっている。


よしくん」


 大きな声で呼んだ彩は、道路の縁に腰掛けた。田んぼは道路より低い位置にある。


あやちゃん。なんか用か?」


 ノートとボールペンをリュックサックに仕舞った吉弘は、彩の元へ走り寄った。道路の縁に上がると、足元に寝転がったポニーの腹を撫でまくる。


「吉くんにお願いがあるんじゃ」


 唐突で意外な言葉に、吉弘はきょとんした表情で彩の隣に座った。すり寄ってきたポニーが吉弘の膝に顎を乗っけると、吉弘は片手でポニーの頭を撫でながら彩を見た。


「なんじゃ?」


 顔を曇らせた彩は、事情を説明した。


もえちゃんがわしのことを好きじゃと? わしと彩ちゃんが付き合っとると勘違いして嫉妬しとるじゃと?」


 目を丸くして甲高い奇声を発した吉弘は、呆然とレンゲソウを見遣った。


「そういうことじゃから、一緒に萌ちゃんに会って、誤解を解いて欲しいんじゃ」


 懇願する彩に目を向けた吉弘は、甲高い奇声を上げた。


「わかった。MGT作戦じゃ」


 彩は、意味が分からないと、小首を傾げた。


「Mは萌ちゃん。Gは誤解。Tは解くじゃ」


 吉弘の説明に、彩はそういうことかと微笑んだ。そのとき、吉弘の膝に顎を乗せていたポニーが、急に立ち上がり、田んぼの中に飛び込んだ。すさまじい勢いに、思わず彩はリードを手放した。ポニーは一直線、田んぼを超えた側にある竹林に向かって行く。


 田んぼの中に飛び込んだ吉弘が、竹林を目指し駆けて行く。呆気にとられていた彩も我に返り、田んぼの中に飛び込んで吉弘を追い掛けた。


 竹林に足を踏み入れた彩は、きょろきょろと見回す吉弘の横に立ってポニーを探した。


 ポニーの姿は見えないが、ポニーのリードがこんもりした草むらの中に入っていくのが見えた。慌ててリードを掴み上げる。


 だが、リードは掴めなかった。


 再度リードを掴み上げようとしたが、リードは草むらの中に入ってしまった。


 肩を落とした彩の眼前に、草むらの葉が大きく揺れたと同時に、ポニーの首輪とリードだけが、草むらから飛び出してきた。


 ポニーの姿は見えないが、宙に浮く首輪から伸びるリードが尻尾のようになびき、地面に落ちた部分のリードは引きずられていく。


「なんじゃ?」


 見開いた吉弘の目は、宙に浮く首輪を追った。首輪は田んぼに向かっている。


「首輪しか見えんけど、ポニーはそこにいるはずじゃ」


 頭の中はこんがらかっているが無我夢中で言った彩は、引きずられていくリードを、今度こそはと、しっかりと掴み上げた。


「透明人間ならぬ透明ポニーってことか?」


 目を白黒させた吉弘が、思わずふらつき、竹に寄りかかった。


「どういうことじゃ?」

 呆然と呟く彩は、確かにリードを掴んだはずなのに、何も掴めていない手を眺めた。

「リードが手を透過した。くっきりと見えるリードじゃったのに、感触さえもなかった」


 呆然と呟き続ける彩の顔を、地面に倒れてしまった吉弘が恨めしそうに見上げた。


「彩ちゃん。竹も透過するで」


 はっとした彩が見下ろした。


「これ、見てみ」


 立ち上がった吉弘は、竹に手を突っ込み、上下左右に振ってみせた。くっきりと見える竹だが、吉弘の手は竹を透過している。


「ポニー」


 心配そうに呟いた彩が、田んぼに向かって駆け出した。意表を突かれた格好で、吉弘が後を追いかける。

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